09 兄弟
(1)
「ねえ、アンナ」
「何でございましょう」
「あのね、あの・・・私・・・赤ちゃん・・・もう駄目なのかしら・・・」
「奥様」
「流産、してしまったでしょう? だから・・・もう・・・」
「そんなことはございません。一度・・・されたからと言って、そんなことは」
「そう? でも・・・ぜんぜん・・・」
「奥様・・・大丈夫ですよ、お気にされなくとも。そのうちに」
「でもね・・・もう三年よ、あれから。なのに・・・」
「仲睦まじいご夫婦でいらっしゃいますもの、きっと、もうすぐ」
「そう・・・レオニードはね、とっても優しい、でも・・・。赤ちゃん・・・欲しいの。レオニードの赤ちゃんが・・・欲しいの。レオニードもそう思っているわ。でも優しいから言わないの。本当は跡継ぎが欲しいのに。こんなご時世ですもの、少しでも早く。だから・・・もし・・・私で駄目なのなら・・・他の・・・」
「奥様・・・そのようなことをお考えに・・・。旦那様には奥様だけですのに」
「だって! だって! 私も嫌よ! レオニードと別れるなんて! でもこのまま赤ちゃんが!」
「奥様! できましたよ・・・私の・・・娘にも・・・」
「えっ? 娘さん?」
「ええ、ええ、一度どころか二度も流産して。でも・・・女の子を・・・金髪のそれは可愛い女の子を・・・産みました。ですから奥様も・・・きっと」
「そう、そうなの。よかったわね、娘さん。今幾つなの? もうお話ししているの?」
「ええ・・・三つに・・・なりました」
「かわいいでしょうねえ。羨ましい。でも・・・授かるまでは・・・随分と悩んだのでしょうね」
「はい、いろいろと・・・大変でした。でも・・・やっと」
「ねえ、何かしなかったの?」
「何か、と言われますと?」
「ほら、お薬とか食べ物とか」
「・・・そうですね。もちろん朝夕のお祈りはそれは熱心にやっておりました」
「そうね、大切なことよ、お祈りは。私ももっと・・・ねえ、お薬は?」
「特には・・・」
「でもロシアにはたくさんの薬草があって・・・ アンナもよく作ってくれるでしょう? 頭が痛い時とか気持ちが晴れない時とか。そう、捻挫をした時も。だから赤ちゃんが来てくれる、そんなお薬もあるでしょう? 教えてよ。苦くてもちゃんと飲むから」
「奥様」
「どうしたの? ねえアンナ、あなただって旦那様の赤ちゃん、欲しいでしょう? それにこのままでは侯爵家は・・・」
「・・・旦那様のお許しをいただけましたら」
「あら、許してくれるのに決まっているでしょう? 今レオニードはお忙しいのよ。そんな時に煩わせたくないわ」
「そうでございますね。ただ・・・今の季節では手に入らないのです。春に・・・春になりましたら森に行って摘んでまいりますから、それまではお祈りを。そして十分に暖かくなさって心穏やかにお過ごしください」
*
「・・・必要ない」
「ですが旦那様」
「自然に任せればよい。いずれできる」
「・・・怖れておいでですか?」
「・・・そう、だな」
「ですが・・・」
「元も子もあるまい、記憶を取り戻してしまえば、例えできたとしても私の元にはおるまい。自然に授かれば・・・それも致し方あるまい。だが、薬草の味でわざわざ思い出させることはない。別のを適当に与えておけ」
* * * * *
(2)
新年の休暇にリュドミールが士官学校の友人たちを招待し、都見物のため数日逗留していた。
皆、遠慮はしているのだろうけれど、若さと言うものはそう抑えられるわけではないわね。
日頃にはない賑わいが邸内に溢れていた。
二日目に歓迎の晩餐会を催した。
レオニードと私、ヴェーラ、大勢の士官候補生たち。
彼の発声で乾杯がされ、はじめは静かに、やがて賑やかに晩餐は進んだ。
戦時下の控え目なものとは言え、候補生たちにとって、名門侯爵家の晩餐会は興奮するものだったみたい。
でも・・・少し・・・違和感があった。
自邸なのだからもっとも寛いでいるはずのリュドミールが・・・一番よそよそしく、緊張しているようだったから。
友人たちに囲まれていたためか、挨拶程度しか交わせず、モスクワに戻ってしまった。
*
妙だった・・・。
昨日リュドミールが私室に来た。
こんなことは初めて。
学期前の短い休暇だという。
私には三年前までの記憶がないから過去を共有できないけれど、彼は私のことを大切に思ってくれているみたい。
モスクワに行っていて滅多に会えない・・・それに、もう卒業ね。どこに配属されるのかしら。
まさか・・・前線?
