翡翠の歌

06 蜘蛛の巣




あれから一週間が経った。

手首や腕、腰や太もも・・・つまり体中にあったあざも、だいぶ薄らいできた。
打ち身に効くと言う薬を塗っているからだろうか。

アンナは最初から私付きの侍女として面倒を見ている。
何しろフランス語しか使わないよう厳命されているので、言葉の制約から選ばれた・・・だけではない。
彼が子どもの頃からの古参の使用人で忠誠心が特段に篤いから。
知らされているのは最小限でも、彼女は役目を十分に果たしている。


逃がさない。
死なせない。


そして、新しい役目が加わった。


愛人に相応しい女にする。





こうなった今思い返せば、ずっとそのつもりだったのかも知れないけれど、三つめの役目も完璧に果たそうと大いに張り切っている。

これまで以上に体の手入れに時間をかけるようになった。
基本的な湯浴みは勿論のこと、様々なオイルやクリームが肌に髪に惜しげもなく使われる。
特に鞭の痕や銃創が気になるらしく、特別に調合させた香油で何とか薄くしようとしている。
生まれてこのかた体の手入れなんかに興味がなかったので、初めのうちは人に触られるのが嫌だったけれど、おとなしく従うしかなかった。

彼女によると、予告なしにいつご主人様が来られても満足して抱ける体でなければならないそうだ、愛人とは。

愛人、ではない・・・一度そう言ってみたら笑われた。


ご主人様が抱けば、それが愛人・・・。正妻はお姫様、軍務も気の抜ける日がない、そんなお心を一時でも安らかにして差し上げる、これがあなたの役目です・・・


*     *     *     *     *



昼下がり、今夜訪れると連絡があった。
張り切るアンナとは反対に私はぞっとして、収まってきていたはずの痛みが蘇ったような気がした。

またあの行為を受けなければならないの?
彼が何をしているのか、私の体に何が起きているのかわからないまま、経験のない苦痛と感覚が体の奥底から齎された。

誰か・・・私とは全く別の誰かが・・・彼と、交わっている?  クラウスの敵の彼と。

でも彼は、私を同じ立場の人間だと言う、私もクラウスとは敵同士だと。
でも彼は、御命令で私をここに閉じ込めているだけの男。
でも彼は、クラウスを助けてくれると言う。

でも、でも、でも・・・もう、何が何だかわからない。

もし、もしも愛する人とならこんな気持ちにはならないの?





身支度を整え、晩餐をここでとる彼を待つ。


嫌、だ・・・。


抱かれるのは・・・仕方がない。
いくら恐ろしくても苦痛でも・・・そう、それでクラウスの苦痛を少しでも和らげられるのなら。
だけど!  愛人になんかならない、安らぎをもたらす役目なんてごめんよ!
勝手に役割を追加しないで!
鍵だけで十分!



レーナが到着を知らせてきても私は椅子から動かない、何度呼ばれても。
痺れを切らしてついには手を引っ張ったけれど、ありったけの力を込めて振りほどく。
最近は見せていなかったこうした態度にひどく驚いて出て行ってしまった。

たぶんホールではアンナが近況を話していて、そこへレーナが駆け降りて・・・。
きっと、奥様は頑として動かれませんって言うの。
そしてまるで自分の落ち度のように蒼白になったアンナを制して彼が・・・。





一週間ぶり・・・。
この卑劣な男はいつもの冷たい表情のまま、つかつかと近寄ってきた。
見つめた瞳が一瞬逡巡しているかに思えたのは見間違いだったろうか。
幾つかの選択肢から取った行動は手首を捻り上げ床に叩きつけることだった。


「私に恥をかかせるな!」


そして・・・あの夜のように冷たい床の上で穢した。
押さえつけられて抵抗もできないのに、まるで立場をわからせるかのように誂えたばかりのドレスは引き裂かれた。
肩章や勲章が肌に擦れて痛い・・・でも彼はそんなことはお構いなし。





