翡翠の歌

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モイカ宮殿 : バンケットルーム (白い列柱) [ユスポフ一族の系譜E]




画像は、ダンスルームの隣にある、面積、高さともに、宮殿最大の部屋。白い列柱があり、ギリシャ・ローマの神殿のような内装です。


当時の上流階級には舞踏会やレセプションが不可欠で、高い社会的地位と巨万の富を持つ人々だけがお金を割くことができました。


夜に始まった舞踏会のあと、バンケットルームに移動して、深夜の宴会で締めくくられました。


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以下、ユスポフ一族の系譜について、《THE  YUSUPOV  PALACE》からの引用です(原文は英語)





・・・ボリス・ユスポフとジナイダ・ユスポフの一人息子であるニコライ・ボリソヴィチ・ユスポフ(1827-1891)は、著名な祖父と区別するため、家族の中で"ヤンガー"("小"とか"ジュニア"とか)と呼ばれていた。


祖父と同様、小ニコライ・ボリソヴィチも芸術をこよなく愛し、生涯、芸術作品を収集し、芸術家たちを援助し、国務評議員、侍従長(ホフマイスター)、パリ音楽院、ローマ音楽アカデミー、ミュンヘン芸術協会の名誉会員であった。


サンクトペテルブルク大学で優秀な成績を収め、1850年にD.C.L.の学位を得て卒業。名付け親である皇帝ニコライ1世の執務室(首相室)に任命される。1855年にはバイエルンのロシア使節団に、1856年から1858年にかけてはパリのロシア大使館に勤務し、1862年から188年にかけては帝国公共図書館の副館長を務めた。1875年、マリア・フェドロヴナ女帝の施設の守護者評議会の名誉会員に選出され、それ以来、慈善活動が彼の主な活動となり、特に関心を寄せた。


公子は音楽をこよなく愛し、音楽家のパトロンであり、自らも作曲を手がける優れたヴァイオリニストだった。彼のアンティーク・ヴァイオリンの素晴らしいコレクションは、16〜17世紀のイタリア最高の製作者たちによって作られた何百もの楽器で構成されていた。神学、キリスト教哲学に深い関心を持ち、一族の歴史を研究した。1866年から67年にかけて、2巻からなる『ユスポフ家について。伝記、憲章、ロシア君主からの手紙のコレクション』を執筆、出版した。


いとこのタチアナ・アレクサンドロヴナ・ド・リボーピエール伯爵夫人(1828-1879)と結婚した。二人の結婚式は秘密裏に行われたが、上流社会はそのことをよく知っていた。新婚夫婦は二人ともタチアナ・ワシリエヴナの孫だった(タチアナ・ド・リボーピエールは彼女の最初の結婚による孫娘で、ニコライは彼女の再婚による孫だった)


教会の規則によれば、二人は近親者であり、夫婦になることはできなかった。聖務会院への匿名の通報の後、二人の結婚は合法か否か、数年間そこで議論された。皇帝アレクサンドル2世が個人的に干渉し、夫婦を同居させるよう命じたため、この事件は解決した・・・


・引用の続きは、第4部 10