出て行ってどのくらい経ったのだろうか、アンナが声を掛けてきた。
おめでとうございます。さあ湯浴み致しましょう
何が・・・おめでたいの?
*
どこがと言うのではなく身体中が、皮膚も骨も、そして・・・体の奥底から・・・痛い。
恐る恐る鏡を見ると、銃創や鞭跡をも覆うように赤や青の痣が無数に浮かび上がっていた。
これが・・・私の体?
誰のだとしても目を背けたくなる有様。
まして自分の・・・。
*
気力をかき集めて身を清め部屋着をはおると、長椅子に倒れ込んだ。
外していた間に居間も寝室も整えられ、暴行がまるでなかったように始末されていた。
・・・様、奥様・・・?
幾度かしてやっと自分が呼ばれていることに気づいた・・・昨日までは名前だったのに。
不審に思っているとアンナは、若旦那様のお情けを頂戴されたのですから今日からはこのようにお呼び致しますと平然と言う。
「お食事はお持ちしましょうか? それとも、朝餐の間で?」
「・・・いらない」
「それはなりません。若旦那様からきつく申しつかっておりますから」
あの男からだけでなく使用人からも命令されて・・・言い返す気にもなれない。
*
お情け・・・。
確かにあの男は怖かった。
任務の為になら眉を微動だにせず拷問にかけ殺すだろうことはわかっていた。
でもまさかそれに乗じて欲望の捌け口にする下劣な男だったなんて。
ただ・・・ただ、昨夜が衝動的だったのなら少しは後悔して、もうしないかも知れない。
衝動的?
いいえ・・・およそ彼に似つかわしくない。
背筋に冷たいものが走った。
そんなわけがない。
あの時、監禁場所をわざわざここに移す必要はなかった。
自分の屋敷にしておけば監視は完璧で、任務は間違いなく遂行されるはずだった。
過ぎ越しの夜・・・そしてここでも・・・じっと見ていた、あの眼。
だって・・・だって、彼が・・・いくら何でも、同じ"鍵を守る役目を負っている者"が・・・まさか・・・夢にも思わなかった・・・あんな・・・下劣な男だったなんて。
それに・・・警戒・・・しても・・・逃げようがなかった、彼の屋敷で彼の使用人に囲まれて・・・あの・・・力で。
ああ、計画だったのだ、初めからの・・・。
クラウスを助ける条件を小出しにして、ここまで誘導して。
有能な軍人だって聞いた、氷の刃と称されるほどの。
その能力をこんなことに使って・・・。
手間をかけてでも、これからしようとしている卑劣な行為を妹や弟には知られたくなかった。
だから・・・ここに・・・閉じ込めた・・・。
*
看守のように傍らにいるアンナを早く追い払いたくて・・・そうは言ってもようやく食事を終えた。
身体中が痛み少しも動く気になれず、そのまま膝を抱えて蹲る。
思ってもいなかった。
男が女を抱くと言うこと・・・女が男に抱かれると言うこと。
何が起きたのか今もよくわからない。
身体中に口づけされて、違う、口づけなんてものではなかった、あれは。
いつもはあんなに冷静なのに貪るように・・・熱い息と・・・熱い声・・・同じ人だと思えない。
そして何か固いものが体の中に・・・あり得ない・・・一体、あれは何?
何度も何度も何度も。
息ができないほど強く抱き締めて押さえつけられて、酷い痛みで・・・。
これで私のものだって・・・奴には渡さぬって・・・聞こえた。
あの男のものに・・・なってしまった、の?
私、あの男のものに?
ただの・・・知り合いの。
いいえ、私を監禁している。
恋人でも何でもないのに。
いいえ、敵、なのに。
涙が止まらなかった、ずっと。
拭いもせず、ただ流れ落ちた。
涙越しに・・・クラウスを探した。
そして言い続けた、拒絶と懇願を。
なのに彼は・・・何を見ても何を聞いても止めはしなかった、一瞬の躊躇すら。
もしこんなことがずっと続くとしたら・・・耐える自信なんて、少しもない。
でもあの男は言った、見下ろしながら・・・私への呪文を・・・。
* * * * *
あまりの出来事にそのまま眠りに落ちていた、たぶん。
痛みに目が覚めて・・・自分が・・・裸だと・・・気づいた。
・・・腰に回されているのは・・・彼の・・・手・・・だ。
夢ではなかった・・・彼が・・・。
歯を食いしばって何とか自分を落ち着かせ、それからそっと・・・横を見た・・・温かさが伝わってくるほうを。
・・・眠っていた。
初めて見る寝顔。
いつもの冷たく黒い瞳は瞼に隠されて・・・私にしたことをすっかり忘れたように。
逃げなければ!
ここからすぐに!
今ならきっと鍵は開いているのに違いない!
静かに・・・起き上がろうとサイドテーブルに伸ばした、その手を掴まれて、あっと言う間に組み敷かれた。
絶望的な瞬間だった・・・逃げられない、この男からは・・・。
でも・・・叫ばずにはいられなかった!
酷い人! こんなことをするなんて! クラウス! 助けて!
突き放そうとすべての力を込めたけれど、男の、軍人の、強い力に敵うわけもなく。
ああ、絶望しかない。
追い打ちをかけるように、悪魔を思わせる低い声で言った。
獄に繋がれた者が刑期を満了できるかどうかは看守次第だ。疎んじられれば、言わば緩慢な死刑と同じ意味になる。特に連中は貴族が嫌いだからな。お前がここで生き続ける意味を欲しいのなら、奴を永らえさせる為に私に従え。看守を金で買ってやろう
考えるまでもない。
両腕から力が抜けて、彼はそれが私の答えだと受け取っただろう。
後はまた、されるがままだった。
*
そして・・・帰り際に耳元で囁いた言葉。
また来る。アンナの言いつけを聞いて早く元気になれ・・・
こんなことが・・・ずっと続くの?
クラウスの為になるの? そうよね? そうだと言って、お願い、クラウス!
でも・・・死ぬも逃げるもできないのなら、いっそ狂ってしまいたい、体だけを残して。
* * * * *
ふといつものように首筋に手をやって気づいた。
ゲオルグス・ターラー!
そうだ、引きちぎられて・・・。
何か、壁か家具に当たった・・・微かな音を覚えている。
痛みにふらつきながら、ありそうなところを見て回ったけれど、ない。
アンナたちが捨ててしまったの?
最後の望み、壁際の長椅子の下、奥に手を入れてみた。
冷たい床に、冷たい金属の感触がある。
こんなに冷たかった?
いつも私が温めていたから、金属だと言うことも忘れていた。
*
鎖が歪んでいて、どうにも直せなかった。
それに身につけていればまた同じ目に遭う。
形見と知っているのに、いえ、だからこそ残骸など捨ててしまうかも知れない。
隠さなければ・・・どこに?
でも・・・この部屋に私のものなどない。
彼にもアンナたちにも見つからない場所に・・・。
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