翡翠の歌

19 懐柔




(1)



意識が、なくなって。
気づくと一人・・・あの男はいない。

確かめる。
そう、裸。
そして・・・。

大丈夫。
したいことは済ませていった、いつものように。

情けない。
私の知らない間に、私のどんな姿を見ているのだろう。

でも、いい。
それでお金になるのだから。



あのミモザの夜、本当に思った、何もかも・・・お母様も鍵も忠誠心も、全て捨てようって。
私のそれまでの人生を全て。

なのに・・・何の価値もなかった。
彼と人生を共にする対価には少しもならなかった。

だからせめて今は・・・彼の為に、そんな私にもできることをしている。



だって、もう慣れた、あの男の望みなんて。
本当に単純な話。
大人しく言う通りにしていればいい。

静かな曲を弾いて、当たり障りのない話をして、微笑んで見つめて。
無理に作った笑顔でも、あの男はそれで満足。

そして抱かれていればいい・・・そして抱いていればいい。
簡単、もう。



そう、あの奥様にはそんなことすら無理。
しょっちゅう留守で、社交場には取り巻きがいっぱい、他の男がエスコートしている、きっと。
彼は指をくわえて苦々しく眺めているだけ。
その様子をみんな面白そうに見物して。
帝国一の貴族を憐れんで蔑んでいる。

たまに顔を合わせれば、喚かれて言い負かされて、しっぽを巻いて引き下がる。
逃げ帰った先に、丁度いい具合に私がいたわけ。
同じ金髪の私をそばにおけば、傷ついたプライドが少しは癒せるのでしょう・・・情けない男。

私はただそんな犬に・・・噛まれただけ、そう、犬に。
ニコライの犬って、あなたに相応しい呼び方。
あ、つまり、彼の犬でもあるってこと?





近頃は気が緩んできたのか、隣にいなくても知らずに眠っている。
だから眠ったふりをして、それから静かに抜け出して、暗い・・・ただ暗いだけの外を眺めながら夜が明けるのを待つ。
体は辛いけれど、吐息や体温が伝わってくるよりはまし。
起きる頃になったら、またそうっと潜り込んで。

早く帰ってほしい。
軍務がもっと忙しくなればいいのに。
また遠くへ視察に行かないかしら。


*     *     *     *     *



「あの・・・お願いが・・・欲しいものがあるの・・・」
「うん? 何だ?」
「あの・・・お人形・・・もう一人・・・欲しい」
「気に入ったか、やはりな。まあ人形に限らず、貧しい頃のことは忘れろ。お前は・・・お前は貴族なのだからな」
「・・・本当に綺麗なお人形・・・私にはもったいないくらい」
「わかった。どのようなものがよいか、明日アンナに言っておけ」
「ええ、ありがとう。嬉しい」


これでいい。
これ以上、あの子の恨み言を聞くのはご免。


*     *     *     *     *



あれからは・・・一度もぶたれていない。
答えをしくじっても口籠っても、ほんの少し苦笑しているだけ。
戦場で急に人格者になったとでも言うの?

勿論、油断なんかしない。
うっかりクラウスの名前を呟いたりしたら・・・そう、私を殺す理由を待っているのかも知れない、怒りを小出しにしないで・・・一度に。
だから・・・心の中で思っても駄目・・・辛いけれど。
だって、もし意識のない間に口にしてしまったら・・・。



ああ、そう言えば・・・外出も許すって言っていた。

どこに行きたい?

この吹雪では無理だけれど橇はどう? 伯爵とよく乗った。
林を駆け抜けるのもいいし、あの大きな滑り台を降りるのも面白い。
それに最新のレストランや娯楽施設・・・いろんなところへ連れて行ってくれた。
今はどんな流行だろう、外の空気で感じたい。



何を言っているの? 私。
妾になったらって条件だったじゃない。
今でさえ、してやったりって顔をしているのに。



それにしても・・・なぜ妾になると言う申し出に拘るのだろう。
今だって好き勝手にしているのに・・・それでは満足しないの?

