(1)
伯爵は、レオニードは私を愛しているって、やっと気がついたって。
愛って、何?
彼の愛って、何?
伯爵は、私には男心が分からない、って。
レオニードが私に求めているのは・・・従うことだけ。
好きな時に好きなように抱ける女。
自分の気にいる態度や返事しか許さない。
それでは人形と同じ。
人間を・・・生きている人間を愛しているのとは違う。
クラウスは・・・彼だって強引、そんなに優しくされた思い出なんてないもの。
でも、違う、レオニードとは。
あの男は私のこと、これ以上ないくらい知っている。
クラウスは何も知らないのも同じ。
でも、知っているかどうか、そんなことで決められるものではない、愛は。
* * * * *
もうすぐ、彼の誕生日がやってくる。
試しに、お祝いをしたいって言ってみた。
私のを祝って宝石も贈ってくれて・・・それに約束通り、橇遊びにも・・・列車に乗って随分と遠くて、その分たくさんの綺麗な雪があった・・・そのお返しがしたいって。
いい歳の大人がって言ったけれど、残念そうに見えたのか、お前がやりたいのならと譲ってくれた。
「あの・・・カレンもお招きしたいの」
「いいだろう、ご夫妻で招待しなさい」
「え? でも・・・私・・・」
「大丈夫だ、セルゲイとは気心が知れている。無論お前の素性は秘密だがな。鍵やアレクサンドラたちの話題も厳禁だ」
*
念入りに準備を進めた。
アンナと相談して・・・まず招待状を作って、おもてなしのお料理やお酒も十分吟味した。
衣装も誂えた、この前の贈り物に合うものを。
そして、私には何もないからカレンとの演奏を贈ろうと、幾度か二人で音を合わせた。
*
その日、私は・・・いつものように聞き役に徹した。
していい話なんか、多分ないもの。
陸軍省が作った、ウクライナ人マフカ・アレクサンドロヴナ・ロサコワの薄っぺらな経歴のほかは。
セルゲイは一緒に諸外国を遊学した仲だという。
ドイツ、イタリア、フランス、イギリス、それからアメリカ。二年以上かけてまわったらしい。
時々冗談を交えて披露されるその思い出話は聞いていて楽しかった。
彼にもそんな時代があったのだって、考えてみれば当たり前のことが不思議だった。
そして私たちの演奏。
アレクサンドラの話を知ってからは心が通じ合った気がする。
本当に・・・爛漫な"春"にはそぐわない二人・・・でもね、今はまだ見えない春の訪れを信じている、切望している気持ちは篭っていたと思う。
終わって、彼を見た。
・・・あんな表情は初めてだった・・・これまで一度だって・・・。
あの男の心は・・・私次第・・・。
こういうこと? 伯爵・・・。
彼の愛・・・もし本当にそれがあるとしても私には理解できない愛だけれど、受け入れて自分の為に利用します。
ただし支配はされない、与えもしない。
* * * * *
「何を、誰を探している?」
「え? いえ、な、何でもない」
「気にするな。あいつにはもう我が家の桟敷は使わせん」
「・・・そう・・・ありがとう」
アナスタシア・・・。
今夜も会えなかった。
結婚したばかりで忙しいのかしら。
でも諦めない・・・この程度のこと。
彼に誘われるまま、こうしてよく顔を出していれば、いつかはきっと。
* * * * *
外出も増え、人形のような表情に微笑みが戻り、声にも張りが出てきたのはよいが、まったく・・・私の誕生祝いを思いつくとは。
面映ゆいが、長く続く単調な日々の刺激になればと許した。
招待状を幾つも買わせてきて散々悩んで選んだり、夫妻や私の好物を聞き出しては献立をあれこれと検討したりと楽し気だった。
本当にまだまだ子どもなのだ。
*
セルゲイはカレンから聞いているはずだ、彼女はウクライナ貴族で、留学の際、私と出会いここに囲われていると。
全てを信じてはおらぬだろうが、疑う必要も突き詰める必要もあるまい。
愛人の素性など詮索するのは野暮というものだ、お互いに、な。
天使は誕生祝いに贈ったサファイアをつけ、薔薇色のドレスを纏った。
二人に見せるのさえ嫉妬するほどの美しさだ。
自分の話は何もせず、気の利いた相槌を打ちながら会話を聞いていた。
そして、私に贈られたソナタ・・・。
これほど素晴らしい誕生祝いは・・・人生初めてだった。
* * * * *
(2)
うっかり沈黙が続いてしまった時、掛けられる言葉はいつも同じ。
「欲しいものは?」
「・・・いいえ、何もかも充分、あなたのおかげです。感謝しています」
「・・・香水は?」
「えっ?」
「欲しいのだろう?」
「あ・・・あの・・・」
「アンナの話を気にしているのか?」
「い、いえ。もういいの、ちょっと聞いてみただけだから」
「強い香りがよいとか」
「あ・・・私、香水、つけたことないから・・・よく知らなくて。お、お姉様の香りがいいかしらって思って。遠くからわかるような強さだったから」
あなたの匂いを消すためだなんて言えないでしょう?
