翡翠の歌

15 間隙




半月が経ち、ようやく落ち着いて過ごせるようになった。
初めは、いつまたあの扉から入ってくるか気が気ではなかったけれど、そんな幻を見ることもなくなり、弱っていた心も少し立ち直ってきた。

相変わらずの監禁生活・・・それにはもう慣れた。
数少ない書物を繰り返し読むかピアノを弾くか・・・そうして日がな一日、居間で過ごす。
疲れると外を眺める、何も変わらないいつもの風景を。



貴族の女性って毎日何をしているのだろう?

ヴェーラは・・・結構忙しくしていた。
使用人や商人に指示したり監督したり。
あれだけの貴族なら領地もあちこちにあるでしょうから、見回りにも行くのかしらね。
それに何と言っても人づきあいが大切・・・招いたり招かれたり。
そう言うこと、ヴェーラはあまり好きそうではなかったけれど、でも出かけていたし、友人や親戚をサロンに招いていた・・・それは締め出されたリュドミールとの読書の時間だった。

アデール様は・・・得意中の得意、きっと。
夜はほとんどいなかったし、ずっと陛下ご一家のご静養について行かれているみたいで。
たまにお屋敷にいる時は明け方までパーティーが開かれていた・・・高い笑い声がよく聞こえていた。
侯爵家を仕切っているのはヴェーラ? いなければいないでアデール様がやっている?

第一・・・奥様は?
いらっしゃるはず・・・でもお見かけしたこと、ない。
伯爵と一緒にモスクワ?
皇室よりもお金持ちって聞いた・・・世界一裕福な女侯爵・・・息子もアデール様との結婚のおかげで、侯爵を名乗る特例を認められたって。

でも・・・三人とも気が強そう・・・だから私で憂さ晴らし・・・帝国軍人の名が泣いている。
彼は・・・人の気持ちなんてわからないから・・・アデール様もお気の毒。

ヴェーラ・・・無事、なのだろうか。
あなたのお兄様は・・・あなたからエフレムを奪い、私からすべてを奪っている。





眠るのは・・・相変わらず暖炉の前・・・居間ではなく寝室だけれど。
あの夜、何か・・・たぶん風の音に少し目を開けたら、すぐそばに・・・いた。
じっと見つめて・・・あんまり驚いて、クラウスって叫んでしまった。
そのあとは・・・いつも通り・・・ぶたれて押さえつけられて・・・。

それ以来寝室に閉じ込められるようになった。
クッションもコートもここにはない。
だからおとなしく寝台を使うって考えた。



何もなくていい。

そりゃあ寒いし体も痛い。
だって横にもならない。
背もたれに寄りかかって目を瞑るだけ。
これならもしまた見つかっても誤魔化せるから、つい椅子で眠ってしまったと。
熟睡できているかと言えばそうではないけれど。

勿論気づかれてしまったら・・・この間と同じ乱暴を働かれる。
そうだとしてもあんなところに横になれるものですか、穢らわしい。

少しは利口になった。
アンナをごまかすために寝たような跡をつけておく、次は括りつけられでもしたら困るから。



慣れればどうと言うことはない。
それに・・・きっとクラウスもそうやって眠っているのに違いない。
ここのように暖炉も寒風を防ぐ壁もない氷みたいに冷えた牢獄で満足な食事も与えられず。
そう思えば耐えられないわけがない・・・いいえ、耐えてみせる。
忘れろと言うけれど、皮肉なもの、あなたがする仕打ち、その一つ一つが彼との繋がりを強くしていく。

でも・・・あの時・・・一瞬、思った・・・このまま無言でいようかって・・・ほんの一瞬。
黙っていれば・・・認めたと勝手に思って・・・。

楽になれる。
乱暴も侮辱も・・・少しは減って・・・。
していることは同じ。
それなら、無用な苦痛をわざわざ味あわなくてもって・・・でも・・・。

あんな奴、死んでしまえばいいって願ったけれど、いないと確かに寛げるけれど、もし本当に死んだりしたらどうしよう。
軍人なのだから、それもあり得る。
卑劣とは言え、彼がクラウスを守ってくれているのは違いない。
もし死んだりしたら・・・。





アンナは来ないとわかっているのに体の手入れは怠らない。
留守の間に傷跡を全部消してしまおうとでもいうように熱心に香油を擦り込む。
その傷はね、あなたの若旦那様がつけたのよ・・・。

時々、服の採寸や仮縫いにお針子が来る。
お出かけになることもあるかもしれませんから、とパーティードレスやコートも作らせる。

多分・・・無駄になる・・・。
若旦那様はすっきりして落ち着いたデザインがお好みなのですよ、と暗に派手好きなアデール様を揶揄して。
でもね、せっかく作っても、あなたの若旦那様は引きちぎってしまわれるのよ。
この間なんか燃やした、あなたが告げ口するから・・・。