心も従えって?  クラウスを忘れて?  自分を愛せって?
あり得ない、そんなこと。
でも・・・彼はきっと、命令さえすれば済むと思っている、何もかも。

もしかしたら拘っているのは・・・私?  妾という言葉に。
していることは同じ・・・どう理由をつけても神様はお赦しになりはしない・・・娼婦なんて。

いいえ、やっぱり違う!
強いられるのと自分から差し出すのは違う、絶対!





あ・・・眠っていた?
いえ、考え事をしていたような。

何を?

ああ、どこへ出かけたいかって?

劇場とか?
植物園とか?

ただしどこへ行くのも彼と一緒、きっと・・・部下たちも。
おしゃれなカフェテリアにって言ったらどんな顔をする?

ああ、もう! 駄目!
そんなお願いをしたら、自分から妾になるって言うのと同じ。

言葉は必要、いつか、いいえ、必ずここを出てクラウスのところへ行くために。
だから本や新聞は受け入れる、彼に頼るのはここまで。
外出なんかしなくたって構わない。
もっとしっかりしなくては。





いつか・・・いつか・・・ああ・・・クラウスのいる監獄、どこなのだろう。
そういうことって秘密?
教えてくれる?
駄目。
何のためって聞かれて、どう答えるの?

シベリアへは鉄道を使うはず。
囚人たちを使って敷設されつつあるって新聞に。
でも・・・監獄はきっと奥地。
駅からはどうやって行くのだろう。

船で?
馬車で?

旅費はどうする?
お金も旅券も取り上げられてしまって、私には何もない。

・・・体を売って・・・。

もう私に残っているのは、それだけ。
高い客を取れる体だって言っていた・・・どういう意味かわからないけれど、あの男が言うのならそうなのよ。
きっと女を抱いては他の大勢と比べている・・・ああ嫌だ、本当に嫌な男!

こんな傷だらけの穢れた体なんてどうなってもいい。
クラウスに会うための役に立つのなら。

会えたら・・・会えても・・・触れることはできない、彼が穢れてしまう。
会うだけでいい、あの瞳を見たい、私の本当の名前を呼んで欲しい。
こんなところまで来るなんて、ばかたれって笑って欲しい。
それだけでいい。





だけど・・・この間、気づいてしまった。

子ども・・・愛がなくてもって。

お父様は子どもなど望んでいなかった、多分、お母様も。
それでも私が・・・。

お母様が囲われて三年余り。
もう飽きてきたところに厄介な妊娠。
壊れたおもちゃを捨てるように追い出された。

お母様が死んでもお腹の子が死んでも構わなかった、お父様は。
きっと、その瞬間に忘れてしまったのに違いない。

お母様は誰にも頼れずに・・・教会にすら。
なのに、産んでくれた、育ててくれた、望まない子どもだったのに。

随分経ってからアネロッテ姉様は血が繋がらないとわかって、捨てた子どもを思い出して私を引き取った。
レオニードと同じ、身勝手なもの。



男も女も二人ともが望んでいなくても、子どもってできるのね?
それなら、私にも?

もし、もし、そうなってしまったらどうなるのだろう。

レオニードは?

お父様と同じ考えならば追い出すけれど、私は鍵の在処を知っているからそうはしない。



そのまま産ませる?

正妻との子どもならば欲しいでしょう・・・跡継ぎに。
でも愛人との子どもなど何の役に立つの?
何か・・・侯爵家が担っている表沙汰にできない役目を継がせる?  私みたいに。

そんなものがなければ、始末する?



そう、彼が必要としているのは女の体だけ。

でも・・・でも・・・。
少なくとも今は私を独占したいと願っている、クラウスの一切を追い出して。
体も心も、人生のすべてを。



あの夜・・・言っていた・・・私との・・・二人の人生って・・・ぞっとした・・・。

それなら・・・堕ろさせないかも・・・。
産ませる。
子どもがいるのに、他の男を思うなど許されない。
子どもがいるのに、逃げ出すなどできない。
そして、例えあの男が死んだとしても・・・もう、置いてはいけない。

祈るしかないけれど・・・子どもをお授けにならないよう祈ることなど、許されるの?





