(1)
よく眠っている・・・薬の力を借りてだが。
一年前、もう一つ寝室を設えた、居間の奥の続き部屋に。
厳冬に椅子で寝かせるわけにはいかぬからな。
また夜中に訪れた時、閉じ込めた寝室の椅子で眠っているのを見つけ、腹が立つと同時に苦笑してしまった。
クッションもコートも取り上げたというのに、毛布すら使わぬとは全く徹底した意地っ張りだ。
まあ、私も引けを取らぬか・・・子ども相手に・・・。
体の為にも早くそうしてやればよかったのだが、二人で過ごす寝台をそこまで厭う無礼を認めたくなかった。
ここでは抱かぬ
・・・本当に?
約束する、信じろ。ここでゆっくり休め
それで少しは安らいだのだろうが、意識を失うのは相変わらずだ。
早晩このような事態になるのではと危惧していた。
医者は、頭痛を伴わぬので病ではないと診断した。
そして言いにくそうに、精神的なものではないかと。
わかっている。
涙は見せなくなった、私が嫌う故に。
しかし微笑みすらも見せなくなった、まるで人形のように表情が変わらぬ。
間違ってもあの名を口にすることはなくなった、私が怒る故に。
しかし他の言葉も発しなくなった、何ヶ国語も操れるというのに。
怯えた瞳、軽蔑の瞳、そして遠くを見る瞳は相変わらず・・・拒みはせぬが。
だがそのうちに、そのような瞳すら見せなくなるのではないか。
他にどうしようもなくカレンに助けを求めたが、彼女の話では返ってそれも重荷になっているらしいと。
自由にしてやるわけにはいかぬのだ、お前の望みを叶えてやることは・・・例えこのまま狂ったとしても。
お前は私のものであり、皇帝陛下のものなのだ。
* * * * *
(2)
何か欲しいものは?
え? い、いえ、十分、よ。今のままで
遠慮は無用だ、何でも言うがよい
あ・・・夢・・・この間の・・・。
そろそろ・・・また、何か欲しいって言ったほうがいい・・・。
本は・・・いろんな種類が見繕って届けられているし、ドレスも食べ物も十分だし・・・出かけるところもないし、お腹も空かないのに。
香水は駄目だってアンナが。
宝石は・・・もう、それも十分・・・。
人形は懲り懲り。
家具も調度品も・・・。
ああ、鳥は?
白? 緑? 黄色もいい。
黄金の瀟洒な籠に入れて、サロンに置いて・・・綺麗な声で鳴いて。
そばにいればパンをあげられるし。
そう!
もしこのお屋敷にも温室があるのなら、そこにたくさんの鳥たちを放してもいいじゃない。
南国の花を一杯咲かせて。
キュー植物園で見たことがある。
水を含んだぷっくりした葉っぱや濃い緑のギザギザの。
まるで作り物みたいな大きな花や、それだけで香水になりそうな強い香りの小さなたくさんの花。
外に出られないのならそのくらい・・・。
嫌だ。
籠の鳥が籠に鳥を飼うなんて・・・馬鹿みたい。
レオニードが私にしていることと一緒じゃない。
それなら・・・ああ、何がいい?
機嫌が悪くなるのに、思いつかない。
そうだ。
確か、蓄音機?
そんなものがあるって、新聞に・・・ドイツ人が発明したって。
音が聞ける・・・繰り返し・・・音楽も・・・どんな音楽なのかしら。
何でもいい。
自分のピアノの音や、彼の声以外を耳にしたい。
ただ・・・高いもの、きっと・・・新しいものだし外国のものだし。
怒られる?
あのお屋敷にあったようなオルゴールはどう?
あまり使われていなかったけれど、聴きたいって言ったら手入れしてくれた。
大きな盤が沢山・・・綺麗な音が部屋いっぱいに響いた。
でも・・・あれも確かスイスのもの・・・。
ああ・・・ありきたりのものは侮辱しているって取るし、だからと言ってあんまり高価なものも、自惚れるなって、たぶん・・・どちらにしても。
どうしよう。
*
大ロシア帝国の繁栄の為にニコライ二世陛下の栄光の御為に身命を捧げます
そう・・・私の人生は・・・そのために・・・。
本当にそう? 伯爵・・・お父様・・・。
あ?
ここは・・・どこだったろう。
目が覚めるたびに、天蓋を見ながら思い出す。
パリ? ロンドン? レーゲンスブルク?
昨日の課題は身についた?
今日の課題は、ああ、すぐに始めないと終わらない。
早く起きて行かなくては。
学校・・・どこも良家の子息ばかり。
身分や財力を鼻にかけて傍若無人に振る舞う子と、それにつき従う子、ごく少数の誰にも靡かない子。
そう言えば・・・パリで行った演奏会・・・あなたには殊の外、興味の湧くピアニストですよって、伯爵に言われて。
少し年上の・・・ナンネル・モーツァルトの再来とか・・・綺麗な人だった。
生徒の間でも話題になって・・・もっぱら悪口ばかり、氏素性のわからない女の芸なんてって。
能力で敵わないと身分を持ち出すのはどこも同じ。
聖ゼバスチアンでは風当たりが強かった・・・けれど私、どうでもよかった、そんなこと。
やっと・・・少しだけ自分に戻った気がした。
自然に息ができているように感じた、ちゃんと生きているって。
相変わらず苦しいことも辛いこともあったけれど・・・あまり考えないようにした、それでどうなるものでもなかったから。
それより、はじめての自由や友人たちとの毎日、そしてクラウスを大切にしたかった。
結局そんな日々は長続きしなかった・・・でも人生で初めていろんな人と関わって、泣いて笑って怒って喧嘩して・・・。
ああ・・・ここは・・・パリでもロンドンでも・・・レーゲンスブルクでもない。
もう少しで・・・望み通り・・・狂ってしまえるのかしら。
神様・・・叶えてください、せめて・・・。
* * * * *
(3)
膝を抱えて床に座り込んでいるのを見つけた。
どうした? まだ横になっていろ
・・・
?
