翡翠の歌

16 前線




(1)



コロニロフ将軍の副官として、来たるべき開戦に備え国境の体制を強化し、補給拠点を整えて回っている。

多くの将軍の中で彼は能力が高く信義も篤い。
仕官してすぐ、極東戦線に随行した。
箔をつけるようにとの陛下の御配慮であったが、共に戦うことが私には楽しかった。

戦争が楽しいとは不謹慎かも知れぬが、私はやはり硝煙の中が相応しい。
作戦を立て実行し、有利となっても不利となっても次の手を考え駒を進めていく。
自身も兵も負傷し死んでいくが、それもまたよし、だ。



口ばかりで隙あらば人の足を掬おうとしている貴族や金の力で取り入る成り上がり、愚かな女の脂粉の匂いと嬌声に溢れる宮廷には、まったくもって嫌悪の感情しかない。
帝国有数の大貴族の私がこんな人間であることは・・・そう、アデールにとっては不幸なのかも知れぬ。
あいつは私が政治力に長け、安全な場所での出世を何より望んでいる・・・それは自分の出世を意味するからな。

政治力・・・それも私利私欲のための。
くだらぬ。
宮廷がそんな体たらく故、我が帝国も・・・。



いや、今は未来の戦場を楽しもう。
広い空の下、目的と運命を同じくする者たちとの時間を。
上官も部下もない、この一体感を。





時折、想う。

あいつは今頃どうしているのか。
私がおらぬ毎日に安堵して過ごしているに違いない。
まあ、よい・・・元気になってほしいからな。



同じ侯爵家でも大違い、か・・・。

あの男は抱いていなかった。
奴なりの責任の持ち方だったのだろう。



閉じ込め、私しか視界に入らずともなお、お前は私を見ぬ。
私が与える快楽だけを感じさせ、奴の名を封じ込めてもなお、私を想わぬ。

あの強く碧い輝きが見たくて、ほんの一瞬だとしても見たくて・・・娼婦と罵った時の瞳は奴に向ける輝きとは異なるが、それでもいつもは通過していく透明な視線に比べれば、心を震わせてくれる。
まるでアヘン患者のごとく、止めようと思ってもつい口にしてしまう、心にもない言葉を。



そうだ・・・夏前に注文しておいた宝石・・・喜んだろうか。
碧い瞳に対抗する真っ赤なルビーだ。

もっとも、身につけて人前に出る機会などないが・・・。
もし夜会にでも連れて行けばお前は注目の的、私がエスコートしていなければ言い寄る男は切りがないだろう。

宝の持ち腐れ・・・。
お前もルビーも・・・サファイアも。
あの屋敷で時の流れから隔絶され生きていく。



抱いてから半年、お前は女になった。
既に体は私のものだ、私を求めしがみつき、激しく甘い声をあげているではないか。
相性とは何も心だけを指しはせぬ。
失うことはできぬ、私もお前もお互いに・・・離れられぬのだ。

だがお前の心はそれを認めぬ、頑として。
快楽が強いほど背徳を恐れ慄いている、神とあの男に対して・・・。

それがお前を病ませている。
いかにすればよい。
どうすれば心を得られる?


*     *     *     *     *



(2)



当分は来ないから・・・久しぶりに一日中つけている。

安心する。

どんな高価な宝石にもそんな力はない。
私に安らぎを与えてくれるのは、これだけ。



お母様。
どんな気持ちでつけていた?

よくこう、さすっていらした。
目を閉じて、静かに。

先生のこと、思い出していた?
どんなところでデートを?
どんな話を?
楽しかったでしょう?

でも・・・お互い本当のことは言えなかった。
名前を偽って、身の上を偽って。

もし二人ともがほんの少しだけ勇気を出して語り合っていたら、運命は変わっていた?
そうしようとは思わなかった?

