(1)
皇帝陛下はなんて絶対的で偉大な方なのだろう。
民衆はもちろん、大貴族もその子どもたちも、その命と人生を思いのままにできる。
カレンは幸せに見えたけれど、そうではなかった。
別れた時は自殺まで図ったって。
一年も寝付いて夢遊病者みたいになってしまったって・・・狂いたかったって・・・。
でも今は・・・アレクサンドラの為に、再会した時の為に元気でいるって言っていた。
小さな娘が耐えているのに自分が逃げてはいけないって。
アレクサンドラによくしてもらえるように、シャーロットを大切にしているって。
私も?
私も?
いつかクラウスに会った時に狂っていては・・・。
* * * * *
「奥様、お客様が見えられました」
「どなた? カレン?」
「いえ、男の方です、どうぞお召し替えなさってサロンのほうへ」
「男性? どなたなの?」
「それが・・・存じ上げないのです、若旦那様からお指図がございまして、そのままお通しするようにと」
誰だろう、想像もつかない。
彼が人に会わせるなんて。
ああ、伯爵!
まだ痛むのに思わず駆けて広い胸に飛び込んだ。
前のように抱き締めて額に口づけしてくれた! 伯爵!
寄り添った伯爵はずっと肩を抱いて手を握っていた、時折髪を梳きながら。
懐かしい匂い、葉巻と革とお酒と、そして硝煙の。
私を育ててくれた人! どんな時にもそばにいた。
課題には厳しかったけれど、やり遂げればとても褒めてくれた。
寂しい夜には添い寝も!
大好きよ、伯爵!
「心配しました、随分と探しましたよ。ご無事でよかった」
「ごめんなさい、勝手なことをしてしまって・・・私・・・」
「恋人を追ってここまで来たと伺いました。彼は獄に繋がれているとか」
「そう、シベリアに。一度だけ・・・会えたのだけれど」
「どのような方なのです? あなたをこれ程までに虜にしたのは」
「あのね、とっても素敵なの。亜麻色の髪で背が高くて。バイオリンが上手で。でも、口が悪いの。私のこと、ばかたれって言うの、そりゃあ利口じゃないけれどね、酷いでしょう? それにね、すぐ手が出るの。最初に会った時にはね、同じ日に転入してきた子に殴りかかって。それも自分が隠れて煙草を吸っているのを見咎められたのに腹を立てたの。私、そんなの許せないから平手打ちしちゃった」
夢中で話し、伯爵は楽しそうに聞いてくれた。
私こそ楽しかった。
久しぶりのドイツ語で、クラウスのこと、口にできたのだもの。
*
「それで・・・今はこちらに?」
「・・・そう・・・レオニード・・・の・・・」
「彼を、助けるために?」
「・・・そう、よ。彼のため」
「ご立派ですよ、本当に」
「え? 立派?」
「そうです、そうやって誰かの犠牲になれる、本当に立派なことです」
思わず縋って泣いてしまった、彼はここにいないのだから、大丈夫よね・・・。
身勝手だけれど・・・わかって・・・褒めてほしかったんだ、私、誰かに・・・ここにいる意味を。
*
「あの・・・お姉様は? アーレンスマイヤ家は?」
「ふた月ほど前にお会いしましたが、ご当主はすっかりお元気になられ、精力的に事業を進められていますよ。地元の新興の・・・確かキッペンベルクと言う商会と提携を始められるようで、評判になっています。ただ、行方知れずのあなたとアネロッテ様をそれは心配されていて、直後から陸軍省を通じて秘密裏に依頼され、私が調査を担当しています」
「え? アネロッテ姉様は・・・私・・・」
「知っていますよ、毒殺・・・されたのですよね」
「知って?」
「あの夜、恐らくはあなたと入れ違いにお屋敷に伺ったのです、胸騒ぎがしたものですから。アネロッテ様は既にこと切れていました」
「・・・そう、よね」
「遺体は運び出し、然るべく始末しました。時間がなく血糊はそのままでしたが、大丈夫、誰にも・・・警察にも辿り着けません、何があったのかなど」
「・・・アネロッテ姉様・・・財産を横取りしようと・・・お父様を殺して・・・お母様もお姉様も殺そうと・・・」
