翡翠の歌

08 夢




(1)



やっと十時を回った。
もう来ない。

ほっとする。
一日のうちで安心して寛げる・・・わずかな・・・大切な・・・時間・・・。
昼間は・・・いいえ朝でも、いつ来るか、その連絡が齎されるか気が気でないから。

お茶を淹れて明かりを減らして、休むからってアンナたちを下がらせて暖炉の前で過ごす、いろんなことを思い出しながら・・・マリアと。

前は心が凍り付いた鍵をかける音・・・今ではかえって安らぐ。
もうあの男は来ない。
私を守ってくれる音。



あれからずっと・・・寝台を使う夜はない、彼がいない限りは・・・。
穢らわしい・・・あんなところで眠るなんて・・・彼の匂いの染みついた・・・。
あそこで・・・あの男が私に・・・思い返すだけでぞっとする。
彼は満足して・・・私は痛みと屈辱と・・・望まない感覚に耐えるだけの・・・あの・・・。



今ある幸せは失ってから気づく。
不幸は、底なし沼。
これより酷いことはないって・・・それをどうにか感じないで過ごせるようになって・・・でも見計らったみたいに、もっと酷い不幸がやってくる。





せっかく今夜はここにいないのに体からあの男の匂いが漂う・・・どんなに念入りに湯浴みしても。
口にするもの全てが葉巻の味で吐き気がする・・・幾度漱いでも。



この前・・アンナに頼んでみた。


「ねえ、これより強い香油とか香水はない?」
「勿論ございますよ・・・皇室御用達の工場も多くありますから」
「そう。それなら私、強いのがいい。そうして」
「なりません。若旦那様のお好みでありませんから」
「・・・でも・・・奥様は・・・」
「あれは・・・奥様のお好みです」
「私もそのほうが好き。もっとはっきりした・・・」
「いいえ、なりません。奥様は若旦那様のお気に召すようになさらなければ」
「・・・愛人・・・だから?」
「さようです。それに、奥様にはお似合いになりませんよ、強い香りは」


そんなこと、わかっている。





クッションをかき集めて毛皮に包まって・・・居間で眠る。
どうせ永久に出番のないコートだもの、こうして役に立っているだけいいじゃない?
こんな豪奢な部屋でまるで宿無しみたいに・・・だけどずっと落ち着ける。
せめて彼の匂いのしないものに囲まれて休みたい・・・早く眠ろう、何も考えずに。


嫌だ、思い出した・・・娼婦だって言われた。
愛人でも妾でもない、ただの・・・気取るなって・・・。


娼婦・・・それも駆け出しの・・・ だから教えてやる 心得を な

男に抱かれて涙を流すのはおかしい 顔を背けるのも目を瞑るのもおかしい まして一人の男を想うこと・・・想い続けるなど・・・笑止千万だ

女ごときに不自由しておらぬ 別の屋敷に従順で気の利いた妾もいる 高級娼婦の合間の退屈しのぎにお前のような素人娘を抱いてやっているのだ・・・ せいぜい気に入られるように主人の命令を聞け

泣くな 私を見ろ 他に何の役にも立たないのだから・・・


心が・・・壊れてしまいそう・・・。

こんな・・・こんなことまで・・・私の役目?
お父様! 伯爵!





駄目、何も考えずになんてできない・・・あの男を追い出さないと。
そう、クラウス・・・クラウスのことを考えよう。



ねえ、クラウス・・・。
あの時・・・あの夜・・・あなたと・・・"ロマンス"。
初めて・・・そして・・・最後の・・・一度切りの・・・。
気づいていたのよね?  あなたの伴奏をしたかったって、ずっと。
嬉しかった・・・私を・・・私の心を・・・見ていてくれた・・・。

あなた・・・退学する少し前から下級生たちを構って。
彼らも・・・わざと見せつけるみたいに・・・。

苦しかった、本当に。

でも・・・きっと・・・あなたも、苦しかったのよ・・・ね?
そう・・・信じたい。



出発したって・・・黙って出発したってダーヴィトに聞いて・・・追いかけた・・・。
乗馬は得意だけれど・・・鞍もなくてあの距離、あの道・・・。
本当は・・・振り落とされて・・・死んでもいいって思った・・・あなたを失うくらいなら・・・失って生きていかなければならないのなら。

やっと・・・追いついて・・・なのに気づいた時、やっぱり・・・一人だった。
夢を見てはいけないんだって思った、そんな資格はないのだって、私に。



そして、落ち葉を踏む音・・・振り向いたら・・・あなたが!
幻かと思った、神様が哀れんで一瞬だけ見せてくれた・・・幻と。

でも!  あなただった!  水を滴らせながら、ばかたれ!  って・・・俺を殺す気かって・・・。
抱き締めてくれた!  強く強く!
今も思い出せる!