そうしたら私は生まれてこなかったかも知れない。

だけど・・・それで構わなかった。


*     *     *     *     *



綺麗なお衣装。ふわふわして、きらきらして。それに髪飾りは真珠とガーネット? 頬も唇も薔薇色で
触らないでよ、汚れるわ
え? ごめんなさい、触らない、嫌なら・・・。ね、でも、フランスから来て、あなたにもお友だち、いないでしょう?
今はいないけど、ご主人様にお願いすれば何人も連れて来てくれるわ
そう・・・それなら・・・それまではお話ししましょう。お願いするにもレオニードはまだ当分帰ってこないもの
いいのよ、構わないで! あなたと話すくらいなら一人でじっとしているほうがずっとましよ!
どうして? ここには私たちしかいないのに
あのね、私はね、フランスで一番の職人が作ったのよ。この夏にもお姉様はスペインの宮廷に行ったの。衣装も装身具もお道具も本当に豪華で美しかったわ。私はロシアの侯爵様のところにって急に決まったけど、何もかも最高の品を揃えてもらった。宮殿のようなお屋敷で大貴族の奥様やお嬢様のお相手になれるって、みんなから羨ましがられたのに。それなのに、あなたみたいな人の部屋にずっといなくちゃならないなんて
・・・私が、嫌いなのね?
好きとか嫌いとかそんな話じゃないの。住む世界が違うのよ、私とあなたとは。一緒にいると私まで穢れてしまいそう!


そう・・・マリアの話だって、私、聞いた試し、なかったじゃない。
言いたいこと、話したいこと、あったでしょうに・・・一方的に私だけが話して。

うんざりしていたのかも。
確かにあの子はみすぼらしいなりだったけれど・・・恥じる生まれではなかったはず。
そして・・・誰の妾でもなかった・・・まして娼婦なんて・・・。


*     *     *     *     *



「模様替え?」
「はい。今日からしばらくかかります。静かにするよう申しつけてはおりますが、どうしても音はいたしますのでお許しください」
「ええ、それは構わないけれど、二つ隣の部屋をどうするの?」
「別に寝室を設えるとのお指図です」


何それ。
帰ってきたら気分を変えて抱きたいって?
嫌ね、まったくあの男は。



時折聞こえる話し声が嬉しい、ロシア語だもの。
いくら静かにって言っても、男の労働者の声はここまでも届く。





すっかり葉も落ちた頃、ようやく終わったらしい。


「ここで? 本当にレオニードがそう言ったの?」
「もちろんですとも。お帰りになるまでこちらでゆっくりとお休みになるようにと」


どう言うつもりだろう。
何の童話だったか・・・肥らせてから食べるって。
少しは元気にして、また痛めつけようって言うの?



今日はピアノの音も聴こえてくる。


「ねえ、あの音は何?」
「音楽室のピアノでございます」
「音楽室?」
「隣棟にありますがあまり使われていなかったようで、そこも模様替えしました。先日ドイツからのピアノを入れましたので、それを調律しております」
「ドイツから? わざわざ? 誰が使うの?」
「奥様・・・もちろん奥様のために若旦那様がお求めになられたのですよ。明日からはそちらでお弾きくださいね」


機嫌をとっているつもり?
お前のピアノなんてどうでもよいって言ったでしょう?
抱く前の退屈な余興としか思っていないくせに。





国によって形も音も違う、今まであまり気にしたことはなかったけど。
でも懐かしい、やっぱり。
一番真剣に音楽に取り組んだあの頃の感覚がよみがえるみたい。



え?
何か、この音、弾くのに鍵盤が。
調律したばかりなのに。
やっぱり気候が違うのかしら。
板を上げて覗いて見たけれど、特に何も・・・え? 何か薄い、紙?

弦の隙間に指を入れてやっと取り出した。
折り畳んだ紙。
何かしら。
ドイツのピアノの職人の?
でも調律した時、気づかない?
それに・・・ロシア語。


このピアノを弾かれる方へ
侯爵家の楽器を任されております者です。
お屋敷で仕事をしていました時に、その少し前に調律した音楽室からショパンが聴こえてきました。そしてまたここでも同じ演奏を遠く耳にできました。このピアノはあなた様に相応しい調律を施したつもりです。あなた様がどのような方なのかうかがい知ることはできませんが、あの煌めくショパン、幸せな時間、それをお伝えしたくて畏れ多くも手紙をしたためてしまいました。お許しください


いてくれた。
こんな危険な形で思いを伝えようとするほど私のピアノを・・・。
ああ、嬉しい。
ありがとう。
どれほど勇気づけられたか。

そう、目の前のあの男や従う人達、彼らを見るのは止めてしまおう。
気にすることも怯えることもない。
私に必要なのは、ここにいない人達なのだから。



袖に隠して新しい寝室まで持って来た。
また元に戻しておこうとも思ったけれど・・・音のしない時間が長すぎたのかアンナが入ってきて・・・咄嗟に中に落として何とかやり過ごした。
駄目、彼女はきっと見つける、変な表情だったもの。

とても残念だったけれど、アンナの目を盗んで細かく千切って暖炉で燃やした。
でも、忘れない。
優しい言葉、優しい気持ち・・・それを伝える勇気。

ありがとう。





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