・・・
立たせようとしても異様に力を込めて動かぬ。
?
両手で握り締めている小さなリンゴが目に入った。
リンゴがどうした?
・・・様に・・・
誰に、何だ?
お母様に・・・
お前の母に?
差し上げるの。いいでしょう?
・・・ああ
あの・・・何でも・・・言うこと聞くから。課題もちゃんと・・・いい子にしているから・・・一度だけ・・・ドイツに・・・
・・・
少しでいいの、ほんの何日か・・・休暇の間に少しだけ。いい子にしているから・・・お願い
・・・ともかく少し休め。そのように握り締めていると渡す前に傷んでしまうぞ
* * * * *
(4)
「カレン? お見舞いに? 悪いけれどお断りして。眠っているとか何とか言って、お願い、アンナ」
「そのようなわけには参りません、シャフナザーロフ侯爵のご子息の奥様ですから」
「つまりはユスーポフ侯爵の子息の愛人に断る資格はないのね? それならさっさとお通しすればいいじゃない! 私の意向を聞く必要なんかない! 好きになさいな!」
「奥様、どうかお気を静めて。興奮なさるとお体に触ります。第一にカレン様に失礼があってはなりません」
「会いたくないって言っているでしょう!」
*
結局、カレンには会わなかった。
会わない無礼より、会わせて引き起こされるかもしれない無礼のほうをアンナが恐れたからだろう。
もうどうでもいい、カレンのことなど。
レオニード・・・あなたはこの体だけ支配していればいいでしょう?
それだけでクラウスを守ってよ、本当なら私に支払うべきお金を看守に渡してよ。
十分なはず、あなたは満足しているのだから、好き勝手にしているのだから。
娼婦だって言うのならちゃんと払って。
カレンの面倒までみさせないで。
この顛末が伝わってまた暴力を振るわれても構わない、私がどうなろうともクラウスさえ無事であれば・・・。
だって、あの男は私を痛めつけたいの・・・ただ抱くだけでは面白くないの。
ぶつ口実が欲しいのなら、いくらでもあげる。
もうすぐ・・・きっともうすぐ・・・狂ってしまえる・・・何もかも・・・感じなくなれる・・・。
いつか・・・。
いつか・・・。
それは・・・いつ? クラウス?
*
温かい手に私の手が包まれている。
あれは・・・初めて殺した後、薬で眠って・・・お母様がずっと傍らで手を握ってくださっていた。
細く白い手・・・私と同じ。
泣き腫らした瞳で見ていらした。
あの・・・男は?
大丈夫、裏庭に埋めたわ。誰にも見つからない
カレン?
「ごめんなさいね、アンナに無理に入れてもらったの」
「・・・」
「ごめんなさい、ずっと・・・あなたの負担になっているのは・・・わかっていたのだけれど、どうしてもお見舞いしたくて」
「・・・」
「あなたに・・・こんなことを言っても・・・彼は・・・レオニードはあなたを本当に大切に想っているわ。不器用で素直ではないけれどね。あなたが少しでも元気になるようにって私に。もちろん・・・彼があなたにしたこと、していること、女として許せないわ。あなたは・・・別の人を想っているのですものね」
「・・・」
「・・・鍵のことで・・・本当に・・・辛い思いをしているのね」
「?」
「知っているのよ、私。大丈夫、レオニードにも話していいって言われているから安心して」
「・・・」
「こんな話であなたの辛さが和らぎはしないでしょうけれど、私の為に・・・聞いてちょうだい。あなたはドイツの鍵を預かっているのよね。私はね、シャフナザーロフ侯爵家はね、イギリスの鍵を預かっている貴族を監視しているの。ユスーポフ侯爵家がアーレンスマイヤ家にしているように」
「イギリスの、鍵?」
「そう。私もずっと知らなかったの、万が一の亡命に備えて密かにそんなことが行われているなんて。でも六、七年前に、陛下がシャフナザーロフ侯爵家の忠誠をお疑いになる事態があって、危うく一族が反逆罪に問われかねない状況だった。それで・・・潔白の証しとして、四つだった長男のボリスにその貴族から二つの娘、シャーロットが婚約者としてやってきたの。そして・・・同い年の私の娘が、アレクサンドラが先方の長男の婚約者としてイギリスに渡ったの。人質の・・・交換ね」
「人質・・・」
「それ以来、会っていない。侍女との手紙のやり取りだけ。最近は娘もようやく文章らしいものが書けるようになったから、少し様子がわかるわ。ロシア語も習わせているけれど・・・すっかりあちらに懐いてしまっているらしくて。私がシャーロットにしているように向こうのお母様も娘を大切にしてくれているからなのね。もちろんそのほうがあの子のためにはいいのよね、ずっと向こうで生きていかなくてはならないのですもの・・・でも・・・」
「・・・会いには、行けないの?」
「・・・もうしばらくは無理でしょうね、陛下の勘気が完全に解けるまでは。由緒ある侯爵家でもご不興を被れば・・・忽ち断絶されて、反逆者として獄に繋がれるわ。華やかに見えて、そんな世界なのよ」
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