ミュンヘンのお屋敷で・・・一緒に食事をして・・・演奏して・・・口づけして・・・。
あの時・・・今思えば・・・あの時・・・あの時限りだったとしても・・・抱いて欲しかった・・・穢される前に・・・それなら・・・傷跡なんてなかったのに。
ただ・・・男と女のことなんて何も知らなかった・・・だから、あなたが望んでも・・・きっと怖かった・・・だけど・・・。

ああ、せめてそうだったのなら、今もそれが支えになって。
あなたの為にできるのはもうここにいることしかないけれど。
あの男の機嫌を損ねないように、気に入られるように振る舞うしかないけれど。





今夜も心だけはあなたの元へ飛んで行く。
でも私・・・穢れているのは体だけと言い切れない。
だから、あなたが穢れないために・・・遠くから見ている・・・聖ゼバスチアンの時みたいに。
それだけは、誰にも・・・邪魔できない。

さあ、微笑んで。
心配をかけてしまう、こんな顔では。


    *     *     *     *     *



(2)



アデールが珍しく屋敷におり、例によって仲間を集めている。
正式なものではない。
気まぐれに思いつき、強風の中、いつもの連中に伝令を飛ばし夕刻から始めたくだらぬ馬鹿騒ぎだ。

使用人たちも難儀だが、もう慣れただろう、女主人の振る舞いには。
それでも主人として客に・・・アデールがいなければ決して付き合うなどない客と一通り挨拶を交わし、執事や女中頭の不満を巧みに隠した仕事ぶりを脇目で見ながら書斎に避難する。

いい加減・・・うんざりだ。

扉を固く閉じていても窓を固く閉じていても、甲高い笑い声と傍若無人な話し声、そしてむせかえるような脂粉や香水の匂いがここまで入ってくる。
私のほうは一向に慣れることができぬ。





気がつけば・・・一人、出かけていた。
このご時世に不用心だが、今夜は部下たちからも解放されたい。

突然訪れれば・・・いつも以上に憮然とするだろう。
しかし、会いたい、会いたいのだ。

あれといると・・・寛げる。
不愉快な匂いもしなければ着飾りもせぬ。
いや、あの碧い瞳、桜色の唇、煌めく金色の髪こそが、自ら匂い立つ比類ない衣装そのもの。
会話も・・・ごく理知的で・・・穏やかで・・・体は柔らかく、温かい。





アンナは特に驚きもせず、奥様はもうお休みになられましたが、と言いながら鍵を開け、控えの間に酒の用意をした。
湯浴みして纏わりつくアデールたちの匂いを消し、一杯呷って寝室に入る。

当然いるはずの寝台に・・・いなかった。
横になった様子もない。

逃げ出したか、と一瞬慌てた。
だが・・・居間に入ると・・・いた、暖炉の前に。
クッションとコートに包まり眠っている。

つまりは・・・いつもはこうして休んでいたと言うわけか。
嫌われたものだ。





傍らに座り、ランプの光に照らされた寝顔を眺める。
もう今夜は訪れぬと安心している。
どのような夢を見ているのだ?  幸せそうな顔で。
そんな表情をさせることはできぬ・・・今の私には・・・が、いずれ・・・。

しかし、果たして、そのいずれと言う日が訪れるのか・・・。
あの時・・・お前は覚えていなかった。
名のっても・・・一瞬の間の後ようやく思い出した。
雪の舞う木立の間から遠目でも気づいた私とは・・・天と地の差だ。





さて、どうする?
ここで起こせば、たちまち騒動になるだろう。
このまま帰るか?
待て・・・もう少し・・・もう少しだけ・・・見ていよう、この美しい天使を・・・心が澄むまで。

その時一段と強く吹き、僅かに開いた瞳に姿が映ったのだろう、怯えた色をこれ以上はないと言うほど全身に湛え、声にならぬ悲鳴をあげた。
咄嗟に床に組み伏せた。


「クラウス!  クラウス! 助けて!」
「そうか、やはり奴の夢を見ていたのだな!  忘れろと言ったはずだ!」
「嫌よ! 放して! クラウス! 助けて! クラウス! クラウス!」


思わぬ事態に狂ったようにあいつの名を叫びながら抵抗する彼女を寝台に放り投げた。





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