「あなたは・・・正しい行いをなされたのです、皇帝陛下の御為に」
「正しい?」
「そうです、アネロッテ様は当然の罰を受けたのです、あなたによって」
「・・・そうね、そうよ、罰・・・報いよね」
「マリア・バルバラ様には引き続き調査中としておきましょう、そのほうが安らかでいられるでしょうからね・・・。ところで・・・鍵の在り処は侯爵にお教えしましたか?」
「・・・いいえ。アーレンスマイヤ家にはないと、それだけは言ったの。マリア・バルバラ姉様に危害を加えそうだったから」
「スイスの銀行については?」
「言っていません。言ったほうがいいの?」
「もし状況が変わったら、あなたの判断でお話しなさい。ただし一部分は不完全にしておくのです。そしてあなたも出向かなければ開けられないと思わせて、ここから脱出するのです。侯爵を信用してはなりません。忠誠を誓うべきは皇帝陛下なのですからね」
「分かりました。伯爵のおっしゃる通りにします」
「そうです、本当に良い子だ、あなたは。くれぐれもあなたの役目をお忘れにならないように、しっかりしなくてはなりませんよ」
「・・・でも、私・・・」
「しっかりなさい。あなたは何の為にご苦労されてきたのです? 皇帝陛下の御為でしょう?」
「・・・ええ」
「それに、クラウス・ゾンマーシュミット! 生きていれば、きっとまた会えますよ」
「そう? そうかしら?」
「お信じなさい、ご自分の力を、運命を引き寄せる力を。この広いロシアで偶然にもユスーポフ侯爵家に保護されたのですよ!? どのような形であれ、今ここに生きている事実があなたの運の強さを証明しているではありませんか」
「運の・・・強さ・・・」
「幸い、侯爵はあなたに強く惹かれています。受け入れなさい、彼の心を、彼の愛を。そうすればあなたは強くなれます」
「彼の心? 愛? そんなもの、ない、だって私のこと、ただの・・・」
「侯爵はどのような方なのですか?」
「・・・怖いの。乱暴で。ぶつの。押さえつけるのよ、手首を掴んで、体中を・・・言えない、あんまり穢らわしくて・・・自分だけが好き勝手にしているのに、娼婦だって言うの、私を。誰にでも抱かれて悦んでいるって。私、そんなことないのに、悦んでなんかいないのに」
「それは酷い。あなたはそのような方ではありません、私が一番よく知っています」
「そうよね? 私、娼婦なんかではないわよね?」
「そうですとも。あなたは私のかわいい娘ですよ、純粋で直向きな」
「よかった・・・何だか自分もよくわからなくなって・・・でも・・・最近、とても優しいの。気味が悪いくらい。愛しているって言うの、私を」
「ハハッ! 彼もようやく自分の本心に気づいたのでしょう」
「本心?」
「鈍感で不器用な男にありがちな行動ですよ。好きな女性に意地悪するというのは」
「え?」
「まして敵の男を想っている女性をどうしたらよいのか分からないのでしょう」
「?」
「やれやれ! あなたのほうはそう言った男の心情に疎いのですね。侯爵も苦労なされる」
「苦労?」
「・・・侯爵の愛を受け入れなさい」
「そんな・・・だって私は・・・」
「あなたの恋人への想いは弱いものなのですか? 現実を受け入れることと支配されることは違うでしょう? 受け入れるだけです、あなたからは与えなければいい。そうしてあなたが優位に立てばよいのです。彼を利用して生き延びて・・・いずれ恋人に会うために」
「・・・伯爵・・・私に・・・できるかしら?」
「もちろんできますよ。あなたはお母様のために八年も耐えられたではありませんか」
わかりました、伯爵、そして、カレン。
私・・・強くなります。
正気のまま生きてクラウスに会えるよう強くなります。
*
本当に名残惜しかったけれど伯爵は帰ってしまった。
また来てくれるって・・・。
きっとよ、私、頑張るから・・・今度は夫人も連れてきてってお願いした。
でも・・・受け入れるだけ・・・支配はされない、与えない・・・。
できるだろうか、そんな難しい振る舞いが。
だって・・・彼の心って、何? 彼の愛って?
