今夜訪れると聞いて、何とも言えない気持ちになった。
秋口から国境を巡り、年末、都に戻りそのまま行事をこなしていたみたいで、ここには来なかった。
ずっと来なくていい。
私のことなど忘れてしまえばいい。
私はおとなしくこの屋敷に監禁されていよう。
それがあなたの望みであり、それであなたの任務は果たせるでしょう?
アンナたちは主を迎えるため張り切って準備している。
その様子を見ながら、どんな表情をするか考えた。
愛人の礼儀としては穏やかに微笑み、主の無事を喜ぶべきだろう。
でも私は愛人ではない、彼がどう思っていようとも、どう扱おうとも。
三月前のあの朝・・・あの別れ方。
喉を伝う血の味が今も蘇ってくる。
散々のことを言われ散々のことを言い返し、散々ぶたれ貫かれた。
結局・・・彼にとっては私の言葉など何でもなかった。
拒絶しても・・・拒絶とは受け取らない。
もう妾だと、愛人だと・・・。
改めるべきは私だ、と。
だから新聞も宝石も贈ってきた。
今夜も・・・平然と抱くのだろう、飼い主として。
・・・そう・・・娼館に売り飛ばされないように・・・クラウスのために。
本心を隠して表面だけ従っていればいい・・・その程度の男。
でも・・・嘘をつくのは、下手。
*
夕刻、身支度を整え本を読んでいると、レーナが到着を知らせてきた。
どんな表情をするのか、まだ決めてはいなかった。
愛人らしい振る舞いなどしたくはないけれど、かと言って機嫌を損ねればクラウスにどんな意趣返しをされるかわからない。
まして三月ぶり、迎えに出向くのをきっと期待している。
足取りは重くぐずぐずと部屋を出て見下ろすと、外套を脱ぎながら見上げた彼と目が合った。
相変わらず憮然としていて、私といい勝負。
まったく・・・抱きにきただけのくせにもう少し愛想よくできない?
今更気取る関係ではないでしょうに。
その時、私を見たシュラトフ大尉の何か驚いた一瞬の表情に動揺し、部屋に戻ってしまった。
大尉とは一年ぶりに顔を合わせる。
恐らく私の変わりように驚いたのだ。
ロストフスキーほどではないにしても、感情を面に出さないはずの彼に意図せず辱しめられた気持ちで暗然となった。
*
仕方がないと言う表情でアンナが呼びに来た。
晩餐室に入るとすでに食前酒を口にしている。
チラと見ると、席に着くよう僅かな身振りで示した。
さすがに無言ともいかず、歩み寄ってお帰りなさいと言うと立ち上がり、ただいま、と額に口づけした。
懐かしい匂い・・・葉巻と皮と硝煙の・・・いつにも増して。
体が震えた、ああ嫌だ、どこかで喜んでいる・・・。
そんな私を知ってか知らずか、あっさりと手を取り席まで導いた。
*
部屋に戻り、差し向かいでお茶を飲んでいると話しかけてきた。
さあ、気の張る時間の始まり。
これ以上失敗しないようにしなければ・・・当たり障りのない話題を提供して、言葉を選んで気に入る返事を。
「何をしていた?」
「・・・頂いた新聞を読んだり、新しい曲を弾いたり」
「面白い記事でもあったか?」
「・・・知らない言葉がたくさん使われていて、それが面白かった」
「ほう? まあ、そのような言葉を知っておかねば実際には使えぬからな」
実際に?
使うことがある? このままここにいるのなら。
「・・・そう言えば・・・」
「?」
「そう言えば、音楽学校の友人がデビューして世界ツアーに出発したと」
「友人か・・・どのような?」
「真面目で堅物で、でもダイナミックで素晴らしいピアノだった」
「芸術家とは真面目で堅物で務まるのか?」
「そう、ね。いろんな人がいるから」
本当に、イザークったら。
本人は至ってまじめなのに、おかしいことばかり。
でもそこから比類ない純粋な演奏が生まれるのだろう。
初めて出会った芸術家だった・・・それなのに疎い世事に弄ばれて。
芸術家・・・ああ、あのバイオリン!
クラウスは真面目で堅物?
根はそうでしょうね、でも・・・イザークとは違う。
「どうした?」
いけない、うっかり彼の前でクラウスを思い出していた、気をつけないと。
「あ、いえ、そのぶん浮世離れしていたから、十分芸術家よ」
「・・・お前も歩みたかったのか? その道を」
「え? 私が? 才能なんてないから考えたこともない」
「そうか? 私には芸術など分からぬが」
「ピアノをやっていたのは、お父様に必要だったから。隠れ蓑に。あんまり下手では留学できないからそれなりに頑張った。所詮それだけの話」
「身も蓋もない言い方だな」
義務として弾いていた、ずっと。
でもあの時だけは・・・あの一年だけは心からうまくなりたいと、才能が欲しいと思った。
クラウスの伴奏がしたかった、イザークを凌ぎたかった。
今思えば、初めから叶わない夢だったけれど。
「何か、弾いてくれ」
「何を?」
「静かな曲がいい」
*
終わると手を取り、立たせた。
今夜二度しくじり、またぶたれると思い、空いた手で咄嗟にピアノの端を掴んだ・・・鍵盤に頭をぶつけて死ぬなんてごめんよ。
身構えた私に悲しそうな眼差しになったのは見間違い?
しばらくその瞳のまま、まっすぐ見つめていた。
怖くて・・・でも逸らすわけにはいかない・・・禁じられているから。
やがて静かに話し始めた、まるで自分に言い聞かせるかのように。
「これまで・・・悪かった」
え?
「許してほしい」
何を・・・言い出すの?
「・・・やり直そう・・・お前と私の・・・二人の人生を」
?
二人?
あなたとの人生って、何?
やめて・・・訳のわからないことを言うのは・・・。
そうして・・・こんな優しいのは初めて・・・。
長い長い口づけの後、耳元で続けた。
「私は愚か者だ、馬鹿なことばかりしている。だが・・・会いたかった、ずっと」
もう、やめて・・・。
なのに彼は続けた・・・あり得ない言葉を。
「愛している・・・」
卑怯・・・者・・・。
憎む自由さえ奪おうと?
そのまま意識を失ったらしい、ぶたれたわけでもないのに。
気づいた時、腕と脚を絡めていた・・・。
・・・彼には・・・またとない新年の贈り物だっただろう。
でも私にとっては・・・また別の・・・地獄の扉が・・・開いたのだ。
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