翡翠の歌

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モイカ宮殿 : ジナイダ夫人の肖像画 [らぶらぶのフェリックス・ジナイダ夫妻]




ヴァレンティン・セローフ作です。彼は、1900年から、一族全員の肖像画『ユスポフ・シリーズ』を描いています。





以下、この肖像画について、《THE  YUSUPOV  PALACE》からの引用です(原文は英語)


・・・公女の小さな私室の装飾と調度品は、その魅力的で芸術的な調和を保っている。プチ・サロンをはじめ、化粧室、ペルシャの間、ポンペイの回廊、浴室など、いくつもの小さな明るい部屋は、2階の南西部、公式な部屋の隣にある。プチ・サロンと化粧室は、複雑なラインのパターンと高尚なロココ調のモチーフで表現されており、颯爽として瀟洒な公爵の時代を彷彿とさせる。鋭く繊細な観察眼を持つヴァレンティン・セーロフがモデルの公女を華麗なプチ・サロンに描いたのは偶然ではない。肖像画の中で、貴婦人は、今も室内を飾る紫檀のソファに優雅に座っている・・・


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以下、フェリックス・ジナイダ夫妻について、《THE  YUSUPOV  PALACE》からの引用です(原文は英語)


・・・1882年、皇帝アレクサンドル二世の名付け娘で王宮の侍女であったジナイダ・ニコラエブナ・ユスポワ公女は、当時最も裕福な令嬢の一人で、絶世の美女で、魅力的で、賢く、教養があったが、シュヴァリエ衛兵連隊の下士官である、フェリックス・フェリクソヴィッチ・スマロコフ=エルストン伯爵と結婚した。彼女には皇室の血を引く求婚者が何人もいたが、すべて断っている。彼女の結婚は恋愛結婚であり、夫婦は生涯、互いの愛を貫いた。


1883年と1887年には、息子のニコライとフェリックスが生まれた。彼らの祖父であるニコライ・ボリソヴィッチ・ユスポフ公は、長女ジナイダ公女の夫である義理の息子フェリックス・フェリクソヴィッチ・スマロコフ=エルストンに、家名、称号、紋章を与える許可を求めた。この許可は元老院によって与えられ、皇帝によって承認された。とはいえ、「法律に従い、家名とそれの対応する紋章と称号を受けた者は、贈与者の死後にのみそれらを使用することが許される」。つまり、スマロコフ=エルストン伯爵は、義父の死後初めてユスポフ公となるのである。


ニコライ・ボリソヴィッチ・ユスポフは1891年、亡くなった。その3年前、未婚の娘、タチアナがチフスで亡くなっていたので、ジナイダ・ニコラエヴナ・ユスポワ公女、スマロコフ=エルストン伯爵夫人は、一族の莫大な富と、有名なサンクト・ペテルブルクの宮殿を含むすべての邸宅を相続した。


1890年代初頭、夫妻は時代遅れになったモイカ宮殿の修復と改築に取り掛かった。建築家は、電気、水道、暖房、下水道の設備を整え、天井の構造を取り替え、換気を改善した。ガラスの天窓をつけたり、舞台に最新の技術装置を導入、中庭の離れや別棟を建てた・・・