翡翠の歌

10 空




(1)



「塔に?」
「はい、空がご覧になりたいとかで、このところよく上られています。ニーナが控えております」


空か・・・自由を求める心の表れか?
だとしても、こんな曇天を見てどうなると言うのだ、気が沈むだけではないか。
あいつの行動はよくわからん。
まあ、特にすることもないのだ、一種の暇潰しか。

もっとも、現状のままではまずい気もする。
精神の安定の為には何か生き甲斐のような、やるべきことを与えなくてはなるまい。
と言って、闇雲に外部の人間と接触させるわけにもいかぬ。

ヴェーラに任せてみるか。
だが、まずこの状況を納得させるのに骨が折れそうだ。
相変わらずモスクワに留まったままでもあるしな。





上って行くと、一つだけ残された窓から弱い夕陽が差し込んでいた。
まったく、よくやる。
アンナに任せておけば逃げられることはあるまい。

手振りでニーナを下がらせ、しばらく見ていた。
窓枠に腰掛け、じっと外を眺めている。

空をと言うより、この世ではないどこかに視線が向けられ、ガラスがなければ飛んで行ってしまいそうだ。
どのような生き方をすればこうなるのか。



やがて一歩踏み出した足音に気づき、振り向きざまにソプラノを発した。


「クラウス?」


彼女ははっとして怯えた表情になった。
それは私の前で口にしてはならぬ名だ。
命じたわけではないが、二人の間では了承済みのはずだった。


*     *     *     *     *



(2)



もっと広い空が見えるところはないかしら?
でしたら、東の塔はいかがでしょう


レーナに教えてもらったここからは少しは遠くまで見える。
でも七つの窓には板が打ち付けてあって・・・景色はごく限られている。
こんな・・・何の力もない私にここまで警戒する必要がある?
何だか私で憂さ晴らしをしているように思える、アンナも。

残された貴重な窓辺に立つと、曇り空にもかかわらずロシアの建物が煌めく。
そして・・・ぎりぎり視界に入る右端の一角の緑はスモーリヌィ修道院では?
二重窓でしかも鍵が掛けられているから乗り出して見られないけれど、あの感じ、記憶にある。
そうだとしたら、やはりここはサンクト・ペテルブルクで、部屋の前の運河はネヴァ河に続く。





あの時あの窓から、ロシアの空が見えるって言っていた。
意味はわからなかったけれど瞳は悲しそうで、それでいて強い光を湛えていた。

お兄様はすぐ前に処刑されたと・・・同じ音楽家に密告されて。
無邪気な学友に囲まれてもどこか冷めた彼は、もう人生の辛酸を舐めていた。



私は今、そのロシアの空の下にいる。
でも、あなたはシベリアの彼方へ。

"人々の勝利"・・・偽りの名にすら決意を込めたあなた・・・。
情熱はシベリアの地でも冷めていない?
それどころか、以前にも増して熱くたぎっている?



いつかまた会う時は訪れるのだろうか。
レオニードはあり得ないと言う、諦めろと。
彼は生涯を最果ての監獄で終え、私はこの美しい監獄で終える・・・。

いいえ、信じよう。
一度は会えたのだから。





あんまり一心に考えていて、背後でした靴音に思わず声をあげてしまった。


「クラウス?」


ああ、絶対言ってはいけない相手だった。
レオニード・・・私を捕らえている男。

黒い瞳に苛立ちが透けて見える。
無言で近づき両手を強く強く掴んだ、そんな力は必要ないのに何の加減もしない。
窓に押し付け覆い被さってきたので、思わず横を向くと代わりに耳を弄んで、首筋を降りていった。


「やめて!  こんなところで・・・」
「お前がそうさせたのだろう」
「嫌よ!  やめて!  お願い!」


神様・・・私の罪はこれでも贖えないのですか?
ああ、逃れられないのなら、せめて早く終わって・・・。





降りて行く足音は二人のものだった。
誰かが・・・たぶんロストフスキーが・・・控えていたのだ、また・・・。

そして着替えを持ってアンナが上がってきた・・・なんて周到な。

わかっていたことが今更心の奥底まで沁みてきた。
この屋敷に味方は誰もいないのだ。



塔には・・・もう二度と上らない。
体だけではなく、数少ない想い出も穢されてしまったのだから・・・。

彼は私から何もかも奪っていくつもりだろう、命以外の、何もかもを・・・。





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