翡翠の歌

12 聖書




(1)



あんなことをしておいて、また翌日に表情も変えずに来るなんて・・・傲慢過ぎて呆れる。
自分の訪問を私が本心から喜んでいるとでも?


「何か、弾いてくれ」
「!?」
「どうした?」
「え・・・いえ・・・わかりました」


昨日軍靴で踏みつけられた手で演奏できる楽器なんてない・・・なのに・・・。

咄嗟に静かでゆっくりとした短い曲を選んだ。
左手で少しはよかった、細かい所は適当に省いて、ともかく弾き終えた。

終わりにする時には短い拍手をして立ち上がり、近づいてくる。
でも一曲目、そんな様子はない。
仕方なく次を始めた。
頑張ったけれど・・・。


「どうした?」
「ご、ごめんなさい・・・間違えて・・・」


同じところから弾き直す。
でも・・・でも・・・もう・・・指が言うことを聞かない。

弁解の言葉を探していると、背後に来て手を取った。
ぶたれると思ったけれど鍵盤の上に戻すと黙って扉へ向かい、顔も向けずに言った。


「帰る」
「!?」


思いもしなかったことに呆然となり慌てて後を追った。

いけない! 怒らせてしまった! ああ、怒らせてしまった!

足早にホールへ降りていく彼にアンナとロストフスキーが急いで近寄ってくるのが見える。
私は夢中で叫んだ。


「待って! 待って! 帰らないで! ごめんなさい! ちゃんと弾くから・・・ごめんなさい・・・お願い・・・帰らないで・・・お願い!」


結局・・・振り返りもしなかった。
これまでどんなに機嫌が悪くなっても抱かずに帰るなんてなかったのに。

きっとほかの妾のところに行くんだ・・・素直で気の利いたって言う。
どうしよう・・・どうしたら・・・。


*     *     *     *     *



(2)



帰らないで、か・・・。

彼女の行動は全て・・・あの男の為だ。
命令を聞くのも機嫌を損ねぬよう振舞うのも。
皮肉にもそうされるほど、奴への想いの強さを知る羽目になる。
勝手な話だが、な。



馬車に乗り際に尋ねた。


「手当てをしておらぬのか?」
「あ、あの・・・お見えになる少し前に・・・外してしまわれたのです、心配されるからと」


ピアノを弾けずに怒ったと勘違いし慌てていたが、不覚にも動揺したのはこちらのほうなのだ。
私としたことが・・・たかが甲の鬱血くらいで。


*     *     *     *     *



(3)



どうしよう・・・。
もう三日も来ない。
もう・・・二度と来ないのでは?

どうしたら・・・。

手紙を書く? 謝罪の文を。
アンナに伝えてもらう? 謝罪の言葉を。
いいえ、心にもない言葉を重ねるほど皮肉だって取る。

それに、まだ無理。
もしすぐ訪れても・・・ちゃんとは弾けない・・・二の舞になる。





決めかねているうちに、ようやくやってきた。
相変わらず不愛想だけれど、でも、いい。


「あ、あの! ごめんなさい、この前は弾けなくて」
「・・・」
「もっと練習するから今回だけは許してください」
「・・・勘違いするな、お前のピアノなど、どうでもよいことだ」
「え?」
「満足に相手ができそうにないから帰っただけだ。役立たずに付き合うほど暇ではない」
「・・・」
「まあ・・・練習はしろ。何もせぬのはよくない。だが不完全なものを聴かされるのはご免だ。具合が悪いのならそう言え。わかったな」


こうして何事もなかったみたいにまた頻繁に訪れる。
ともかく・・・安心した。
クラウスの為・・・どんなことにも耐えて・・・痛みにも侮辱にも・・・頑張らないと。





あんまり申し出ないとどんな仕打ちをされるかわからないから、久しぶりに弾いた、静かで短い曲を。



それでも・・・心を込めて弾いてきた、ずっと。
いくら世を覆うほどの才能がなくても・・・あなたに聴かせるためにでも・・・。

有無を言わさずやらされた。
ようやく音楽の魂に触れたのは聖ゼバスチアンでだった。
一曲一曲・・・一音一音、神への祈りと聴いてくれる人への想いを込めて。
皆が私に教えてくれた。
そう・・・そうよ・・・例えあなたにはどうでもよいことだとしても・・・失わない・・・私の・・・財産だもの・・・人生だもの・・・。





でも、本当に痛い、踏みつけられた手が、まだ・・・。
銃の傷もあるのに。
聴きたいのなら暴力を振るわないで。

それとも、痛みに堪えながら弾くのを見たいの?
そう、ここは監獄。
看守は事あるごとに囚人を痛めつけた上で、極寒と酷暑の中、重労働させるって聞いた・・・それと同じ。
いいえ・・・それに比べれば・・・クラウスの苦しみに比べれば・・・。



ああ、本当に・・・私・・・何を馬鹿な努力をしてきたのだろう。
あの男の為?
無駄よ、無意味よ。
石にもケダモノにも心などない。
あの耳は飾りなのだから。
目の前にいても私の言葉などピアノなど聴こえてはいない。
お願いだって抗議だって一度も聞き入れたことないじゃない。

でも音は・・・音楽だけは・・・この牢獄から自由に飛び立ち・・・シベリアへ行ける。
そう!
これからは・・・クラウスに届けよう、私の音楽を・・・穢らわしい男の頭上を高く超えて・・・邪魔なんてさせない。
私の音楽が彼を・・・少しでも慰められるなら・・・。


