(1)
この一年、一度も打たれなかった。
でも、あの忌まわしい言葉はまだ耳に残る。
打ってほしい、それを追い出すために。
簡単な話。
また、大っ嫌いって言えばいい、本心を。
愛は命令や宝石で生まれなんかしない! 本当に間違っているって。
クラウスのことがなかったら、幾万回も叫んでいるのに。
馬鹿ね。
それならはじめから抱かれていないでしょうに。
ああ、聖夜の灯りはどうしてこんなにも心に沁みるのだろう。
穢れた私でもこの灯りのきらめきの前だけでは清らかにいられる気がする。
ボーイソプラノじゃない
笑われて・・・。
図星だった・・・それとも、あなた、あの時にはもう知っていた?
ううん、まだ、きっと。
もし知っていたのなら、そんな、私を陥れるようなこと、言うはずがない。
本当に可笑しかったんだ、女の声で。
仕方ないじゃない、そうなんだから。
でも、聴いてくれた。
別れの言葉は交わせなかったけれど・・・それは・・・いつも同じ。
* * * * *
特に足音を立てなかったわけではないが、彼女は気づかず一心に灯火を見つめている。
その横顔は天使のようだ。
やがて小さな声で歌い始めた。
聖歌だ、ラテン語の。
美しいソプラノ。
心の底まで沁み渡る。
歌い終わって閉じた瞳から落ちたきらめきは、真珠かダイヤか。
贈った首飾りが涙の結晶に見える。
そして、こちらに向けた瞳には怯えと戸惑いが。
ごめんなさい
何を謝る?
カトリックの聖歌か?
落涙か?
いや。
歌わせたのが奴との思い出だということだ。
気づかぬ振りをするのが精一杯のプライドか。
お前からの聖夜の贈り物としておこう。
* * * * *
(2)
あ・・・ああ、いつの間にか・・・眠っていた?
別に眠くなどないのに・・・確か、何か考え事をしていた気が・・・何、だった?
今日も吹雪。
何も見えない、真っ白で・・・私には真っ暗も同然・・・。
何のために生きているだろう、私・・・ここで。
ろくにこの街を歩くこともなく・・・クラウスを探すこともなく、あっという間に彼に・・・。
そう、ホテルに荷物を置いて、あの突堤に行った。
夕陽を見て・・・暴動に巻き込まれて・・・気づいたら、あそこに・・・。
何のために来たのだろう、私・・・この国に。
もちろん、あのままあの街にはいられなかった、二人も殺していては。
それならば・・・伯爵に助けを求めればよかった。
どうにかしてくれたはず、彼なら。
だって、あの人殺しも自分の為じゃない、鍵の為、陛下の御為なのだから。
クラウス・・・。
ああ・・・彼を・・・死刑から、死の監獄から、看守の私刑から遠ざけたのは・・・私。
ここですら、この吹雪。
シベリアはもっと・・・。
クラウスの為、よ。
この国に来たのは・・・ここにいるのは・・・。
役に立っている、私、クラウスの・・・。
だから気を確かに持って、機嫌を損なわないように。
しっかりしなくては。
*
でも、彼の態度が戸惑わせる。
遠征を境にとても同じ人とは思えない。
相変わらず黒い瞳は冷たくて言葉は少なくて素っ気ない・・・けれど、それまでとは大きく異なっている。
最初は・・・作戦かと思った。
完全に手懐ける為の。
でも・・・たかが女にそんな手間をかける? 軍務でもないのに。
いいえ・・・素直に従っているから、よ。
無駄な抗いをしなくなったから・・・あの男が忠告したように・・・手荒なことをさせるなと。
昨晩も優しかった。
蔑む言葉も青あざのできる乱暴もなくて。
ただ熱く抱いて・・・嫌だ、私ったら。
そう・・・昨日彼が言ったこと、それを考えていたんだ。
*
「明日、従姉妹のカレン・ニコライヴナ・シャフナザーロヴァがここを訪れるからそのつもりでいろ」
「え? 従姉妹? 何故?」
「話し相手に、だ」
「?」
「私と同じ年でシャフナザーロフ侯爵の子息と結婚している。芸術に造詣が深いから話も合うはずだ。それに・・・ヴェーラには会いたくないだろう?」
「それは・・・あなたのせいでしょう?」
「私は任務を遂行しただけだ」
「・・・ヴェーラは・・・どうしているの? モスクワって言っていたけれど」
「そうだ、あいつはずっとモスクワの屋敷だ。リュドミールも陸軍幼年学校に入ったからな」
「そう、なの・・・学校に・・・まだ小さいのに」
「私の弟だ、いずれ立派な軍人になって皇帝陛下にお仕えするのだ、当たり前だろう」
「あのリュドミールが軍人なんて・・・」
「誰も幼い頃は子どもっぽいものだ」
「そうね、大人が・・・周りが子どもを変えてしまうのよね・・・本人には関係なく・・・」
何だか朦朧として、気づいたら彼の腕の中にいた・・・この間と同じ。
*
つまらない思いつきから行った舞踏会。
相変わらず自信たっぷりの彼に挨拶に寄ってくる人たち。
どうやら舞踏会に来ること自体が珍しいらしく、恐らくはその理由であると思われた私は、オペラの時よりもずっと無遠慮に見つめられ身の置きどころがなかった。
そして何か嫌な視線を感じて見やると・・・。
どうして・・・正妻も来るところなんかに?
