"ポンペイの赤"(ポンペイアンレッド)に塗られた、奥様エリアの回廊です。以下、(株)東京カラーズのHPからの引用です。
・・・紀元前4世紀以来、栄華を誇っていた古代都市ポンペイは、紀元79年にヴェスヴィアス火山の大噴火によって埋没しました。18世紀以降の発掘調査によって、古代貴族の邸宅跡から色鮮やかな赤をふんだんに使った壁画が発掘され、その大胆な表現が当時の人々を驚かせたそうです。この色名が登場したのは1882年のことで、メトロポリタン美術館に復元されたフレスコ画の赤からとられたといわれています・・・
この古代貴族の屋敷は"秘儀荘"と呼ばれ、それは上記の壁画が屋敷の最奥の客間のものであり、モチーフが"ディオニソスの秘儀"(酒と豊穣の神ディオニソス信仰の入信儀式)だからです。
当時の赤は、辰砂(硫化水銀)と鉛丹(酸化鉛)の顔料ですが、モイカ宮殿のは何でしょうか。赤は見ているだけでも体が温まるといいますから、厳しい冬も心地よい空間だったことでしょう。
● ● ● ● ●
以下、ユスポフ一族の系譜について、《THE YUSUPOV PALACE》からの引用です(原文は英語)。
*
・・・ノガイ遊牧民共同体が最盛期を迎えたのは、彼の曾孫にあたるハン・ユスフ(1480年代〜1555年)の時代である。内戦のためにユスフは殺され、彼の2人の息子は1563年にモスクワに送られ、イヴァン4世に仕えた。こうして16世紀半ば、東方の古代一族はロシアに根を下ろした。
イワン4世は、かつてのノガイの支配者の息子たちを好意的に受け止めたが、それはイワン4世が20年来、彼らの父と友好的な関係を築き、文通していたからである。イワン4世は息子たちに、ヤロスラブリからほど近いロマノフ地方の村と領地を与えた。この最初の領地が、一族の最も豊かな財産の基礎を築いた。
ユスフの末子ミルザ(?-1611年)には多くの子供がいた。孫のアブドゥル・ミルザ(?-1694年)は、1681年にドミトリーという名で正教に改宗した最初の一族である。その勇気と忠実な奉仕により、彼はタタール語の"ミルザ"の代わりに公子の称号を与えられ、ユスポフと呼ばれるようになった最初の人物である。ロマノフ地区の領地は「永久に使用し相続するため」に彼に与えられた・・・
引用の続きは、第2部 21