(1)
小さな小さな秘密。
小さな小さなお人形。
あの塔で・・・もう今は決して登らないあの塔で見つけた。
ただ一つ開く二重窓の隅に押し込められた、素朴で古びたお人形。
どうしてあんなところに。
きっと使用人の子どもがこっそり遊んだんだ。
それか、まだ幼いのに働きに出された子が大人の目を盗んで一時安らいだのかも。
ずっと一人であそこから見ていた、ロシアの空を。
寂しかったでしょう?
お名前は?
忘れてしまった?
それなら・・・私のお友達と同じでいい?
とても仲が良かったのよ。
本当に似ている・・・フランクフルトでいつも一緒だったあの・・・。
寝室の椅子でまどろみながら夜通し話しかける。
お母様のこと、クラウスのこと。
レーゲンスブルクやパリ、ロンドンの思い出も・・・ほんの少しの楽しかったこと、たくさんの悲しかったこと、辛かったこと・・・寂しかったこと・・・幾度も幾度も・・・忘れないように。
微笑んだ彼女は黙って、でも、それでそれでって聞いてくれる。
あなたはドイツ語がわかるのね・・・ドイツ生まれなの?
*
昼間は寝室の戸棚の隅に隠してある。
知っているのはレーナだけ・・・一緒に見つけたから。
黙っていてってお願いした。
お掃除をする彼女が味方になってくれれば大丈夫。
この前はアンナの留守の間に繕って・・・少しましになった、本当にぼろぼろだったから。
レーナもこんなお人形を持っていたって、孤児院で。
他の子に盗られないようにとても気を遣ったって。
優しい子・・・子っておかしい! 大して年は変わらないのに。
昨日耳打ちしてくれた。
やっと知り合いのお針子から上等なレースの切れ端を手に入れたから、少しおしゃれにしてあげましょうって。
器用な手つきで裾に縫い付けていって・・・あと少しのところで、思ったより早く戻ったアンナに見つかってしまった。
せっかく今まで隠し通せてきたのに・・・。
「レーナ! お前がこんなものを奥様に!?」
「違う! レーナは関係ない! そしてあなたにも関係ない!」
取り上げようとしてきたから抱えてしゃがみこんで守った。
でもきっと・・・言いつける。
*
「人形を持っているそうだな」
「・・・ええ」
「どうやって手に入れた?」
「・・・塔の・・・窓に・・・挟んであった」
「見せなさい」
従うしかなかった。
でもしっかりと握りしめた・・・私のマリア様を。
「何だ? これが人形か? このような貧相なものを・・・」
「私が見つけた・・・私の」
「レーナとままごとをしていたとか。もう子どもではなかろうに。人形が欲しいのならお前に相応しいものを用意してやる」
「ううん、いい・・・この子がいい・・・いいでしょう? お願い・・・」
「貧しい頃を懐かしんで私を侮辱するつもりか?」
「え? そんな・・・そんなつもりは・・・あなたとは・・・私が欲しいだけ・・・お願い・・・」
「私の妾にこんな愚行が許されると思うか? 立場を弁えろ!」
「やめて! あなたの妾なんかじゃない!」
「黙れ!」
「嫌よ! 放して! 返して! マリア!」
あっと言う間に彼の手に収まり、踏みにじられた。
ビスクとおが屑の彼女はひとたまりもない。
明日の私の姿、だ。
ごめんなさい。
あのままあそこにいさせていればよかったのに。
私が余計なことをして・・・殺してしまった。
「欲しいものがあるのなら私に言え。最高の品を揃えてやる。分かったな!」
悪魔、だったのだ、この男が・・・マリアを、マリア様を。
あの雪の夜から幾度も見た追いかけられる夢、待ち伏せされる夢。
あの、あの悪魔!
ああ、私ったらわざわざ悪魔の懐に。
逃れたつもりだったのに・・・ドイツを離れて、鍵からも罪からも。
なのに・・・。
*
半月後、フランスから大きくて立派な人形が届けられた。
一つも心のこもらない薄っぺらなお礼の言葉にもあの男は平然としていた。
幸せそのもののようなお人形。
薔薇色の頬に金色の髪、ふわふわした水色のドレスに真っ白なレース。
たくさんのお道具に着替え。
でも・・・あなたには・・・ドイツ語はわからないでしょう?