いくら伯爵に言われても素直には信じられない。
確かに・・・愛しているっていう言葉は聞いた。
だけど・・・好きな人に、愛している人にあんな酷いことができる?
止めてって泣いてお願いしたのに・・・あの時だって・・・そう、あの時だって・・・いいえ、いつだって・・・ぶって・・・叩きつけて・・・押さえつけて・・・娼婦だって嘲って・・・。
でも私、ここで生きていくしか・・・ない・・・。
* * * * *
(2)
「具合はどうだ?」
「あ・・・」
「痛むか?」
「ええ・・・少しだけ・・・もう大丈夫・・・」
「まったく、大事にならずよかった。わかっているな、当面は一人で立ち歩くな」
「そんな・・・子どもでもないのに・・・」
「私から見ればお前はまだ子どもだ」
「・・・もうすぐ・・・二十よ・・・」
「ああ、そうだったな。お祝いをしよう。贈り物は何がよい?」
「・・・考えつかない・・・ごめんなさい」
「・・・それなら・・・どこか行くか?」
「え?」
「大抵のところへ連れて行ってやるぞ・・・嫌なら無理にとは言わんが」
「・・・久しぶりに・・・橇に・・・乗りたい・・・」
「橇、か。私も久しぶりだ。用意しよう」
「・・・伯爵とね・・・よく乗った・・・とてもうまいの・・・伯爵は・・・」
「そうか」
額に口づけすると、強張らせて身を起こそうとした。
「どうした? 寝ていなさい」
「ううん・・・もう大丈夫・・・だから・・・」
「何を言っている?」
「だから・・・寝室に・・・ここでは・・・嫌・・・」
「・・・このような・・・怪我人を抱くと思うか?」
「大丈夫よ・・・お願い・・・」
「・・・回復したら、な。今は休んでいろ」
「大丈夫・・・できるから・・・私の・・・お願い・・・帰らないで・・・」
「いい加減にしろ。奴に手出しなぞせん。ゆっくり養生しろ。今はそれが役目だ」
「・・・本当・・・に?」
「本当だ」
「・・・本・・・当・・・?」
「ああ、本当だ」
「・・・ごめんなさい・・・不注意で怪我なんか・・・すぐ・・・元気になるから・・・許して・・・」
「わかった。もう休め」
台無しにしたのだ・・・私は・・・自分に逆襲されている。
*
あの日、伯爵とは二人きりで会わせた。
隣室での監視も考えたが、恐らくは交わされるかなり立ち入った話を、いくらロストフスキーであっても聞かせるわけにはいかぬ。
それに、あの伯爵が自分や彼女の立場を悪くする真似はしまいという目算もあった。
茶菓子を出した時に様子を見たアンナによれば、寄り添って座り全身を預け手を繋ぎ、初めて見るにこやかな表情をしていたという。
奥様に何て言うことを・・・奥様も奥様です、と憤るアンナを、親代わりの人物だからと宥めておいたが。
いくら親代わりとしても、もう二十だ。
普通の娘の振る舞いではない。
不安定な精神状態ゆえであろうが、あいつは・・・男を男と思っておらぬ。
素直で優しく、計算や下心がないのは美点ではあるが・・・あの役目には向かぬな。
そして男のほうは・・・そう無邪気でもいられまい。
*
同じ悩みを抱えるカレンや親代わりの伯爵に会わせたのが、精神を多少は安定させたのだろう、急にどうというわけでもないが、少し変わってきた。
原因不明の、いや恐らくは精神的なものによる意識障害も治まってきたようだ。
やはり二年もの、閉じ込め、誰にも会わせぬ日々が、私に抱かれるだけの日々がまずかったのか・・・。
正直、ここまで従わぬとは思っていなかったのだ。
もっと早く・・・数夜、褥を共にすれば素直に妾になると・・・。
先日は誕生祝いに橇に乗せてやった・・・それもよかったのだろう。
雪を求めてペトロザヴォーツクに数日留まり、林や丘を駆け抜けた。
久しぶりだと言っていたが私もそうだった。
軍務ではともかく、単なる娯楽としてはいつぶりだろう。
伯爵は橇の扱いがうまかったと言うから、その向こうを張って思いきり滑らせる。
そうして白樺林を抜け、少し開けたところで小休止した時、目を見張り、空に手を伸ばした。
「・・・掴めないのね・・・そこにあるのに・・・」
「初めてか?」