「・・・様、奥様!」
「誰?  アンナ?」
「どうなさいました?」
「ああ、ふらついただけ、大丈夫」
「少し・・・お屋敷の中を歩かれますか?  お体の為にも」
「いい、そんなこと。それより・・・お茶を頂戴」


冗談にもほどがある。
屋敷中の鍵の掛かった扉や窓を見て歩いて、何が体の為になると言うのだろう。

新しく設えられた寝室でずっと過ごす。
本を読むのも勉強をするのもここ。
食事だってここでとりたいくらい、アンナがうるさくないのなら。


「本当は若旦那様は、奥様がこちらにいらっしゃる前に、お好みのお屋敷になさるおつもりだったのですよ。でも間に合わなくて・・・」


私を手籠めにする計画ね?
スパイ事件があったから、早まっただけでしょう?
あなた・・・同じ女なのに・・・よく手助けができたもの、そんな・・・。


「この他にもまだまだ沢山あるのですよ、イタリアやフランス、日本から取り寄せたものも。それにカレリアの樺の木やウラルの孔雀石の家具も特注品ですから。素晴らしいお屋敷にいたしましょうね」


下劣な心を覆い隠すために随分とお金をかけたこと。
それで私が喜んでしっぽを振ると思ったのかしら。

でも・・・もう・・・妾・・・なんだ・・・私・・・。
彼の、その計画通りに・・・。


*     *     *     *     *



部屋を移って・・・窓からの景色も少しだけ変わった。
と言ってもやっぱりここからも遠くは見通せない、木々が茂っていて。
時折、たぶん運河から反射する小さな光が届くだけ。

枝がすごく近くまで伸びて、窓が開けられれば触れられる。
でも細すぎて、伝って逃げられそうにはない。

そこに小鳥が止まってこちらを見ている時がある。
驚かさないように私もじっと見つめ返す。

お願い、そんなに憐れんだ瞳をしないで。





この部屋では抱かないって言った、約束した、だから私が唯一寛げる場所、広い屋敷の中で。
本当にあの男、食堂でだって廊下でだって抱きかねないもの・・・まるで獣。

図書室にはあれから一度も入っていない、もちろん塔にも。
居間や主寝室に行くのは彼が訪れた時だけ。
抱かれた部屋になんか、いたくない。

ピアノの練習は新たに許された音楽室で用心しながら。
それにもし、そこであんなことをしたら、もう弾いてなんかあげない。

このくらいの我儘は・・・彼の言った多少の自由に十分含まれるだろう。
でも、せっかく得たそのごくごく僅かな自由を賭けて、思い切って尋ねた。


「シベリアの・・・どこの監獄、なの?」
「・・・知って、どうする?」
「・・・ましなところに移すって約束したでしょう?  そのくらい教えてくれても」
「知ったところで、それが何になる?」
「・・・でも・・・知りたい・・・お願い」
「・・・まあ、よいだろう。はじめ奴はレナ川上流のムフトゥヤ監獄に入れられた。あそこは数ある監獄の中で最も死に近いと言われている。沼地のため年中水が出て寒く、疫病も起こりやすい。その為か、看守の質も悪く、いくら監察が入っても私刑が減らぬところだ。ある意味、好都合なのだ、死刑にはできなかった、だが死んで欲しい囚人を収監するにはな、あの男のように。そして今は・・・バイカル湖の東、清との国境近くのアカトゥイ監獄にいる。随分とましな部類に入るぞ。奴も驚いているだろう、お前のおかげとは思いもせずに」
「・・・アカトゥイ・・・あの・・・鉄道の近くなの? 駅の名前は?」
「・・・そこまで知る必要はない。よいか、正規の旅券も金も持たぬお前にはここからの逃亡も、脱獄の幇助もできんぞ、無駄な考えはやめろ」


もし戦場ででもこの男が死んだら・・・あの伯爵は容赦しないだろう。
拷問で鍵の在り処を聞き出して、そして殺すだろう。
私はそれでいい・・・だけど、クラウスを守る約束もなかったことになってしまう。

