翡翠の歌

03 吹雪




短い夏はもうすぐ終わり。
季節は巡っていくけれど、世の中は大きく動いているのだろうけれど、私に許されたのはじっと座っている生活。
目に映るものも聞こえるものも何一つ変化がない。
差し迫った危険も貧困もない反面、考えることも希望もない毎日。

時折、彼が訪れる。
看守を監督するようにアンナから報告を受けて、囚人の様子を確かめに。


*     *     *     *     *



え?
ピアノを弾けって?


「曲は? どんなのを?」
「お前の弾きたい曲でよい」
「あ・・・あの、私、ロシアのは少ししか・・・」
「どこの国の誰のでも構わん」
「あ、あの・・・」
「? どうかしたか?」
「だって・・・いろいろあるでしょう? もし・・・あの・・・」
「気にせん。たかが音楽に何ができる」





弾かせておいて・・・聴いて・・・いるのかしら。
眠っている?
目を瞑っているだけ?
ときどきわからない・・・目の端に入ってくる彼の様子。
見つめてくる瞳が嫌で、よくは見ないけれど。

あの・・・傍らに置いた拳銃と軍刀。
眠っているのなら・・・そうっと近づいて手にとって・・・。
お父様もゲルトルートも、ああ、キッペンベルク夫人も、手が勝手に、体が勝手に動いたのだもの、きっとできる・・・あ、だめ、間違えた!


*     *     *     *     *



それにしても、ここも本当に殺風景。
図書室とは名ばかり、ほとんど本がない。
僅かにあるものは全てフランス語の古いもの。
わざわざ用意したと言うより、いらないから置いていったみたいな本。
読めるけれど・・・大して面白くない。
それでも、あるだけまし、そう思わないとね。

あのお屋敷の図書室にはあんなにあったのに。
彼の書斎にも。
楽譜はお店が開けるくらいあるのに。
少し持ってきてくれないかしら、お願いしてみる?

日がな一日、私が何をしていると思っているのだろう。
まあ興味がないのね、囚人のことなど。
ピアノと楽譜を与えたのは自分に聴かせるため。
本なんて読ませる必要はないもの。





これまでの人生、ともかく本は潤沢にあった。
いろんな言葉の、いろんな種類の本。
もちろん新聞や雑誌も。

人と交流できない分、本だけが救いで。
別に勉強好きというわけではないけれど、それしかなかった。
伯爵はいつも優しく教えてくれて・・・本当に博識な人だった。



レーゲンスブルクの屋敷でも私がいたのは音楽室と図書室と書斎。
お姉様たちは近づこうともしなかった部屋ばかり。

書斎はお父様の。
もうご病気で使われていなかったから。
本の匂いに混じって葉巻やお酒の匂いがして・・・落ち着いた。
なのに、ここには何も感じられない。

ああ、どうなさっているかしら、マリア・バルバラお姉様。
恐れていらした、ご自分が廃されるのではないかと。
心配などなかったのに。
だって・・・お父様が愛したのは・・・マリア・バルバラ姉様、あなた一人。


*     *     *     *     *



イザークは? 
イザークはどうしているかしら。

きっとあれからすぐにウィーンに行った・・・本当によかった。
ずっと都会だから戸惑うことも多いでしょうし、才能のある人もモーリッツのように足を引っ張る人も・・・。

でも・・・何より・・・お金の心配がなく、強力に指導し支援してくれる人達のいる環境が彼には必要だった。
初めからそうだったのなら純粋なまま世界にはばたけたのに。
資金援助、してあげればよかった・・・もっと早く、もっと強引に。
そんな大きな額ではなかったはず、教会の奨学金ですもの、お願いすればお姉様だって・・・。

私・・・いつも自分のことで精一杯で・・・誰の役にも立てない。
フリデリーケだってゲルトルートだって、そう、校長先生だって・・・私が死なせたようなもの・・・自分で手を下さなかっただけ。
私が生きていて、誰も幸せになっていない。


*     *     *     *     *



息が詰まる。

今日も彼と食事をとった。
しんとした部屋で二人で。

会話なんて・・・ない。
話題もないもの。

そんな緊張がそのあとも続く。
居間に戻ってお茶をいただく。
ピアノを弾けと言われてからは少しは間が持つようになったけれど。

時折じっと見られているのに気づく。
感情も何もない黒い瞳・・・冷たい瞳。


「・・・あの・・・何か・・・?」
「・・・いや・・・どうだ? 慣れたか、ここでの暮らしには」
「え? 慣れたかなんて・・・」


どう言う神経をしているのだろう。


「たまには外に・・・出たくはないか?」
「?」
「連れて行ってやってもよい・・・もしお前が・・・」
「? 私・・・が?」
「・・・まあ、そのうちに、だな。ああ、何か足りぬものは?」
「・・・あの・・・本を。本がもう少し欲しい」
「わかった。届けさせよう」


*     *     *     *     *



夜中に目が覚めた。
吹雪が・・・窓を、いいえ、この屋敷を叩く音に。

レーゲンスブルクでもパリでもロンドンでも・・・あった。
ここのも知っている、他の地とは違う吹雪を。
叫び声に聞こえて、怖くて怖くて。

けれどその時には伯爵が・・・伯爵がいてくれた。
そんな夜は一緒に床に就き、温かい体に寄り添い大きな手で髪を梳かれていると安心して、いつの間にか眠って穏やかな朝を迎えられた。



ああ、毛布に潜り込んで耳を塞いでも聞こえてくる。
何を言っているの?
あの屋根裏部屋・・・隣から夜毎聞こえる男の怒鳴る声?  女の叫び声?
お姉様の命乞い?

堪らず扉に駆け寄った・・・外に出ようと、誰かに助けを求めようと。
開かない、どんなに強く力を込めても。

叩いた、拳で何度も。
叫んだ、誰か来てって!  お願いだから来てって!  開けて!  ここから出して!  一人にしないで!



血が滲んでも声が枯れても開くことはなかった・・・そうよね、ここは牢獄なのだから。





しまいには・・・薬を飲まされるようになった。
かなり強いものらしく昼間まで朦朧としている。
でもいい、考えずに済むから・・・何も。
考えても仕方のないことばかりだから。



薬のせいなのか、料理を見ると吐き気がするようになった。
食べなければ・・・それが彼との約束。
私がここで生きていることがクラウスの命に繋がるのよ。
食べなければ・・・お腹も空かないけれど。
ともかく口に入れて噛んで飲み込んで・・・何の味もしない物体が喉を詰まらせる。

涙が・・・止まらない。





↑画像をクリック