「ううん。でも何度見ても・・・神秘的」
これからは連れ出してやろう。
多少の不安はあるが・・・まあ大丈夫か、その価値はある、これだけ回復するならな。
それにあいつは利口で余計な話はせぬから、相手を選びさえすれば人に会わせてもそう心配はないだろう。
* * * * *
(3)
このところ何故かサイドテーブルに置いてあるリンゴを手に取り、その匂いを嗅いでいる。
一糸まとわぬ姿・・・イヴのようだ。
気づいて微笑む。
「好きなのか」
「ええ・・・子どもの頃に・・・。こんな立派ではなかったけれど」
「そうか」
「お母様はね、捨て子だったの。だから名前は神父様がつけたらしいの、レナーテ・アプフェルって。お供え物でも目についたのかしらね」
「そうだな」
「この間ね、夢を見たの、伯爵の」
「伯爵の?」
「そう。やっと・・・やっと言えたの、私。ずっとね、言いたかったお願いが」
「何をだ?」
「ドイツに少しだけ帰りたいって。休暇が近づくといつも思った、今度こそお願いしようって。でも・・・言えなかった」
「一度も帰国しなかったのか」
「そう。だから手紙をたくさん書いた。学校のことや街のこと、些細な話をね、滅多に使わないドイツ語で。だけど・・・返事は一通も。そして、ね・・・いつの頃か・・・気づいたの。手紙は届いていないんだって。ううん、お屋敷の外にも出ていないんだって」
「用心のため、か」
「・・・そう、たぶん。でも・・・それでも書いた、書き続けた」
「捨てられるのにか?」
「・・・だって・・・お母様も書いてくださっているって思ったから・・・お父様が捨ててしまっているだけで、きっと・・・。手紙を書く時の気持ちは・・・行き来していると思ったの。見えないけれど」
「・・・」
「ちゃんとお願いしたから、会わせてくれる。夢の中だもの、伯爵だって。だからこうして傍に置いておかないと。忘れずに持って帰れるように」
言い終え、はっと表情を強張らせた・・・またか・・・。
「ごめんなさい・・・私・・・もうしない・・・ごめんなさい」
膝の上に落としたリンゴをテーブルに戻し、そっと抱擁した。
「なに、構わん。気が済むのなら置いておけばよい。アンナにも言っておこう・・・そうだな。ならば、もう休んだほうがよいだろう。夢は・・・眠らねば見られぬからな」
* * * * *
再会してからは、よく伯爵の夢を見る。
優しくて強くて厳しくて、何でも知っているし何でもできた。
あれは・・・いつだったろう。
そう、ロシアでの最初の冬だった。
「今日からしばらく学校はお休みです」
「え? どこかに行くのですか?」
「いいえ、都の音楽学校が全て当局の捜査を受けるからです」
「捜査?」
「ある音楽家が反逆罪で逮捕されたのですよ。それで仲間がいるのではと」
「反逆罪? 反逆罪って?」
「皇帝陛下に害をなす行為です」
「害って?」
「帝政の転覆です」
「え? そんなこと? そんなことが?」
「信じられないのも無理はありませんね。ですが・・・そういう輩もいるのですよ、広い帝国には」
「だって・・・音楽家なのに?」
「むしろ文化人や知識階級に多いのです。労働者を束ねましてね。しかもこの音楽家は貴族、それも侯爵ですよ」
「え? 陛下に何か・・・恨みがあるの?」
「恨みではないのです。彼らには彼らの主義主張があるのです」
「主義主張? でも陛下に逆らうなんて、いけないこと。してはいけない、考えても」
「もちろんそうです。ただ、権力を持っていない者達は得ようとするものです」
「え? 陛下は神様から授かっていらっしゃるのでしょう? それをほかの人が・・・」
「そう、もちろん陛下は神に選ばれし特別なお方なのです。ですからあなたもお仕えしているのです。名誉に思わねばなりません。しかし世の中には不遜な者もおります。奴らの暴挙によって一時でも国外に逃れられることがあるかもしれません。その時、あなたがお力になって差し上げるのですよ。あなたの人生はそのためにあるのです」
そう。
そうだった。
それ以外の人生を考えたから・・・今、罰を受けているの?