「ねえ・・・私はあなたとどんな話をしていたの?」
「他愛もないことばかりでしたよ、今思い返すと。あなたはパリやロンドンの話をしてくれました、学校でのことや街でのこと。本もよく読んでくれました。それに・・・」
「それに?」
「随分といろんなことをしました。木に登ったり、池で水浴びしたり・・・」
「え? そんなことを? とても信じられない」
「ええ、本当に。でも楽しかったです。屋敷中を駆け回って、競争して塔に駆け上がったり、隠れんぼしたり。ほんの一年・・・短かったけれど」
「一年・・・。その後は?」
「それは・・・あなたは病気がちで・・・ほかの屋敷で療養されていたのです」
「そう・・・情けない、まるで覚えていないの、淋しいわ」
「ああ! ピアノ! よく弾いてくれました! とても上手だった!」
「ええ、そうね、随分と学校に通ったから。何を私は弾いていたの?」
「ええと、確かベートーベンが多かったです、テンペストとかロマンスとか教えてくれました。僕は曲名はよくわからないのですけど」
「ベートーベン? そう、あまり・・・そうね、そうなの」
「あ、いえ、ほかの曲も沢山弾いてくれましたよ。素晴らしかった」
「そう、今は肩や腕が痛くて・・・ベートーベンは無理かも。覚えていないのだけれど、随分と怪我をしたみたいで。列車の事故の傷だけじゃないもの」
「そうです・・・ね」
「どうかしたの? 何だか変よ。ねえ、昔の私を教えてちょうだい。どうしてそんなに怪我をしたのかしら?」
「僕もよくは知らないのです、でも兄上なら」
「レオニードも教えてくれないの・・・わからないって。本当かしら。言えないような怖いことがあったのかもしれない。それで気を遣ってくれているのかも」
「・・・兄上を愛しているのですか?」
「え?」
「愛して?」
「ええ、勿論よ、だから結婚したのでしょう?」
「・・・あの・・・子どもは・・・」
「・・・そうね、本当に残念。でもきっとまた・・・」
「・・・兄上を・・・信じてください、どうか・・・何があっても。兄上は本当にあなたのことを愛して・・・。あなたの為にとった行動が、もし・・・」
「信じているわよ、勿論! それに愛している。どうしたの? そんな当たり前のことを?」
「・・・僕も・・・あなたが好きでした、義姉としてだけではなくて・・・」
「リュドミール! 変よ、あなた、今日は!」
* * * * *
「どうした?」
「あ・・・ごめんなさい、気づかなかったわ」
「いや、よい。何を見ている? 耳飾りか?」
「ええ。さっき宝石商が届けにきて。リュドミールが・・・注文していたのですって」
「ほう、あいつが。ルビーか。なかなかよい趣味だ」
「そうね、素敵。でも・・・」
「でも?」
「どうして彼が私に? こんな高価なものを、誕生日でもないのに。それに・・・直接渡してくれればよかったのに、この間」
「そうだな。まあ、思い立って贈りたくなったのだろう。男とはそういうものだ」
「男? リュドミールが? 確かにそうだけれど・・・男って言うのは、少し変よ」
「あいつも・・・一人前のつもりなのだ。私から見ればまだまだだがな」
「・・・そう言えば・・・ねえ、耳飾り、知らない?」
「また突拍子もなく・・・」
「ごめんなさい。随分前、そう、あの夕陽を見た後になくなったの、片方が。大したものではないのよ、多分ね。でもね、伯爵が用意してくれたの」
「・・・あるぞ・・・書斎に」
「え?」
「馬車の床に落ちていた。返そうと思ったが、何かと忙しくてな。それからすぐにお前は帰国して機会を失してしまった」
*
「本当に・・・質素なデザインね。子どもらしい、とでも言うのかしら」
「そうだな。だがよく似合っていた」
「そう? それならいいけれど。きっともう片方はドイツにあるわ」
「・・・」
「? どう、したの? 私何か変なこと言ったかしら?」
「いや、耳飾りのことではない。ああそれは、このままここに置いておけ」
「え? そう?」
「ずっとここにあるからな・・・妙なことと思うだろうが・・・これを、ドイツ語に書き直してほしい」
「? 手紙、ね?」
「そうだ。すまぬが、理由は聞かず書いてほしい」
「? わかったわ、もちろんあなたの言うことなら」
罠にはめるための手紙。
お前の手も汚してしまった。
許してくれ。
例えどのような手段を使おうとも・・・守らねば・・・帝国を、陛下を・・・私たちの人生を。
* * * * *
ひと月後、リュドミールが密かに退学し出奔したことを知らされた。
実は・・・革命側に身を投じたと・・・泣き腫らしたヴェーラに聞いた・・・勿論これは秘密、侯爵家のために。
貴族の彼がなぜ? 貴族を認めない彼らの元に?
私にはわからない、それぞれの信念が・・・。
それからは・・・レオニードもヴェーラも、リュドミールについて何も、一言も口にはしなかった。
何故、兄弟が割かれなければならないのだろう。
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