*     *     *     *     *



(4)



「聖書?」
「ええ、私の・・・」
「お前の持ち物などとっくに捨てたが?」
「え?  聖・・・聖書も?」
「カトリックのだろう」
「・・・そう・・そうなの」





そう言えば思い出した。
ラテン語の小さな・・・ドイツから持ってきた。
僅かな衣類は別邸に監禁した時点で処分したが、さすがに捨てられなかったのだ。

ずっと書斎の片隅に置いてある。
信心深いとも思えぬが、そうと聞いて震えていた。
まあ幼い頃からの信仰だ、祈りたい時もあるのだろう。

何の気なしにパラパラとめくると、真ん中あたりに乾いた花が挟んである。
これは・・・ミモザか?
すっかり色褪せ、あの花を知らなければ黄色とも思えぬほどだ。
栞がわりか・・・変わったことをするものだな。





これか? と差し出すと目を見開いて受け取り、礼を言った。


「改宗したらどうだ?」
「え?」
「ロシア正教に、だ。この屋敷にも礼拝堂がある。そこで祈ればよい」
「・・・あなたが・・・望むの?」


思わず苦笑してしまった。
まったく・・・信心も私次第か。


「いや違う。私は宗教など興味はない。お前が何を信じようと全く構わぬ」
「それなら・・・私、このままで・・・いたい・・・お願い・・・」





お前の神はこんな娼婦でも救ってくれるのか?

その夜、抱きながらこう問うた。
一瞬きっと私を見据え、すぐに顔を背けたが、もとより返事は期待しておらぬ。


*     *     *     *     *



(5)



いつもの・・・違う! いつもにまして悪夢のような夜がやっと終わった。
何故あんなことができるの?
男は誰でもそうなの?

聖書を持ってきてやったのだから、その引き換えと言うように・・・。
これでは・・・ロシア語で話したいなんて望んだとしたら、どんなことをされるか。



この間だって図書室に来て。
ロシア語の本は一冊もないから、せめて覚えている限りの単語を書いていただけなのに。
隣には部下が控えているのに、まるでそれを楽しむみたいに。

神様、どうか罰を与えてください!  私にもこの下劣な男にも! って、ずっと叫んでいた、心の中で。





馬車が走り去るのを確かめてから痛む体を何とか湯浴みして清め、監視されながら朝食をどうにか食べ終える。
はやる気持ちを悟られないように、読書すると言うふうに掛けて本を手にすると、アンナは安心して出て行った。

待ちかねて昨晩さりげなく書き物机に置いた聖書に駆け寄った。
震える手で・・・開く。
覚悟はしている、もう、なくなったって。


あった・・・ああ、神様、ありがとうございます・・・。


聖書ごと抱き締めて泣いてしまった・・・もちろん涙はとっくに枯れていたけれど。

あの夜。
人生で一番美しく幸せな、そして悲しい夜・・・暗い空を照らすように・・・私の人生を照らすように輝いていたあの花々。
色は褪せていても、眼を閉じれば蘇ってくる。
クラウスの声も温かさも、あの瞳も。





あんまり手に取っていると、まして抱き締めていると、ターラーみたいに怪しまれるから、いつでも目に入るよう机に立て掛かけておくことにする。

そして、涙も流さず泣きながら、声も出さず彼の名を呼びながら・・・このまま狂ってしまいたいと心から願った。
そうすれば・・・何も感じなくなる、あの男の穢らわしさも・・・自分の穢らわしさも。
体さえあればあの男は満足して、私の魂は解放される。

でも・・・でも、もしそうなったらクラウスも忘れてしまうのでは?

ここにあるのは紙とペンだけ・・・残しておかなければ。
小さくちぎった紙に小さな小さな文字で書き始めた、近い将来の自分に向けて。


マフカへ
狂ってしまうかも知れないのでこれを書き記します
あなたが絶対に忘れてはならないことを


書いていると嫌でも手首が目に入る・・・鮮やかな・・・青あざ。
ひどく擦れて赤くもなっている。
いつものこと、と、アンナは特に驚いたふうもなく香油を塗ったけれど、枕が暖炉で燃えていたのには少しだけ・・・絶句していた。

青色が染み込んでしまうのではないかしら、このまま。
まるで罪人のよう、手枷をはめられた。
そう・・・罪人。
救われる日はこない・・・娼婦、だもの。





でも、あの時の青あざは・・・あれは・・・嬉しかった、ずっと残っていて欲しかった。
カーニバルのパレードの後、雨の中、クラウスが手首を強く掴んでヴァルハラまで駆けて行った。
随分と遠かったけれど、それも嬉しかった、一緒に・・・二人きりでいられることに。

写真を見て・・・あなたがロシア人だって明かされていた。
本名も、アルラウネが亡くなったお兄様の婚約者だったと言うことも。
そして薄々気づいた、あなたが・・・活動家だって、亡命中の・・・いつかは祖国に戻るって。
だから、だからこそ、少しでも長く一緒にいたかったから。





誰も来ないうちにと急いで、ようやく書き終えた。

最後のページに挟み込み、蝋で薄く留める。
拙い仕上がりだけれど、それでもせずにはいられなかった。

あなたのことは決して忘れない・・・狂ってしまっても。





↑画像をクリック