* * * * *
(2)
アンナってよくも表情を変えずに話しかけてこられる。
私からなけなしのものを剥ぎ取ってご主人様に差し出せば、その分給金が増えるのかしらね。
あの男にお似合い、ロストフスキーもアンナも・・・笑顔なんて想像できない。
「図書室から何かお持ちしましょうか?」
「いらない」
「塔へ上がられては? 夏の日差しももう終わりですから名残の・・・」
「行かない」
「楽譜を・・・新しいものが届いておりますよ」
「いい、放っておいて。何もしたくない」
「そう言うわけには参りません。お元気でおられなくては・・・」
「うるさい! ここでおとなしくしていたほうがあなたも楽でしょう? ああ、告げ口できないのが不満なの? それならね、そう! 奥様は毎日怠けていますとでも言ったら? あなたの望み通り若旦那様がお仕置きしてくれる!」
「お元気でおられなくては、お相手が務まりません」
「大丈夫、そんなこと! 言われなくたってちゃんとしている! ご心配なく! あなたの若旦那様はね、十分満足なの、この私に、私の体にね! 高貴なあの奥様では到底無理でしょうからね。でも夫婦仲がうまくいかないのは夫のほうに問題があるんじゃない? あんなふうに女を扱うのだもの! そうだ、中尉には聞かせているのだから、あなたにだったら見せてくれる。今度間近で見て御覧なさいよ、どんなに彼が悦んでいるかを! すごいのよ! いつもはあんなに澄ましているけれど、まるで獣よ! まず口づけはね、ロマンティックなんてものじゃない、舌を入れてくるの、私、そんなの知らなかったから本当に驚いた! それから体中をね・・・」
「奥様! 何と言うはしたないことを!」
「そのはしたないことをさせているのはあなたたちでしょう! ここに閉じ込めて! 私は何一つ望んでいない! 出て行って! 一人にしておいて! 言いつけに行きなさいよ!」
* * * * *
毎朝、顔を照らし始めた陽の光で目が覚める。
熟睡しているわけではなく、何だかずっとぼうっとしているのだけれど、そう、昼も夜も。
ともかくカーテンを少し開けておいて、アンナが来る前にちゃんと起きていないと・・・寝台を使ってないってわかってしまうから。
ロシア語を書いているって、アンナが告げ口したのだ、きっと。
でなければ昼間、前触れもなく直接図書室に来るわけがない。
隅っこの書棚の、それも引き出しの一番奥に入れておいたのに・・・見つけたのね。
あの程度のこと・・・見逃してくれたらよかったのに。
そうしたら少しはあなたの望む"元気"でいられたのに。
告げ口ばかり、あなたは。
いいえ・・・仕事熱心なだけ・・・そして私のことが忌々しいのでしょう?
貴族の夜の相手だけをしていれば、生活の苦労なんて無縁の世界で安穏と暮らせる私が・・・それに素直に感謝しないで従わない私が・・・。
空腹の辛さも寒さの辛さも身に染みている、私だって。
でもね、彼の気に障れば・・・それも私が思いもしなかったことで怒らせれば・・・たちまちマリアのように踏み砕かれてしまう・・・。
飽きてしまえばそれっきり・・・お母様のように。
そんなまるで薄いガラスの上に立っている毎日なのよ。
あの時の・・・砕ける音、飛び散った破片・・・忘れられない。
悲鳴が聞こえた。
私はそれで構わない・・・仕方がない。
でも、でも、そうなったら彼はクラウスも同じ目に遭わせる。
あの憎みよう、普通じゃあない。
同じ侯爵家だから張り合っているの?
無駄なこと。
あなたがクラウスに敵うわけがない。
聖書を・・・あの花は絶対守らなければ。
思い出を決して気取られないように。
そう、ただの栞・・・。
* * * * *
「だいぶ楽になった。あなたの薬湯のお陰ね。ありがとう」
「ようございました。さあ、もう少しお飲みください・・・奥様、月のものは・・・少し不順でございますね。それに痛みも」
「ええ、前からね。鬱陶しいったらない。こんなもの、なければいいのに」
「厄介ですが、お子様を授かるためには我慢なさらないと」
「えっ? 赤ちゃん? そうなの?」
「? ええ、そうでございますよ・・・もうすぐ奥様にも」
「そんな。冗談はやめて。私、愛してなんかいない」
「奥様?」
「赤ちゃんはね、愛し合っている二人に神様が授けてくださる。私は・・・私たちは違うもの。分かっているでしょう」
「・・・奥様、褥を共にされれば、それだけでいずれ授かるのですよ」
「えっ?」
どう言う意味?