「そうか。では今度選びに行くか?」
「え?」
*
待ち構えていた店主に披露された三つの小瓶からはどれも良い香りが漂う。
彼の好みを元に選び出されたこの中からって・・・どうしてこんな難しい問題を出してくるの?
あなたしか正解を知らないのに。
どれを選べば機嫌を損ねないのだろう。
と言ってどれでもいいなんて返事をしたらそれはそれで。
あまりの緊張に気持ち悪くなりながら、どうにか理由をつけて一番弱い香りを選んだ。
見上げた彼の表情はいつものように変わらなかったけれど、普通に抱いていったから、きっとこれでよかったのだ。
香水を選ぶ・・・本当ならとても楽しい時間でしょうに。
主が求めたとなると、アンナはふんだんに使い始めた。
自分で蒔いた種・・・あの男の好みの香りに全身が包まれてしまった。
* * * * *
(3)
「音楽室においでです。すぐにお呼びしてまいります」
「いや、日課を乱すのはよくない。あとどのくらいで終わりそうだ?」
「はい、もうすぐお茶のお時間ですので半時ほどかと」
「それならばやらせておけ。サロンのほうでお茶をもらおう」
新しい曲か。
同じところを幾度も弾いている。
このような音も意外に落ち着くものだな。
日常的な音。
私に対する憎しみも恐れも軽蔑も含まぬ音。
父上達が戻って来られる・・・ヴェーラも近々。
いくらアデールが寄り付かなくとも・・・共に暮らせはせぬか。
まったく・・・この事態に・・・何を考えているのだ、私は。
* * * * *
「奥様、お茶の御仕度ができました。それに、先ほどからサロンで若旦那様がお待ちです」
「え? さっきからって? なぜ呼んでくれなかったの?」
「お指図で、練習が終わるまで、と」
何だろう。
私の生活に気を遣うことなどなかったのに。
ともかく開口一番に謝らないと。
そっと入ると、上着をはおった彼は足を組んで長椅子にもたれ座っていた。
珍しい・・・葉巻を吸っている。
「あ、あの、ごめんなさい。気づかなくて」
「なに、構わん。陸軍省に戻る途中で少し寄ったのだ」
「それならなおさら・・・」
「・・・ここに」
近づいて見るとカップが空になっている。
どれだけ待っていたのだろう、どんな仕返しをされるのだろう。
呼べばいいのにわざわざ落ち度をつけさせるなんて・・・大丈夫、おとなしく従っていれば・・・
ともかくカップを手にサモワールのところへ行く。
ロシア式のお茶を入れるのにも慣れてきた。
人によって好みが異なるからコツがいる。
彼は・・・このくらいの濃い目が好き。
黙って数口すすると私を引き寄せた。
どうしたの? 今日は。
余計なことを聞いて怒らせるのも嫌だから、黙って見上げていた。
「何だ?」
「え? 別に・・・」
「何か言いたげな顔だったぞ。また無理難題か?」
「そんな・・・ただ・・・元気が・・・ないみたいで・・・どうしたのかと」
「・・・お前に言われるとは情けない話だ」
「・・・ごめんなさい」
それならどう答えてほしかったの?
お願い・・・早くすませて陸軍省へ行ってよ。
「案じてくれるのか?」
「・・・それは・・・ご主人様だから・・・」
「まったく、お前は嘘がつけんな。まあ言葉通り受け取っておこうか。さあもう行かねば」
「え?」
「心配するな、顔を見たかっただけだ」
「・・・」
「また近いうちに来る。その時には今日練習していた曲を聴かせてもらおう」
「?・・・ええ、わかりました」
何だろう・・・気味が悪い。
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