(1)
気づいた時、ようやく悪夢から覚めたと思った。
でも・・・違った・・・あれは、現実だった。
あちこちが痛む・・・いつものことだけれど。
血の味もする。
彼はすでにいない。
きっとまた不愉快なことがあったのだ。
それがたまたま夜中だっただけ・・・来ないはずの・・・私が勝手にそう思っていた。
苛立ちを私にぶつけて憂さを晴らして、あの澄ました顔を保つ・・・卑怯者。
こんな時間では湯浴みは無理。
せめてリネンで拭き取ろう、あの男の痕跡を。
・・・女の子に戻りたいって、ずっと願ってきた。
なのに今は、女であることを強いられている。
どうして?
私が何をしたの?
・・・何をしなかったの?
あ、そうだ、マリア!
よかった、ああ、よかった。
コートに隠れて気づかれなかった。
心配した、マリア!
あなたがいなくなったら・・・私、本当に・・・。
ともかく早く戸棚の奥に・・・アンナが来ないうちに。
* * * * *
(2)
まったく・・・入れ込んだものだ、私も・・・このように頻繁に訪れるとは。
本邸へ帰る途中であったり、翌朝まで留まる夜もある。
相変わらず美しい。
体を手に入れ従わせれば直に心も従うだろう。
何しろ奴は遠くシベリアの監獄にあり、生きて再び見えることはない。
しかも、ただの知り合いだと言ったのだ。
そのうち諦めて私を必要とし愛するようになる・・・女など、そんなものだ。
アンナは振る舞いが気に入らぬらしい、愛人としてまったくなっていないと。
主が訪れても出迎えもせず、にこりともせぬ。
素直になり切らず、それゆえ青あざが絶えぬ。
いずれ私が弁えさせるから今は放っておけと言ってはみたものの、あいつがそうなる時など訪れるのだろうか。
いや、あれも所詮は女だ。
*
そう言えば近頃よく聖書を手にしている。
私の姿が見えると書き物机に戻すのだが、そんなに信心深かったろうか。
彼女がお茶を淹れる間に手に取ってみた。
・・・これは・・・。
気づいて駆け寄り、取り戻そうと手を伸ばす。
「直してやる」
「?」
「形見だったな。壊して悪かった」
「いいの! 返して! 私のよ!」
「直すと言っているのだ」
「そのままでいい! 返して!」
「信用せぬのか、私を」
「返して! 返して! 私のよ! 返して!」
興奮し金切り声になってきたので手渡すと、握り締めて震え出した。
強張る体を引き寄せて腰掛け、ゆっくりと背を撫でた。
「わかった・・・わかったから、落ち着け」
* * * * *
(3)
「アンナ! 聖書は? 聖書はどこ?」
「持ってくるようにとお指図がございましたので、レーナに行かせました」
「え? 嘘よ! レオニードはわかったって言った! 嫌よ! 返して! 私の! 返して!」
ああ! 食事の間を狙って!
本当に油断も隙もない!
早く追いかけなくては!
「奥様! タチアナ! タチアナ!」
玄関扉に辿り着く前に二人に取り押さえられ、寝室に放り込まれてしまった。
「いい加減になさいませ。若旦那様は直すとおっしゃられているのですから」
「返して・・・返して・・・私のものなのに・・・」
「奥様、少しは大人におなりなさい。若旦那様のご身分に相応しいお振る舞いをなさい」
「何がご身分よ! 笑わせないで! お母様の形見を・・・壊して・・・騙して・・・ただの泥棒じゃない!」
「奥様! 口をお慎みください!」
「あなたはその泥棒の手先! 出て行って! 顔も見たくない! 出て行って!」
*
「お食事をなさると約束されたと伺っています。ちゃんとお取りください」
「約束? そう! 確かに約束したわ! でも形見を取り上げるなんてそんな最低なこと、その約束とは関係ない! いい? 人として最低なことよ! わかっていたけれど、ここまで人でなしだったなんて!」
「奥様! 大概になさいませ! 若旦那様は直してくださっているのですよ!」
「嘘よ! 本当にそうなら、ただ千切れた鎖を繋ぐのに何日かかるの? 捨ててしまったから誤魔化しているのよ! それを直接言えないなんて、どうしようもなく卑怯で弱虫な男! 威勢がいいのは抱いている時だけ!」
「奥様!」
「あなたにだってお母様がいるでしょう? あれはね・・・ずっと・・・掛けていらした・・・の・・・。離れ離れの間も・・・ずっと・・・」
何を言っても無駄。
聞く気なんて僅かもないのよ、始めから。
自分のしたいことをしたいようにする。
宮廷でも夫婦でもできないから、私で憂さを晴らしているんだ。
最低。
最低の男。
貴族の仮面を着けて軍服を着た獣よ。
負けない。
負けない。
力では敵わなくても逃げ出すことはできなくても、心まで屈服なんてしない。
* * * * *
(4)
出入りの宝飾業者を呼び、修理と飾り箱を注文した。
侯爵家に不釣り合いな素朴なものを見てわずかに怪訝な表情を浮かべたが、無論愚問はおくびにも出さず持ち帰った。
アンナによると、ひどく私を罵倒し、ろくに食事もとらぬと言う。