じゃあ・・・お母様とお父様は?
私を授かった頃は普通の夫婦のように愛し合っていたのでは?
ただその後お父様の愛が冷めて、それで捨てたのでしょう?
お母様にも愛があったから先生との恋も諦めたのでしょう?
そんな・・・。
* * * * *
(3)
冬が足早に近づいている。
でも陽の光の違いでしかそれすらも分からない・・・開くことのない窓のガラス越しにしか。
風も雨も雪も無縁なこの牢獄の中では。
季節のせい?
何だか・・・寂しい。
言いなりの毎日。
レオニードの言いなり・・・アンナの言いなり・・・。
奥様と違って、訪れた時に必ずいる。
奥様と違って、他の男と話したり、まして連れ立って出かけたりしない。
奥様と違って、自分が与えたものだけを身につける。
気にさわる言葉も口ごたえも意見を言うことも、ない。
自分の望む振る舞いだけをし、それ以外は考えもしない。
気に入らない態度は怒鳴って打てばすぐに改める。
*
言いなり・・・。
いいえ。
言いなりだけでは足りないの。
愛しているふり・・・楽しんでいるふり・・・感謝しているふり・・・。
こんなこと、留学中もドイツでもなかった。
あの頃は今に比べればずっと幸せだった、自由だった。
幸せって、その時は気づかない。
近頃、レーゲンスブルクでのきらめきを思い出すのが難しい。
濁った沼に沈んでいった宝石のよう。
光も届かない奥底の、でもきっとどこかにあるはずなのに。
*
寂しい。
支えになっていたものが霧みたいに消えていく。
私にあるのは・・・頼みもしないのに恋人気取りで隣にいるあの男の、黒い瞳と冷たい言葉。
別に・・・欲しいわけではないけれど、優しい言葉なんて・・・偽りの、心とは裏腹の・・・。
でも・・・あなたも私のそんな言葉に満足しているのだから、たまには・・・。
優しさ?
そう。
ないわね、彼と私の間には。
あの拍手も、ただの合図。
もう聞き飽きた、抱く時間だって知らせるだけ。
*
駄目、彼のことなんか放っておいて思い出さないと・・・本当に全部忘れてしまう、このままでは。
去年の今頃は何を?
あのお屋敷で・・・広い中庭でリュドミールと駆け回って、ピアノを弾いてあげて・・・。
その前の年は?
ああ・・・学校をやめてロシアに行く準備をしていた。
校長先生が自殺して、ヤーコプも。
それでもう何もかも終わったって思ったのに。
マリア・バルバラ姉様はずっと具合が悪かった、アネロッテ姉様の毒のせいで。
もっと早く気づいてあげればよかった。
私、自分のことに精一杯で。
そう言えば・・・一度イザークが来てくれた・・・黙って退学したから心配して。
随分素っ気なくしてしまったけれど、嬉しかった、本当は。
でも優しさに油断すると崩れてしまいそうで。
見つけられる・・・そんな自信はなかったから、不安だったから。
*
頬をそっとガラスに当ててみた。
その冷たさがほんの少しだけ正気に戻らせてくれる。
ごめんなさい、クラウス。
駄目、かもしれない、私。
頭に浮かぶのはあの男の穢らわしい行為だけ。
体に残っているのはあの男から加えられた感覚だけ。
もう塔にも図書室にも行けない。
何もしない、何もできない一日がまた始まる。
これが彼のやり方?
心を弱らせるために。
そうして自分のことだけを考えさせるように。
悔しいけれど情けないけれど、ほとんど成功しているかも知れない。
あの眼も怖いし、ぶたれるのはもういや。
顔を背けてもぶたれる・・・どう答えても答えなくても。
だから・・・逆らわない・・・言われた通りに。
だって抗ったところで、結局は力づくで・・・。
痛い思いをせずに・・・そう、あなたの言った通り、利口になった、少しは。
何より、ともかく早く終わってほしいから、帰ってほしいから。
来年の今頃はどうなっているのだろう。
自分からあの男に抱きついているの?
アンナ?
いつの間にか近づいていた人影にようやく焦点が合い・・・その場に崩れ落ちた。
なぜこんな朝早くから。
神様、この正教の都から私の祈りは届かないのですか?
それとも・・・私が祈ってはいけないのですか?
*
ガウン姿の彼は私を抱えて寝台に運び膝の上に座らせた、人形のように。
まるで伯爵みたいに長いこと髪を梳いていた、黙って。
今日はどうやって遊ぼうか考えているの?