*     *     *     *     *



あの朝、リネンで体中を拭っているとアンナが入ってきた。


「ご出発なされました」
「・・・そう・・・」
「国境の見回りとか。奥様も御心配でしょう、礼拝堂で御無事をお祈りされては?」
「・・・」
「奥様、こちらは?」
「え? ああ・・・名の日の・・・お祝いだって・・・」
「名の日の。拝見しても・・・よろしいですか?」
「ええ・・・どこかにしまっておいて」
「・・・」
「ロシア人でもないのに名の日のお祝いなんて変。それもわざわざアレクサンドラでって。十一月の十九日なの?」
「・・・私としたことが・・・若旦那様に申し訳ない無作法をしてしまいました。昨日でしたのに」
「昨日?」
「はい・・・ここ数年は、いえ、もうずっとお祝いしてございませんが。若旦那様はそのようなお集まりがあまりお好きではなくて。それに・・・いろいろとありましたしね。でも奥様のお祝いは致しましょう、贈り物をいただいたのですから」
「・・・」
「こちらをご覧になられましたか?」
「ええ、着けさせ・・・いえ、着けてもらった。似合うって。裸に似合うって、いい趣味よね」
「・・・由来はお話しくださいましたか?」
「え? いいえ」
「・・・こちらは、"タタールの星"(Звезда татарина)でございます」
「ふうん、名前があるの」
「大奥さまがお輿入れのみぎり、大旦那様から贈られた御家宝でございます」
「え?」
「若旦那様にお形見として譲られました」
「それなら・・・若奥様のものではないの?」
「若奥様には・・・ダイアモンドの"北極星"(Полярная звезда)を贈られました。こちらも御家宝でございますが・・・ただ・・・」
「そうなの。沢山家宝があっていいわね、侯爵家は! あちこちの女にばらまいているって言う訳ね! ねえ、もう湯あみの支度ができた頃でしょう? 早く行きましょう」
「・・・奥様・・・これほどに想われておられますのに・・・なぜです? 若旦那様のご寵愛を受ければ得られないものなどありませんのに」


なぜ、ですって? 
あなたこそ、なぜそんな問いをするの? 
あなたにはクラウスがいないの?


*     *     *     *     *



若旦那様からの贈り物です、と大小の箱がテーブルに並べられた。
せっかく忘れていたのにまた彼の匂いが漂ってきそうで、うんざりしてそのまま外を眺めていると、レーナがもじもじとし出したので開けさせる。

小さな箱にはルビーの首飾りと耳飾りが入っていて、レーナが声を上げ、つけてみてくださいと催促された。


「本当にお似合いですわ、若旦那様は奥様をよくご存知ですこと、これほどのルビーはヴェーラ様も、いいえ、きっと若奥様もお持ちではございませんよ。奥様はお幸せです・・・。お戻りまでにこちらに合うお召し物も誂えましょう」


そう、綺麗だけれど、私、そこまで興味ない。
それより、まさか夜光塗料、塗ってないわよね?
そんなことのほうが気になる、まったく可愛げのない女、ね・・・。
この場にいなくてよかった、また機嫌が悪くなるもの。



あの大きな手でぶたれると気が遠くなる。
伯爵はぶったりしない、そうされなくたって従った。
もっとも、まともな言いつけしかなかったし、上官の娘でしょうし。

彼の・・・気に障るのは・・・自分を見ないこと、涙を流すこと、クラウスの名を口にしたり、ふと考え込んだり・・・自分の思ったのとは違う反応・・・。

今では、抱かれている時も・・・目を瞑ったり背けたり・・・しない・・・でも見てはいない、視線を向けているだけ。
焦点を合わせず、ずっと向こうを見て・・・そう、私に見えるのは・・・黒い瞳なんか願い下げ。



やっと・・・涙を流さないで泣くことを覚えた。
言葉を発さないで彼の名を呼ぶことも覚えた。

でも、あとは難しい。
彼のいる時・・・彼のことだけを考えて彼の望む反応をする・・・難しい、それにとても疲れる。

喜んでいないのに、喜んでいるふり。
愛していないのに、愛しているふり。

すぐ嘘だってわかってしまう・・・私、嘘をつくのは苦手。
時々失敗して一段と凍りついた苛立った瞳で見られるととても怖い、心の底から。
扱う手に余計に力が入って、翌朝の青あざで自分の失敗を思い知る羽目に。
でも・・・頑張らないと・・・クラウスの為に。

一度抱かれれば、きっと一つ彼が楽になる。
二度抱かれれば、きっと・・・。
そう思って・・・仕事なんだって思えば・・・。





あと一つには、いろんな国の新聞や雑誌が詰められていた。
ああ、久しぶり!
まったく分からなかった、長い間・・・この屋敷の外で起きていること・・・。
ずっと許さなかったのに、どんな風の吹き回しだろう。

自信?

