翡翠の歌

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料理 : キャビアを添えた野菜料理 [神父暗殺]




日本でロシア料理いえば、ボルシチやピロシキ、ロシア紅茶やロシアケーキ(ジャムの載ったビスケット)でしょうか。当然、現地では、家庭料理でももっと種類がありますし、レストランでは以前から結構、視覚的美意識の高いものもありました。私の感覚的には、モスクワがますます魔都化してきた2015年くらいから、それに更に磨きがかかりました。もともとロシア人のセンスは、欧米に劣らず、舞台芸術も美術も工芸品も素晴らしいですから、料理でも発揮されていました。





料理は、全体に、薄味、です。これはロシアに限らず、欧米もそうだと思います。プラス、酸味、も。


私の親も、それを体験してから、「日本は塩分過多で高血圧多し」がWHOの言いがかりではない、とわかり、食生活を見直しました。また、日頃、そのような食生活をしていた影響か、修学旅行で訪れた時、クラスメイトは毎食、口に合わず苦労したようですが、その傍らで、私の子は、「え? いつもの味だよ」とモリモリ食べて、バテなかったそうです。


ですから、ロシア料理を作ってみる時は、ロシア人かロシアの味によく馴染んでいる人のレシピを用い、その分量通りにするのが基本です。まあ、物足りなければ、塩味を足しても…止むを得ませんが。食事は「楽しみ」なので。





さて、原作の中でもいろいろ"料理"や"食べ物"がありますね。ロシア編では、疑惑のテリーヌ(?)や後回しにされたシチューが有名です。


実際の神父暗殺にも多くの料理やお菓子、お酒やお茶が出され、しこたま青酸カリが仕込まれていたようですが、効き目なし。最終的には銃で撃ち、ネヴァ川に落として溺死させたとされます。実は青酸カリは空気にさらしていると効果が減る(なくなる)らしく、毒の扱いに慣れていなかった首謀者たちのミスとのこと。味見するわけにもいきませんしね。


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以下、暗殺についての、《THE  YUSUPOV  PALACE》からの引用です(原文は英語)


・・・ユスポフ宮殿の東側1階には、モイカ運河の堤防から"若夫婦の居室"へと続く、独立した正式玄関ホールである"小玄関"がある。その左側にあるいくつかの小部屋は、フェリックス・ユスポフが『ガルコニエレ』として意図したもので、妻を連れずに一人でサンクトペテルブルクに来た時のための私室である。建築家アンドレイ・ベロボロドフが設計したこれらの居室は、宮殿の他の部分とは仕切られている珍しいもので、小さいながら、とても居心地がよい。


最初のロビーは半円形で、カーマインレッドで塗られている。その隣には、珍妙な小部屋がある。八角形のすべての面が鏡張りの扉になっており、そのうちの4つは偽物で、残りは他の部屋に通じている。鏡張りの天井がその"錯覚"効果を完成させている。


次は書斎で、ミニチュアのような居室の中で最も大きく、最も優雅な部屋である。この部屋は古典主義様式で装飾されているが、メインの公の儀式用のとは異なり、ここではより親密なスタイルになっている。


八角形の鏡張りの部屋の下には、オークの手すりがついた非常に狭い木製の螺旋階段があり、地下へと続いている。中間の踊り場には、外側の中庭に通じるほとんど目立たない扉がある。地下室には、ベロボロドフがダイニングルームに改装した、低い天井の、あまり広くなく、どちらかというと陰気な部屋がある。重い丸天井、花崗岩を模した灰色の壁、大きな花崗岩の板の床、灰赤色の天然花崗岩の大きな暖炉は、中世の悲劇的な暗いドラマの理想的な舞台のようだ。賢明なアレクサンダー・ベノワが言った「ここで何かが起こる」という言葉を思い出さずにはいられない。不足していた調度品は、内装が終わり次第、設置された。?


物置から運ばれてきたのは、フェリックス・ユスポフが選んだものばかりだった。木彫りで革張りの、年季の入った黒ずんだ椅子、背もたれの高い重厚なオークの肘掛け椅子、「古代の刺繍で覆われた小さなテーブル、象牙のボウル、その他たくさんの珍品...」。「大きなペルシャ絨毯が床を覆い、隅の黒檀のキャビネットの前には白い熊皮の絨毯が敷かれていた...」。11時までに地下室の準備はすべて整った。フェリックス・ユスポフは回顧録の中で、「快適な家具と照明とで、この地下の部屋の重苦しい雰囲気は払拭された」と書いている。その2時間後の真夜中、彼はこの地下室で客人のグリゴリー・ラスプーチンをもてなした。ビスケット、ケーキ、青酸カリ入りのワインを振る舞い、ギターを弾き、ロマンスを歌い、毒が効いてすべてが終わるのを怯えながら待った。他の共謀者たち、皇室の寵児ドミトリー・パヴロヴィチ大公、帝政堅持派、ウラジーミル・プリシュケヴィチ下院議員、従軍したセルゲイ・スコーチン・プレオブラジェンスキー衛兵連隊中尉とスタニスラフ・ラゾヴェルト医師は、極度の緊張と不安の中、一階で待機していた。後にユスポフ宮殿での血なまぐさい出来事がロシア全土に知れ渡った時、彼らの名前は公表された。


あの12月の夜の悪夢は永遠に続くかのようだった...。貴族の陰謀家たちは、密かに音もなく犠牲者を始末することに失敗し、宮殿内だけでなく、何度もラスプーチンを撃たなければならなかった。グリゴリーは階段の踊り場にあるドアから逃げ出した。夥しい出血をしながら、外庭を囲む手すりの門に辿り着き、モイカの堤防に飛び出そうとした。そこで彼は、誰よりも優れた射撃手であり、最も冷血な男に撃たれた......。しかし、いったい誰に? 歴史言語学部を卒業し、生涯を政治・社会活動に捧げた近視眼的なプリシュケヴィチだったのだろうか。彼は"ロシアの救世主"の冠をかぶり、血なまぐさいドラマを興奮気味に日記に綴った。それとも、1916年当時も、それ以後も、名前を公表することができなかった外国諜報機関の専門家、将校、工作員によるものだったのだろうか。


ツァーリと祖国に忠誠を誓うロシア貴族の館で、国の運命に重大な影響を与える恐ろしい犯罪が行われたあの夜から、ほぼ100年が経った。陰謀に加担した者、そしてその陰謀を利用した者たちは、自らの名前を秘匿したまま、とうの昔にこの世を去った。にもかかわらず、未解決の謎や説明のつかない不可解な状況、推測や憶測、伝説や巧妙な捏造が残っており、その数は時を経ても減ることはない。グリゴリー・ラスプーチンがロシアにとって何を意味し、誰が彼を殺したのか、その真相はいまだ不明である。『グリゴリー・ラスプーチンの暗殺』の展示は、この恐ろしい事件が準備され、実際に起こったまさにその部屋で開催され、ラスプーチンの人生と人格に関する多くの情報を提供し、彼の死の状況について様々な説明を提供している・・・





のちに、フランスに亡命したフェリックスは、そこで、ラスプーチンの娘に殺人罪で告発されますが、無罪となりました(フランスでの出来事ではないということで)・・・