さっさと済ませて帰って。
「明日から当分都を離れる」
「?」
「年内には帰ってくるが・・・どうだ? 嬉しいか?」
「・・・」
どう答えてほしいの?
寂しいって?
もっと早く帰ってきてって?
私、嘘をつくのは下手なの。もう分かっているでしょう?
ああ、ぶつ口実が欲しいのね。
でもどう答えてもぶたれるのなら、声すら聴かせたくない。
*
朝の光の差し込んできた寝台で初めて見た、彼を・・・間近で見させられた。
これまで幾度も抱かれたのに、初めて。
大きくて長くて。
そして・・・。
固くて熱かった。
こんなものがいつも私の中に?
手を添えさせられた、自分で導けと。
拒んでいると手を掴まれ強要され・・・その生々しさに怖くなった。
子ども! 子どもが!
愛なんて関係ないって!
不思議とこれまで考えなかった恐れが浮かんできた。
この男の子どもなんて絶対いや!
必死で逃れようとしたけれど・・・なぜ体は裏切るのだろう。
*
「こんな有様で三月も不在に耐えられるのか?」
「・・・」
「いい加減、認めたらどうだ、自分の本性を」
「・・・?」
「男なら誰でもよい女だと。それも男なしでは生きていけぬ女だと」
「そんなこと、ない!」
「今更気取るな。お前の母親もそうだったのだろう? アルフレートの妾。それでいながらフォン・ベーリンガー家の息子も誘惑した、大した女だ。本当にその二人だけか? 怪しいものだな。捨てられた妾がどうやって糊口を凌いだ?」
「お母様を侮辱しないで!」
「侮辱ではない、事実を言っているだけだ、違うか?」
「・・・」
これ以上見つめると取り返しのつかない言葉を投げつけてしまいそうで・・・禁じられているけれど俯いて目を瞑る。
それが気に障ったのだろう、益々口汚く罵ってきた。
「まったく・・・多くの女を抱いてきたがお前ほどの淫売はいなかったぞ。ああ、誤解するな、褒めているのだ、一つの才能だからな」
「・・・」
「あいつがお前を抱かなかったのは、その本性に気づいていたからではないのか? まあ奴の母親も同類ゆえ嗅ぎ分けるのは得意と言うわけだ、身持ちの悪い女を、な」
「・・・」
「娼婦の娘と下女の息子か。そうか、身分は釣り合っているな・・・似非貴族の」
「・・・」
「よいか? 愛などなくとも男は女を抱ける、私のようにな。だがな、愛があれば必ず抱くものだ。お前は男を知らぬ体だった。奴にとってお前は・・・単なる知り合いどころか、一時の快楽の相手ですらなかったわけだ。汚らわしい娼婦・・・抱けば自分まで穢れるからな」
「・・・」
「私は娼婦でも一向に構わんぞ。それで穢れる男ではない。素直に妾になれ。そうすれば多少の自由は与えてやろう。新聞も雑誌も外出も認める。贅沢は・・・思いのままだ、我が侯爵家の力を存分に味あわせてやろう。勿論奴の命も保証してやる。どうだ、過分な条件だろう? これ以上つまらん強情を張るのはよせ、似合わんぞ。娼婦は娼婦らしくしろ。分かったな!」
もう・・・もう、黙っていることなどできなかった、どんな目に遭わされようとも・・・一気にまくし立てた、これまでの鬱憤を全て。
「嫌よ! 誰があなたなんかの! 穢らわしい! 今更私の考えなんてどうでもいいじゃない! そんなものがなくたって十分好き勝手にしているでしょう! それとも私が望んだことにしたいの? ずるいわ! 本当にずるい! 私が娼婦ならあなたは何? あなたこそその娼婦を抱くただの下劣な男じゃない! 妻に頭が上がらないからって、ご命令を利用して私で憂さ晴らしするなんて、いくじなし! 同じ侯爵家でもクラウスとは大違い! 大嫌い! 大嫌い!」
これまではそれでも加減していたとわかるほどの力でぶたれ、ほとんど失神している私をあの男は気が済むまで陵辱して出て行った。
戦場で死んでしまえばいい。
心から憎い。
ごめんなさい、クラウス・・・。
自分から妾になる・・・それだけはできない・・・自分がなくなってしまうから・・・そうしたらあなたを愛することもできなくなるから・・・。
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