そんなくらいなら・・・報せを受けたらすぐに・・・ガラスを割ってそれでアンナやレーナを殺して逃げ出そう。
可哀想だけれど仕方がない。
とっくに地獄に落ちているのだもの、あと何人殺したって同じ。

ここはきっとサンクト・ペテルブルク、スモーリヌィ修道院の先。
モスクワ駅からシベリアに向かおう。



以前通った道を思い出しながら、地図を作った。
聖書の別のページに挿み、そばにはアラバスタ―の小箱を置いた、すぐに持ち出せるように。

そうだ、あのルビー。
あれを持って行こう、お金になる。
細々としたアクセサリーも。
でも"タタールの星"は置いていかなくては。
家宝を持ち出したら伯爵の恨みが倍増するもの。

使い果たしたら・・・この体を売って。
どうにかしてアカトゥイに辿り着こう。

私には脱獄なんてさせられないけれど、少しでも近くに。


*     *     *     *     *



正規の旅券も金も持たぬ・・・それがあれの何の障害になると言うのだ。

手に入れた監獄の名前。
それだけで、いずれ阻む者すべてを殺し、彼の地に辿り着き・・・再会する予感がしてならぬ。

偽りを告げてもよかったが・・・つまらん意地だ。



会うのを止めようと幾度も思った。
苦しいだけだ。

透明な乾いた軽蔑の視線。
瞳を向けなくてよい・・・そう言えば、そのような瞳ですら見せはせぬだろう。



肉体の反応だけで、交わる気など微塵もない。
息を整えている間に向きを変え、口や秘部をリネンで拭っている気配が伝わってくる。

そして、眠ったふり、だ。
気付かぬと思っているのか。
肩を震わせながら眠る奴がいるか。

だが、いつまた、その口からあの男の名や罵声がついて出るか・・・。
情けないがそれを恐れて、強引に振り向かせられぬ。



あの耳飾り。

手の中で次第に温かくなった、私の体温を受けて・・・石であっても。
一方、お前はますます冷たくなっていく。

時をかければよかったのだ。
そうすればあるいは・・・。
しかし、あのまま命の灯火が消えてしまうようで。

いつになれば、どうすれば・・・。


*     *     *     *     *



(2)



夕刻、急に訪れて、これから観劇に行くと言う・・・『スペードの女王』だって。
アンナは着飾らせるのに大張り切り。
いつもの緩い服と違って、眩暈がするほど締め付けられた。

あの男は満足そう。

私・・・彼の何?
敵から奪い取った戦利品?

でも・・・まあ、いい。
思いがけない二年ぶりの外出、久しぶりのオペラだし・・・それに確かロシア語だったはず。
彼の気まぐれに素直に従っておこう。



ああ、やっぱりここはサンクト・ペテルブルク。
カーテンを開けてずっと眺める。
街の風景を楽しんでいるって思うでしょう?
残念だけど違う。
道を確かめている、記憶とすり合わせて。



案の定、マリインスキー劇場では好奇の視線に晒された。
それはそう。
大貴族の御曹司が正体不明の女を連れているのですもの・・・それも陛下の姪が正妻の、世間では堅物で通る男が。

本当に・・・堅物が聞いて呆れる・・・ただのけだものなのに。

挨拶に寄ってくる人々は気になりながらも、さすがに誰かとは尋ねられないでいる。
きっと明日からの格好の話題になるのだろう。



そこへ彼女が・・・アナスタシアが近づいて来た。
数年ぶりの彼女は相変わらず綺麗で、一層落ち着いた感じに。
前にも会ったって、まさか知られては?