たかだかあのようなものに・・・。
*
夕刻訪ねると、掴みかからんばかりの勢いで駆け寄ってきた。
「ねえ! 返して! もう捨ててしまった? 返して! 私のよ! お母様の形見なの! 知っているでしょう? ねえ、お願い! 返して! 何でもするから!」
「何でもする・・・当たり前だ、奴を助けてやっているのだからな。よいか? 覚えておけ。爪の先まで全て私のものだ。お前のものなど何もない。ましてガラクタをどうしようともな!」
「・・・どうして? どうしてそんな意地悪をするの? それが楽しいの? あなたは何でも持っているのに! 何でもできるのに!」
「今更泣き言か?」
「・・・形見を・・・捨てるなんて・・・そんな・・・ことまで・・・」
「ふん、どれほどの覚悟だったのか見せてもらおうか、来い!」
*
数日後、銀細工とサファイアを嵌め込んだアラバスターの箱に入れて渡すと、目を見張って私を見つめ、ぎこちなく微笑んだ。
「ごめんなさい・・・直してくれたのね」
「そう言っただろう。約束は守る」
「ごめんなさい」
「まあ、よい。だが・・・身につけるのはやめろ、邪魔になる」
「・・・わかりました。本当に・・・本当にありがとう。感謝します」
おかしなものだ。
そもそも壊したのは私なのだ・・・その私に礼を言うとは。
以前のお前だったら礼どころか皮肉の一つも浴びせてきただろうに。
長い監禁生活が何か、彼女を変えてきているのかも知れぬ、良くないほうに。
*
磨き直されたターラーをあんまり嬉しそうに指先で撫でているので、つい聞いてみた。
「兵士の護符だろう? 話には聞いたことがあるが随分と素朴な物だな、ターラーに少し細工を施しただけの。母親が愛用していたのか?」
「えっ? ええ・・・そう・・・」
妙な様子だ。
こんな話題で言い詰まることなどあるか。
「覚えている限りずっとかけていた、幸運のお守りだって・・・。でも違ったの」
「違った?」
「もう一つ同じものがあって、初恋の人とかけていようって約束したって」
「それは随分とロマンチックな話だな」
「ロマンチック?」
思いもかけず笑い出した・・・その言葉を使った私を嘲るかのような笑い。
後から後から何かを思い出しては笑い続けた。
このまま狂気の世界に行ってしまいそうになり、肩を揺さぶり目を合わせた。
「・・・その初恋の人に殺されたの」
「殺された? 事故死と聞いたが」
「そう、事故・・・。誰も見てないし警察も断定した。でも私にはわかる。彼は呼び出して窓から突き落とした。その時脆くなっていた枠が崩れて自分も転落した」
「何故殺す必要がある、恋人を」
「・・・彼の本名はね、エルンスト・フォン・ベーリンガー、私の音楽学校の教師、偽名を使って」
「目的は?」
「復讐」
「フォン・ベーリンガー・・・。ああ確か、密告の先手を打ち皆殺しにした一族の生き残りか」
「私も殺されそうになった。何とか逃れたけれど、お母様は警戒しなかったから・・・・だって初恋の人ですものね」
くすっと笑った彼女を思わず抱き締めた。
殺された?
殺されそうになった?
こんなことを何でもない思い出のように話すお前。
そうさせたのは私たちか。
手から取り上げ、飾り箱にしまった。
娘がいやいや抱かれるところを・・・見たくはないだろう。
* * * * *
(5)
久しぶりにかけた・・・もちろん彼のいない時に。
いつもの重みが心地いい・・・でも鎖の感触が・・・少し異なるけれど・・・。
お母様の温かさがしみこんだ鎖・・・きっともう・・・捨てられてしまった、不要な物だって。
そのまま直してくれればよかったのに・・・ただそれだけでよかったのに。
あの男にはそんなこと、わからない・・・目に見えない宝物があるなんて。
でもね・・・これ以上言うと今度こそターラーまで捨てられてしまうから、仕方がない、諦めよう。
それにしても・・・高価そうな鎖に高価そうな箱。
いいのよ、彼が壊したの・・・このくらい当然。
鏡に映して少し微笑んでみた。
よく似ている、お母様に。
金色の髪、碧い瞳・・・人生も。
お母様もこんな目に?
いいえ、違う、やっぱり・・・やっぱり愛し合ってらしたのよ、それでもひと頃は・・・だってだから私が生まれたのだもの。
*
目に入った耳たぶの赤い傷。
まるでルビーの飾りみたい。
後ろから抱きかかえられて、言う通りにしろと。
拒んでいると噛んできた。
すごく痛かった。
頑張った・・・でも結局は力ずくで。
それなら最初からそうすればいいじゃない。
体だけではなく心も辱める・・・本当に下劣な男。
陛下はこんな人物だってご存じなのかしら、ご自分の財産を託す男がこんな・・・。
私を守って・・・聖ゲオルク・・・私の心を・・・。
ここは・・・美しいけれど・・・戦場なの。
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