入れ替わりに来たアンナは何か言いたげだったけれど、一言も聞かない態度を取り続けたためか、説教も忠告もされなかった。

傷に沁みながら仕方なく湯浴みした後、夜着になった私は寝室に放り込まれた。
扉を叩いて抗議しても押さえつけているらしく、びくともしない。
諦めて振り返ると寝台が蝋燭の光に浮かび上がっていた・・・処刑台のようだ。
あれ以来ここで寝てはいない、あまりの悍ましさに。





ふらつきながら窓際に辿り着く。
銃弾や刃物での傷とは違った、何か根源的な・・・屈辱的な痛み。
ふくらはぎに何かが滴ってきた感覚に手を当てると・・・この間もそうだった・・・。

私の体、どうなってしまうのだろう。

いいえ、大丈夫。
こんなことくらいで挫けやしない。
あんな下劣な男に負けやしない。





暗くなった外を僅かにカーテンを開けて覗いてみる。
灯火がずうっと向こうまで続いているのが見えた。

運河の名前もここがどこかも未だにわからない。
アンナに聞いても教えてくれなかった、多分サンクト・ペテルブルクだろうけれど。
もちろんレーナからなら・・・聞き出せるかも知れない・・・でも彼女が怒られるのは・・・可哀想だし。

それに、わかったところでどうにもならない。
図書室と居間、寝室、控えの間、浴室は続き扉で行き来できるけれど、その全ての窓には鍵が掛けられ、部屋の外ではいつも使用人たちが見張っているのだから。

夜には扉にも廊下側から鎖鍵がされる。
朝、アンナがそれを外す音・・・まるで牢獄に響くよう。
自分は囚人なんだって、毎日自覚させられる。

そんな生活が一年も続いて・・・そしてこれから何年も何十年も続いて・・・もうこれ以上酷いことなんてないって思っていたのに。





あと少しすれば、あの扉から彼が入ってくる。
きっと朝まで・・・。

必死でクラウスを想い、レーゲンスブルクでの想い出を手繰り寄せる。



でもあんまり褒められたものはないのかも。
何しろ最初の出会いは、イザークに因縁をつけた彼を平手打ちしたんだし。
そこに先生から水を浴びせかけられて、転入早々風邪を引いた。

ボートから落ちてびしょ濡れになったのは初夏。

彼だと思ってついて行ったら先生に殺されそうになるし。
そのあと雨の中、秘密警察に追われて・・・。

何だか濡れてばかり。
何だか笑っちゃう。

黙っていれば結構美男子なのに口が悪くて手も早くて。
あ、同じこと、私も彼に言われたっけ。



あの時、打ち明けていたらどうなったのだろう。
言っちまえって・・・私の素性を知って、それでどうしたの?
わざわざボートで寄ってきて、本当にどういうつもりだったのだろう、どうするつもりだったのだろう。

ただ恰好つけただけ? 先輩として。
まさかこれほどの隠し事があるなんて思っていなかったでしょう?
知ったら・・・逃げ出した? それとも仲間に売った?

もしかしたら、人生をやり直す、あれが最後の機会だったのかも。
勇気がなくて踏み出せないうちに、冷たくなって、避けられて。

気に食わない奴だったけれどモーリッツの悔しさもよくわかる。
それは、私も同じ・・・醜くて、嫌になるくらい。
結局、彼と一緒にいた時間はイザークのほうがずっと長かった・・・。





クラウスのどこにこんなにも惹かれたのだろう。
私にも秘密が、彼にも秘密が、お互い人には言えないことばかりだった。
考えてみれば表面的な話しかしていない、他愛もない話しか・・・なのに・・・。

そう、あの瞳・・・。
理由なんていらない。
思い浮かべるだけで、キュンとなる。


クラウス・・・。


背後から腕を回され、顔を髪に埋めてきた。
思わず身を竦めたのが気に障ったのか、乱暴に振り向かせ唇を深く奪った。


「手荒なことをさせるな」


まるですべての責めが私にあるみたい・・・。
ああ、早く朝になりますように・・・。





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