意地悪の仕返しなの?
そんな・・・最低の気遣いの価値もないのね、私には。
見世物のように連れ回して、陰で何を言われてもあなたには痛くも痒くもないでしょうけれど・・・私は?
面と向かってでなくても、言葉ってものはね、弱った人間に憑りついてしまうの。
それに、行く途中には馬車を止めて、ここがミハイロフ侯爵家の元の屋敷だって。
薄闇の中に浮かんだお屋敷はとても大きかったけれど、明りは一つも灯っていなかった。
接収されて、来年には博物館になるのだって。
「先代の侯爵が若くして死んでからは社交界を退いていたが、ようやくその息子が一人前になり宮廷に出るようになった、やけに精力的にな。一時はここも華やかだったな、サンクト・ペテルブルク交響楽団のコンサートマスターに推挙され話題になったが、直後のあの事件だ。残された夫人は陛下の温情で僅かに認められた田舎の領地に移っていった。期待していた孫に裏切られ、その上、何不自由ない身分からの転落、とても安らかな余生ではないだろう」
「・・・」
「よいか、己の祖母にですらそのような仕打ちをするのだ、奴は。お前の想いなど何の価値もない」
「・・・あなたは・・・会ったことがあるの?」
「兄のほうには幾度か、冬宮やアレクサンドル宮殿・・・演奏会にも行ったな、御前やこの屋敷での」
「・・・彼・・・には?」
「奴はまだ社交界に出ていなかった。だが、一度だけ・・・」
「?」
「・・・御前での演奏を聴いた」
「御前で・・・。素晴らしかったでしょうね、きっと。何を弾いたの?」
「音楽に興味はない」
「・・・あの・・・ピアノは・・・少しは・・・好きでしょう?」
黙ってしまった。
いけない、怒らせた? これは禁句なのね?
だって・・・あなたがこの話題を始めたのよ・・・。
でもすぐに抱き寄せられた、優しく。
大丈夫だった・・・みたい。
この人の反応は時々わからない。
* * * * *
・・・お前が弾くからだ。
そのようなこともわからぬのか。
まったく、芸術的才能は母上と・・・兄上で途絶えてしまったな・・・我々兄妹はからっきしだ。
母上が主催された御前演奏会、我が屋敷の劇場に陛下をお迎えして。
将来有望な者にも演奏の機会を与えた。
子どもの演奏などと思っていたが、なかなか・・・特に奴は秀でていた・・・そのくらいは私にもわかる。
母上はドミートリィを随分と後押ししていた。
二つの侯爵家の後ろ盾と芸術を愛する陛下の格別な愛顧・・・奴は認めなかっただろうが、あの若さでコンサートマスターに任ぜられたのは音楽の実力だけではあるまい。
まあ、それは私も同じだが、な。
あの事件では我が家も痛くもない腹を探られたものだった。
母上はそれでも奴の祖母のために手を尽くされた。
今となっては、二人に演奏させたのは不名誉な過去に過ぎぬ。
* * * * *
(3)
「大丈夫か?」
「・・・ええ、近頃・・・気にしないで、大丈夫。その・・・えっと・・・彼女・・・カレンに・・・私のこと・・・どう話したの?」
「陛下のご命令で捕らえていると」
「ついでに・・・自分の慰み者にしたって?」
「・・・言わずとも彼女にはわかっている」
「ヴェーラよりあなたに理解があるという訳ね・・・ご立派な従姉妹だこと・・・」
つい言ってしまった、あんまり自分勝手だから・・・。
でも以前なら床に叩きつけられたのに、少し苦笑しただけだった。
「ともかく会ってみろ、退屈しのぎにはなるだろうからな」
「ご命令でしたら・・・従います」
*
「奥様、カレン様がお越しになられました。サロンへご案内致しました」
「そう・・・行きましょう」
どんな女性だろう、カレン、彼の従姉妹。
本当は誰にも会いたくなどないけれど・・・命令ならば仕方ない。
「初めまして! カレン・ニコラエヴナ・シャフナザーロヴァです、どうぞよろしく」
想像していた黒髪ではなくて栗毛だった。