そう、脱走の準備のように思ったからでしょう?  禁じたのは。
もう逃げ出さない・・・確信を持てたから。
そうね、私もわかっている、逃げても死ぬだけだし、今は囚われているほうがクラウスのためになる。
でも、いつか、いつかここを出る時のためにロシア語は必要。
だから・・・悔しいけれど・・・嬉しい。

それにしても・・・単純な男。
出発前に言っていた多少の自由と贅沢・・・それがこの新聞やルビーと言うわけ。
どう否定しても私は妾、愛人で・・・。
いえ、彼にとってだけではない、みんなそう思っている。
私だけが意地を張って認めないだけ。
認めたほうが楽になる、きっと・・・でも・・・。



ともかく勉強を再開しよう。
教師も伯爵もいないし辞書すらもないから限界はあるけれど、記事を音読して書き写して・・・。
あんまり夢中になってやっているものだからアンナが心配している、でも構わない。
あなたの若旦那様が認めてくださったの、もう告げ口なんてしないわよね?
久しぶりに頭がすっきりした。

レーナは私がロシア語ができるとは思っていなかったらしく、とても驚いて嬉しそうだった。
片言のフランス語の彼女はどこか疎外感があったのだろう。
かと言ってロシア語も読み書きができるわけではないけれど、わからないところを教えてもらう、もちろんアンナのいない時にこっそりと。
マリアのことで随分と怒られたみたいなのに、相変わらず味方してくれる・・・嬉しい。



合間にはピアノを弾いた。
新しい曲に挑戦する気力も湧いてきて、指や腕が痛くなるまで弾いている、こんなことは久しぶり。

何しろ楽譜はふんだんにある。
本邸にもたくさんあったけれどほとんどが古くて、しかも初歩程度の数部にしか開いた跡もなかった。
芸術に造詣が深い一族って聞いたのに。

もっともアーレンスマイヤ家だってそうかも知れない。
私は有無を言わさずだったし、お姉様たちだって教養の範囲で一通り習っただけだし、あのヴィルクリヒ先生に・・・。
ああ嫌だ、何か思い出すと嫌なことまでついてくる!


*     *     *     *     *



それからは不定期でも新聞や雑誌が届くようになった。
机にばかり向かっているので最初アンナは心配したけれど、返って顔色が良くなってきたらしく、今では小言も言わない。
むしろインクと紙の減り具合に驚いているみたい・・・そのくらいの贅沢はさせて。

やっぱり・・・今度機嫌の良い時に、ロシア語で話したいって言ってみようか。
多少の自由ってどこまでなのだろう。
宝石なんていらないから、ロシア語を。
でもよく見計らわないと・・・怒って元の木阿弥になっても困るもの。





ドイツの新聞にキッペンベルク商会の記事を見つけた時は何だか嬉しかった。
変ね、あんなにやりあった相手なのに。

アメリカの会社と合同の事業を起こすらしい。
モーリッツが采配を振るっているのだろうか。
お母さん・・・必死だった、息子の為に。
あの時、もう少しで殺すところだった、喉を・・・あんな女の舌骨を折るなんて簡単。
モーリッツが止めに入らなければ、本当に。

でもこれで落ち着くべきところに落ち着いたんじゃない?
彼は私と一緒・・・うまいけれど、それだけ・・・。

お姉様はどうなさっているだろう?
事業がうまくいっていなかったのに。
私には何もできなくて・・・それどころか、いろいろと迷惑をかけた。
ごめんなさい。
お姉様には謝ることしかない。





別の日にはイザークの記事を見つけて、思わず飛び上がってしまった。
世界ツアーの一環でパリでの演奏会。
ドイツの新人ピアニストに多少は辛口だったけれど、フランスの新聞にしては随分と褒めていた。

イザーク・・・。

よかった・・・。

私の人生の中で唯一希望を託せる人、あなたは。
光の中を進んでほしい、これからもずっと。
大丈夫、彼なら。
大衆に支えられて世界を魅了して、歴史に残る・・・。
何しろあなたはクラウスの共演者、頑張ってもらわないと!

ああ、聴いてみたい!
ロシアにも来るかしら?  敵国では難しい?
例え来られたとしても・・・私は・・・。



あの夜、秋の雨の夜。
抱き締めてくれた、力強く。
私、クラウスしか見ていなかった・・・やっと気づいた。
気持ちが揺れた、あなたの言葉に・・・あなたの熱さに・・・。
もしかしたら、考えたこともなかった穏やかな人生を送れるかもって、ここで踏み留まれば。

ああ、やっぱり無理。
あなた、私の一面しか知らない・・・きっと恋する瞳に映った幻想の私しか。

知ったら? それでも?

待っているのは・・・逃げ回る暮らし。
音楽を捨てて、裏の世界で息をひそめて・・・聖イザークに相応しくない人生。

あなたの愛を試す、そんなこと、しなくてよかった、本当に・・・本当に・・・。

今の私にできるのは祈るだけ…私の分まで、神のご加護を!





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