「こんばんは、レオニード様。ヴェーラ様はご一緒ではありませんの?」
「お久しぶりです、クリコフスカヤ嬢。ええ、ヴェーラはまだモスクワです。ああ、ご婚約おめでとうございます。式にはヴェーラも参列致します」
「ありがとうございます・・・あの、こちらの方は?」
「遠縁の娘で、マフカ・アレクサンドロヴナ・ロサコワと申します」
「初めまして、アナスタシア・クリコフスカヤです。お美しい方ですわね、レオニード様。あの、少し・・・お話ししても?  実家の桟敷にお茶をご用意しますわ」
「・・・ええ・・・行きなさい」


罠?
いいえ、ヴェーラの幼馴染みで公爵令嬢で・・・無下に断れなかっただけに違いない。
大丈夫・・・まったく表情を変えなかった・・・気づいていない、きっと。
だから私も、いつも通りに振舞わなくては。


「お元気でした?  まさかこんなところでお会いできるなんて。ずっとモイカ宮殿にいらっしゃるの?」
「・・・ええ。あの・・・婚約されたって」
「そう、バイオリンの先生と」
「・・・」
「時間がありませんわ・・・単刀直入にお尋ねします。あなた、彼の入れられている監獄がどこか、ご存知ない?」
「え?  なぜ?」
「重要人物の収監先は極秘扱いなの。何とかヴェーラにムフトゥヤ監獄だって聞いたのですけれど移された後でした。もっともあの厳しい監獄では何もできませんが」
「何も?」
「・・・差し入れ、ですわ。暖かい衣服や食料を」
「そんなことが・・・できるの?」
「・・・ええ、私の実家の伝手がありますから。レオニード様ならきっとご存知と思うの。何か伺っていらっしゃらない?」
「それで・・・彼に悪いことが起きないの?」
「え?  大丈夫ですわ・・・みんな・・・していますもの。彼には力のある身内がいないでしょう?  侯爵家は断絶されてしまって・・・ですから代わりに私が」


どうしよう・・・彼女を信頼すべき?
でも・・・もし、これが余計なことだったら・・・。
かえってクラウスの安全を脅かすきっかけになってしまったら・・・。

迷っているとレオニードが声を掛けてきた。


「失礼します、クリコフスカヤ嬢。そろそろ開幕だ、行こう」
「ええ」


賭けてみよう!

膝に置いていたバッグを立ち上がる拍子に・・・彼女のほうに落とした。
私が屈み、彼女も屈んだその瞬間、囁いた。


『アカトゥイ』





「何を・・・話した?」
「え?」
「クリコフスカヤ嬢と、だ」
「別に・・・取り立てて・・・ヴェーラの幼馴染みだって。あとは・・・バイオリンの先生と婚約したって・・・」
「それだけか?」
「そうよ!  何を疑っているの?  そんなに心配なら二人きりにしなければよかったでしょう!  急に連れて来られた劇場で偶然会ったヴェーラの知り合いに、私に何ができるって言うの?」
「・・・そうだったな。悪かった、機嫌を直せ」





その夜、一頻り抱いた後、髪を梳きながら顔を覗き込んで言った。


「まだ・・・怒っているのか?」
「え?」


アナスタシアに告げた影響をあれこれ心配していた私は、いつにもまして上の空だったらしい。
咄嗟に言葉を継げなかっただけなのに機嫌が悪いと誤解して、彼は続けた。


「埋め合わせに、好きなところへ連れて行ってやる。どこがよい?」
「・・・舞踏会」


精一杯の意地悪のつもりだった、彼が踊っている姿なんて想像もできなかったから・・・なのに・・・。


「わかった。来月パーヴロフ大公殿下の舞踏会がある。そこへ行こう」


*     *     *     *     *



(3)



「奥様、もう少しお休みになられましたら?」
「いい。お昼でしょう? もっと・・・いつもの時間に起こして。それに薬はいらない」
「まだお疲れが取れないのですよ。しばらくはお飲みください。若旦那様も十分養生されるようにと」


ゆっくり休めですって?
そうしたいのは山々。
頭の中に霞が立ち込めて、身を起こしているだけで辛い。

でも、騙されない。
落ち度をつけさせて、また打ちたいだけ。
私はそれで構わない。
けれど、あの男はクラウスにも同じ制裁を加えたいの。

近頃は用心に用心を重ねて、おとなしく素直にしているから、理由が欲しいのよ。
いくら何でも落ち度のない女を打てないから・・・あれでも貴族だから。
騙されない、決して。

とにかく舞踏会までに元気にならないと。
今のままでは踊るなんて無理。





また持ってきてしまった・・・ひとかけらのパン。

あの小鳥たちにあげたいと思って。
無理だって・・・分かりきっているのに。

どうするわけでもなく、貯まってしまって・・・どうしよう。



冷たい秋風に震えている・・・もう南に行く頃でしょう?・・・お腹が空いて飛び立てないの?
すぐそばなのに・・・ガラスに遮られて・・・何もできない。

・・・お願いしてみる?