何だかほっとした、ヴェーラに・・・彼に似ていたら息が詰まるもの。
穏やかで明るくて幸せそうな方、あのアナスタシアのように。
何の心配もなく優雅に生きてこられた。
私、生まれ変われるなら、こんな方になりたい。
レオニードも本当に意地が悪い。
これ以上はないという幸せを見せつけて惨めな思いをさせて・・・。
でも少し話しただけで彼女の博識には感心した。
ひけらかす様子は全くなく、とても自然に嫌味なく。
私の身の上には踏み込まず、にこやかに話を続けていく。
彼が・・・信頼しているのも分かる気がした。
それにしても・・・ユスーポフ侯爵家がこれほどの芸術のパトロンだったなんて。
エルミタージュの美術品も数代前の侯爵が集めてきたって。
アルハンゲリスコエの別荘には帝室のも凌ぐ劇場があって、内外の音楽家の演奏会を開いて大勢を招いていたらしい。
奥様がご健康な頃はそれは賑やかだったとか。
そう言えば伯爵から聞いた気もするけれど、だってあの親子、そんなふうに見えないから。
「ピアノがお上手って伺いましたわ。もしお嫌でなかったら、今度お手合わせ願えませんか?」
「え? 今度?」
「ええ、是非親しくしていただきたいわ」
「・・・」
「こんな季節ですから、ベートーベンのバイオリンソナタ五番 の"春"はいかが?」
「あの、私は・・・」
「時々サロンで音楽会を開きますの、一緒に演奏しましょうよ」
「でも、私・・・」
なんて・・・強引・・・やっぱりよく似ている。
結局一週間後に音合わせすることになってしまった。
*
ベートーベン、バイオリンソナタ五番第一楽章、"春"。
楽譜・・・。
多分この中に・・・。
ああ、これだ。
まったく・・・お店の楽譜を買い占めたのじゃないかしら?
一生かかっても弾き切れないくらいある。
よく知らない人って、そういう真似、しがちよね。
これ、ダーヴィトと弾いた、復活祭の学内演奏会の時に。
あの時は・・・もう私・・・人殺しだったのに。
血塗れの手で、"春"だなんて、ね。
まあ、血はほとんど出なかったのだし、血塗れというのとは違うかしら?
・・・何、馬鹿なこと言っているのだろう、私。
不思議な人だった、ダーヴィト。
考えてみれば・・・三つしか年上でなかったのに、まるで世の中のすべてを知っているかのように落ち着いていて。
転入したての私を見るなり、二週間後の学内演奏会の伴奏役を引き受けてくれないかって申し込んできた。
ソロの予定だったのにわざわざ変更して。
別に・・・どうでもよかった、ピアノなんてもう・・・それを口実にした留学も終わったのだし。
だから気軽に引き受けた、初めて。
本当に不思議な人だった、バイオリンも独特な・・・感じで。
もちろんうまいけれど、雰囲気が、そう、実態のない、まるで風のような音だった。
それが私のピアノとあったらしくて演奏は評判になって、演奏会のたびに聴衆を集めた、リハーサルや練習室の外にも・・・ああ、手紙ももらった。
妙な気分だった。
ただ義務で弾いてきたのに・・・ピアノなんて。
誰に聴かせるわけでもなく、学校のレッスン室とお屋敷の音楽室でだけ弾いて。
それまで聴く人と言えば先生と伯爵夫妻だけ。
留学先でも演奏会はあったけれど、人前に出るのは極力避けるように言われていたから一度も出演しなかった。
私のピアノが・・・人に喜んでもらえるなんて、求めてもらえるなんて思ってもいなかった。
そして・・・今は、レオニードだけが聴いている。
彼は・・・静かな曲が好き。
だから毎日ちゃんと練習して・・・彼が満足するように。
そうだ!
ファーストキスはダーヴィトとだったんだ!
休暇から戻ってこないクラウスを心配して、寮の外にずっと立っていた私に強引に・・・びっくりして平手打ちしちゃったけれど。
彼だったら私の全てを受け入れてくれたのかしら?
大人びた彼だったら?