* * * * *
別荘で誕生日を祝ってくれたあの夜。
お抱えのカルテットの演奏が流れる中での食事。
本当に久しぶりに橇に乗って・・・いいえ、外出すらそうだったから、いつになく食が進んでいた。
!
慌ててスプーンを置き、震え出した手を食卓の下に隠した。
目敏い彼はまた詰問してくる。
知らないほうがよいことがこの世にはあるってわからないのかしら。
私に嘘をつかせないで。
「どうした?」
「あ・・・いいえ・・・何でも・・・」
「・・・」
「あ、あの・・・この・・・カラケイニト・・・ドイツにも同じような料理があったと思って」
「そうか。懐かしいのか?」
「・・・あんまり・・・いなかったから、そうでもないけれど・・・やっぱり・・・」
「では今度ドイツ料理のレストランに行こう。なかなか流行っているらしいからな」
「あ、ありがとう。楽しみにしているわ」
彼に音楽の教養がなくて本当によかった・・・皮肉ね、カルテットの人たちがせっかく気をきかせて選んだ曲だったのに。
終わるまでは話しかけられないように、震えを何とか抑えて料理を口にしながら聴いていた。
祝って・・・くれているみたいだった・・・彼が・・・そして、頑張れと、自分も頑張るからと力づけてくれているようだった。
ああ、何よりの贈り物。
神様、感謝します。
* * * * *
(4)
え?
午餐から戻る途中、ふと中庭の奥に目を向けると何か輝くものが見えた。
思わず小走りに窓に取り付くと・・・。
ああ、ここにもあったなんて!
気づかなかった、今まで・・・俯いてばかりいたから。
あのお屋敷とは違って、たった一本だけれど、でも確かに。
「どうかされましたか?」
「え? ええ、あの・・・あれ・・・綺麗な花だと思って」
「今が盛りですね。お好きなのですか?」
「・・・ええ」
「お部屋に飾りましょうか?」
「・・・ええ、お願い。私の寝室に」
「いいえ、寝室に花は飾らないものです、息苦しいですから」
「構わない、私だけだもの、寝室に」
「なりません。お体のためです。居間のほうに」
「でも・・・レオニードの・・・気に障るかもしれないでしょう?」
「花の好みがおありになるなど伺ったことはございません」
「・・・」
*
不思議な花。
まるでおひさま。
天からこぼれてきた光の塊のよう。
こんなにぎっしりなのに、ふわふわと軽くて・・・。
香りは?
ほとんどない・・・植物らしい香りだけ・・・あのお屋敷のとは違うのね、残念。
でも嬉しい!