だめ。
みんな撃ち殺して、枝をはらってしまう。
余計なことをしてはだめ。
マリアで懲りたはずでしょう?





「あの・・・耳飾り・・・耳飾りが一つ欲しいの」
「どのようなものだ?」
「あの・・・小さくて可愛いの。あなたに頂いたものは・・・いつもつけるのには、豪華で少し大きくて」
「ははっ! 確かにそうだな。では店主の娘を寄越すから好みのものを選べ。なかなか趣味がよい故、気に入るだろう。一つと言わず指輪も髪飾りも何でも、な」
「ええ、ありがとう。嬉しい」
「ようやく女らしくなったか。よい傾向だ」


小さくて売りやすいもの・・・少しずつ集めていこう。





「気に入ったようだな。よく眺めているそうではないか」
「え? あ、宝石? ええ、ありがとう。とても綺麗で・・・飽きないの」
「ロシアは名石の宝庫でな、我が領地にも鉱山がある。イサーク寺院にもかなりの石材を供出した」
「そう、そうなの。すごいのね」
「入ったことはあるか?」
「ええ、一度。いろんな色の石で埋め尽くされていて荘厳だった」
「・・・パンを・・・隠しているそうだな」


ああ、また・・・。


「まさかひもじい訳でもあるまい?」
「・・・」
「どうした?」
「・・・何となく・・・持ってきてしまったの。ごめんなさい。捨てるわ」
「癖か? ボロのような人形と言い、食べ残しのパンと言い、お前は」
「本当にごめんなさい。そうね。そう、癖よ」
「わずか五つくらいまでだろう、そのような暮らしは」
「ええ・・・貧しかった頃の・・・癖ね。ごめんなさい。もうしない」
「まったく・・・まだ忘れられぬのか」
「・・・ごめんなさい。あなたのおかげでこんな贅沢な暮らしをさせてもらっているのに。感謝しています。悪い癖ね、ごめんなさい」
「謝る必要はない。分かればよい。言っているだろう、欲しいものは揃えてやる」
「ええ、そうね。ありがとう。今は十分、何の不足もない。でも何かあった時はお願いするわ」


満足気な顔・・・単純な男。

騙されない。
本心なんて絶対言わない。
その代わり、謝罪や感謝の言葉ならいくらでもあげる。
ドイツ語でもラテン語でもスペイン語でもね、あなたがうんざりするくらい。
欲しいものは・・・あなただって本当は言ってほしくなんかないくせに。



アカトゥイまで、幾つ駅があるのだろう、幾日かかるだろう。
旅費はどのくらい?
闇雲に欲しがっても怪しまれるから、ゆっくり様子を見ながら。
ゾーヤは彼のお気に入りみたいね、こまめに新作を持ってきてってお願いしてみよう。





「何かお召し上がりになられたいのでしたら、いつでもお申しつけください」


そう言いながら呆れた顔つきで、部屋中に隠したパンを集めていった。


「何にしても食欲が戻られたのはようございました」





あ・・・小鳥?
パンくず?
誰が?


「風を入れるのに窓を開けるんです、奥様がお部屋にいらっしゃらない時に。置いておきますね、もちろんアンナ様には気づかれないように」


レーナ?


「孤児院にいた頃、食卓のパンくずを集めてポケットに入れて部屋に持って帰ったんです。窓枠に置いて。おんなじような茶色でちょっと橙色の羽のある小鳥で可愛くって。喜んでくれるのが嬉しくって」


レーナ!

皇室をも凌ぐ財産を持つ侯爵家の御曹司と孤児のレーナ。

不思議。

持っているものの大きさと、人に与えられるものの大きさは、関係ないのね。





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