いえ、無理ね、イザークほどではないとしても、それは無理。
クラウスは?
受け入れてくれる?
レオニードは彼と私は敵同士だって。
確かに・・・私は陛下の財産を守る人間、人を殺してでも。
クラウスはその陛下を倒そうとしている人間、どんな手段を使っても。
それに・・・もう、汚れ切っている、私。
体も心も・・・これ以上なく汚されて穢されて。
でも、あなたの為に、あと少し生きていてもいいでしょう?
レオニードにあなたを守らせる為に・・・。
* * * * *
(4)
勇気を出して呟いてみる。
いつも心の中で呼び掛けている名を口にする。
誰も、絶対に誰もいない時に、そっと。
自分の声が耳に届く。
まだ正気なんだってわかる。
幸せか?
え?
幸せか?
・・・え、ええ。幸せよ、とても
どう幸せだ?
・・・こ、こんな綺麗なお屋敷で暮らせるし、お食事もドレスもたくさんもらえるし・・・アンナやレーナは何でもしてくれるし・・・あ、あなたは優しいし
そうだな。だが、ならばなぜ泣く?
え? 泣いてなんかいない
確かに涙は流しておらぬが、それは泣いている瞳だ
そ、そんな! そんなこと! 違う、そんなことない!
わかっているだろう、約束を違えれば・・・
守っている! 泣いてなんかいない! ごめんなさい、でもこれが私の瞳なのよ!
嘘をつくな! お前の瞳はもっと強く輝いた碧色だ!
夢にまで出てきて問い詰めないで!
あなたはあなたの夢の中で都合のいい瞳を見ていればいいでしょう!
* * * * *
「またオペラにでも行くか? 演奏会でもバレエでもよい。どこも新作の出し物が目白押しだぞ」
「・・・ごめんなさい・・・眩暈がするの。もう少ししたら・・・」
「出掛けたほうが気も晴れるだろう、明日の晩ならアレクサンドリンスキー劇場で確か・・・」
「ごめんなさい、お願い、もう少し・・・」
「・・・」
「・・・ごめんなさい。わかりました。明日・・・お待ちしています」
アデールとの鉢合わせがそれほど心痛なのか?
狭い社交界、まして出歩き好きのあいつを避けて通るなどできぬ。
そしてどちらも愛人を連れて行く・・・だがお互い様だ。
親にあてがわれた夫や妻など、正式行事にだけ必要な部品なのだから。
今更アデールにお前への感情など何もない。
同じ屋敷で暮らしでもしなければ世に存在せぬも同然。
私とてあいつが軽薄な男どもに腕を取られようと・・・。
お前はこの私の愛人だ・・・平然とやり過ごせばよい。
* * * * *
カレンはあれから何度も音合わせに訪れている。
もちろんそれは口実。
頼まれたから話し相手をしに吹雪の季節に来てくれる。
彼女は大人でとてもよくできた人で、だから私とも自然に、親戚か何かのように接している。
本心は・・・軽蔑しているけれど素振りは見せない。
何の苦労もしていない高貴な方。
そんな方から見れば、愛人なんて妾なんて同じ人間とは思えないでしょうね。
本当は口を聞くのも穢らわしいって思って、でも頼まれたから仕方なく・・・。
私だって私自身だってそう思っているのだから、穢らわしいって。
辛い・・・。
カレンに会うのも一緒に演奏するのも。
彼女は自然と幸せな音を出し私は不幸な音を出す・・・どう努力しても"春"なんて無理。
彼女の手には泥もついたことないのに、私のは血塗れ。
そんな二人が合奏するなんて。
でも・・・カレンの機嫌を損ねたら・・・レオニードが怒る、自分の計らいを無駄にしたって。
そうしたらクラウスが・・・。
いつまでこんなことをすればいいのだろう。
三日と空けず劇場や夜会に連れ出す彼だけでも手一杯なのに、その上カレンまで。
ああ、そろそろまた来る。
目眩が、このところ不意に襲ってくる目眩がして、咄嗟に手を伸ばしたけれど空を掴んだだけで倒れてしまった、ひどい痛みと共に。
生温かいものが額を濡らすのだけが分かった。
気がつくと・・・寝台に横たえられていた。
アンナが心配そうな顔をして声をかけてきた。
倒れた拍子に机で頭を切って、出血が酷かったらしい。
カレンの到着を知らせにきて大騒ぎに。
「カレンは?」
「先ほどお帰りになられました。また改めてお見舞いくださるとのことでした」
「そう・・・」
もう・・・疲れた・・・。
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