気持ちが晴れ晴れする。
クラウス・・・クラウス・・・。
ああ、この花の力であの夜に戻れたのなら。
*
「ミモザ、か」
「・・・ええ」
「好きなのか?」
「・・・ええ」
「あれにも挿んであったな、聖書にも」
「・・・ええ」
「どうした?」
「え? 別に・・・何でも」
「ごまかすな。お前は嘘がつけん」
「・・・本当に何でもない」
「・・・」
「フ、フランクフルトで住んでいたアパートの近くに・・・咲いていたから。お母様とよく見ていたから・・・思い出しただけよ」
「・・・」
「ほ、本当よ! それだけよ!」
「それだけのことでなぜ口籠る?」
「・・・だって・・・あなたが・・・急に問い詰めるから・・・怖くなって・・・」
「・・・まあ、よい」
* * * * *
「行ってみるか?」
「えっ?」
「この木のところに、だ」
「・・・」
今日は珍しく軍務も行事もない日で、午餐から来ている。
小一時間ピアノを聴いた後、今日も飾られている花を見ながら言った。
「どうした? 好きなのだろう?」
「・・・ええ。でも・・・」
コートを羽織らせ中庭に出た。
この屋敷に連れてきてから庭に出すのは初めてだ。
外気と日光に最初はぎこちなかったが、木の下では緊張も解れたようだった。
瞳はずっと花に釘付けで言葉も失っている。
碧い輝きがいつになく強い。
「どのような・・・母親だったのだ?」
「えっ?・・・お母様? あの・・・普通の・・・優しい・・・」
「優しい、か。顔立ちは? お前に似ていたのか?」
「・・・ええ・・・髪も瞳も・・・同じよ」
「生まれは?」
「・・・よく知らないけれど・・・多分、マインツ。そこの教会に捨てられてたって」
「そうか。ほかに覚えていることは?」
「・・・一度、マインツのカーニバルに行った。フランクフルトではあまり外に出たことなかったから、嬉しくて楽しくて。お菓子を買ってもらった。綺麗な赤い色のお砂糖の・・・」
「・・・では・・・今度マースレニツァの街に出てみるか?」
「・・・そう、ね・・・嬉しいわ・・・」
「お前と同じなら・・・さぞ美しかっただろうな」
「ええ・・・あの・・・もうやめて・・・あなたに・・・お母様のこと、触れてほしくない」
「・・・何故だ?」
「だって言ったじゃない、娼婦だって! 貧しいのに必死で育ててくれたお母様を!」
「・・・あれは・・・」
「戻りましょう、このために来たのではないでしょう?」
* * * * *
小走りに屋敷へ向かった。
こんなところで口づけなんかされたくない。
これ以上、思い出を穢さないで。
それに・・・お母様まで品定めするつもり?
本当にうんざりよ・・・下劣な男には。
今日は一日中付き合わなくてはならない。
まだ陽も高い。
*
信じているかしら? あの花が好きな理由。
わからない・・・でも時季が終わるまで飾り続けられたし、切り倒されもしなかった。
瞳の奥に焼き付けた・・・黄色い宝物。
これで・・・またしばらくは耐えていける。
来年も咲いてほしい。
でも・・・来年も・・・ここにいるの?
* * * * *
「どうした、このところおかしいぞ。言いたいことがあるのか? それとも何か欲しいのか?」
「え? いえ・・・な、何でも・・・」
「嘘をつくな。そのような目でちらちらと見られるのは落ち着かん」
「ご、ごめんなさい。本当に何でも・・・」
「・・・」
「あ、あの・・・あの・・・彼に・・・尋ねてほしいの・・・最後の夜に合奏した曲が・・・何だったかを」
「・・・私を疑うのか?」
「え? い、いえ・・・ただ・・・あの・・・お願い・・・」
・・・夢を見た。
クラウスとアナスタシアの。
私、馬鹿みたい。
逃亡先の敵国の女。
それも男のなりをした奇妙な。
好きだなんて結局一度も言われなかった・・・泣き出したから哀れに思って抱きしめてくれただけ。
もう覚えてもいないかも知れない。
監獄の中で、ひどい毎日の中で・・・革命への想いが燃えることはあっても・・・。
いいの、忘れても、私、あなたの・・・いいえ、嘘、覚えていてほしい・・・あの美しい夜だけは。
聞いてもらえないかしら。
忘れ去られてもあなたを想い続ける、もちろん・・・そしてあなたのためにできることはすべてする。
でももし覚えていてくれたなら、どれほど勇気づけられるだろう、頑張れるだろう。
「夜? 最後の夜だと? 何を戯けた話を」
私ったら、ああ、近頃の優し気な素振りに油断して。
この男に彼の話は絶対してはいけなかったのに!
だって、だって、言いたいことがあるだろうって・・・かまをかけたんだ。
でも、でも、もう口にしてしまったもの、このままお願いするほかない。
「不要なことはせん。不愉快な話だ」
「お願い・・・お願い・・・」
「・・・もしお前が恐れているように奴が死んでいたらどうするつもりだ? 騙していた私を殺し、後を追って自害するか?」
「え? 死んで? 死んでって? どういう意味? そんな! そんなこと! だって助けてくれたのでしょう、あの時? 生きているのよね!? クラウスは生きて・・・!」
思いもしなかった言葉に頭の中が真っ白になって、崩れ落ちるところを抱きかかえられた。
「落ち着け! 無論死んでなどおらぬ。私が助けてやったのだ。まあ、よいだろう。近々またロストフスキーに金を持って行かせる。その時に聞いてやろう」
*
どうしよう、彼の言った通りだったら。
とっくの昔に・・・あの助命嘆願そのものが嘘で処刑されていたら・・・。
それとも監獄で?
考えてもいなかった、そんなこと!
あれからひと月経つ。
嘘だから返事ができないの?
まだ帰ってきていないの?
ゲオルクス・ターラーの時と同じ?
・・・天邪鬼だもの、あんまりしつこく尋ねると・・・。
もう少し、もう少し待って・・・。
でも・・・ああ・・・もし嘘だったら・・・私はどうしたらいいの?
* * * * *
まったく・・・口にするまで随分と悩んでいたようだが、その間に考えなかったのか? あの男が死んでいるやも知れぬと。
嫌ってはいても信じているというわけか、私を。
が・・・お前・・・生きてはいても、奴がそのような些細な過去を覚えていなければ・・・どうする?
いや・・・墓穴を掘ったのは私のほうだ。
今後のためには、忘れたと答えさせればよかったのだ。
愚かしく口走ってしまったものだ、私としたことが、奴の話となると・・・。
こうなってはあの男に願うのみ・・・不愉快千万な事態だ。
* * * * *
「"ロマンス"だそうだ、ベートーベンのな」
「・・・」
「これで気が済んだか? よいか、疑われるのはまったくもって心外だ。二度と口にするな。わかったな」
ああ! ああ!
よかった!
生きている! 生きている!
私のことも・・・覚えてくれている!
「今日は、帰る」
「!? 待って! 帰らないで! ごめんなさい! あなたを疑ったわけではないの! ただ・・・ただ・・・確かめたかったの。ごめんなさい」
「・・・もうよい」
伸ばした手が届く寸前に扉に向かって歩き出した。
駆け寄って冷たい軍服に縋る。
「お願い! 帰らないで! 許して! お願い! 感謝しています! 彼を助けてくれて! 感謝しています! 何でも・・・何でも言う通りにするから・・・許して・・・」
男に縋りついて引き止めるなんて・・・もう・・・本当に娼婦だ。
*
覚悟していた・・・また乱暴に抱かれるだろうって・・・ぶたれて叩きつけられて・・・。
でもそれだけの価値のある賭けだった。
なのに・・・いつものように優しかった・・・いいえ、いつも以上に・・・執拗に優しかった。
まるで・・・お前のすべてを知っているのは自分だ、悦ばせているのは自分だって言っているみたいだった。
・・・きっと・・・この世に幾万といる娼婦にもそれぞれの誠がある。
親のために兄弟のために・・・子どものために・・・恋人のために・・・。
レオニードが言う娼婦、男に抱かれたいがために自分から娼婦になる女なんて、いはしない。
頑張る!
あなたのために・・・どんなことでも・・・。
* * * * *
もう・・・許して・・・
まだだ・・・私を侮辱した仕置きだ
伝言を聞いた瞬間、いつもの生気のない怯えた瞳が強く碧く輝いた。
お前は・・・あの男の生存を確かめただけではない。
あろうことかこの私に恋文を届けさせたのだ。
ロマンス、だと?
忌々しい曲名だ。
奴もお前を想い直しただろう。
絶望の日々の中に希望が甦ったかもしれん。
だが・・・再び見えることはない、決して。
何千里も離れた男は忘れろ。
目の前にいる私を愛せ。
楽になれ。
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