03 残された記憶
(1)
「あなたは誰? ここはどこ?」
「!? 私よ! どうしたの? 何を言っているの?」
「誰? 知らないわ!」
「覚えていないの? 私よ! ヴェーラよ!」
「ヴェーラ? どなたなの? ここはどこ? 伯爵は? 伯爵はどこ?」
「アンナ、お兄様をお呼びして、早く!」
*
「記憶をなくしているって?」
「ええ、今だけの・・・一時的なものかもしれません。私のことは覚えていないようです。それと、伯爵はどこかと」
「伯爵? ・・・ヴェーラ、外してくれ」
「医者を呼びましょうか?」
「・・・そうだな。待たせておけ」
*
寝室に入ると気づき、私を見た、あの碧い瞳で。
出産までは敢えて会わなかった、そしてその後は瞼の下に隠されていた、この碧い瞳。
ヤルタの別荘へ出発して以来、二年半ぶりに目にした。
まだ痩せて顔色も悪く、伸びた金髪も元気がない。
だが紛れもなく私の天使だ、私が愛している・・・妻。
抱き締めたい衝動に駆られたが何とか抑え、寝台の横の椅子に掛け話しかけた・・・最初が肝心だ、同じ轍は踏まぬ。
彼女は私を不思議そうに見つめている。
特に警戒心はないようだが、どこまでの記憶があるのだろうか。
「私のことはわかるか?」
「ええ、宮殿で・・・それに、この間、突堤のところでもお会いしました」
「!?・・・そうだ、そうだな。名前は覚えているか?」
「レオニード・フェリクソビッチ・ユスーポフ様」
「・・・そなたの名は?」
「ユーリ。ユーリ・アレクサンドル・ロサコフ」
「・・・そうだ・・・今、何年だかわかるか?」
「ええと、2年です、1902年」
「・・・落ち着いて聞いてほしい。今は1902年ではない、1910年だ」
「え? そんな・・・おかしい。だって私、この間十四になりました」
「お前は・・・ふた月ほど前に事故にあったのだ、列車の事故に。それで記憶が失われてしまったのだろう、随分と酷い怪我だったから」
「怪我? 記憶が? じゃあ、私は何をしていたの?」
「お前はもう二十二だ。十四の時に一旦ドイツに帰ってから再びこのサンクト・ペテルブルクに来て私と結婚したのだ。今は私の妻、マフカ・アレクサンドロヴナ・ユスーポワ侯爵夫人だ」
「あなたの? 妻?」
「そうだ」
*
「これに何が書かれているか、わかるか?」
「え? ええっと・・・紙とペンを貸してください」
小一時間ほど、その姿を鑑賞しながら待った。
「あの・・・これは、スイス銀行の貸金庫の番号。それと、合言葉」
「そうだ、解読、できるのだな?」
「ええ・・・でも、そんな必要は。だって私、覚えているから」
「そうか」
「でもどうして、こんな書きつけが? 残しておくなんて危険なこと。これ、私が書いたのかしら? そう、私の字のような気がする。それなら尚更、なぜ?」
「お前が私に伝えようとして書いたのだ」
「あなたに?」
「だがお前がこうして無事にいるのだから、これはもう必要ないな。私が処分しておくから安心しろ」
「あの・・・まだ大丈夫なの? この鍵が必要ではないの?」
「大丈夫だ。皇帝陛下はこのロシアに君臨されている」
「よかった」
(2)
ドイツに帰国する直前でお前の記憶は止まっている。
幼い頃から叩き込まれた皇帝陛下への忠誠心や鍵への責任感は健在だ。
だがあの男についての記憶は一切ない。
そして私がお前に行った仕打ちの一切も。
・・・理想的な、私の求めていたお前との関係が今ここにある。
お前自身も記憶を失ったことにさほど苦痛を感じておらぬようだ、根を詰めてまでは思い出そうとはせぬ・・・後遺症なのか、考える力が弱っているのだな。
それがよい、それでよい。
苦しむだけだ、取り戻しても。
*
日常生活には・・・ロシア語を使うことにした。
これまでのようにフランス語では記憶を取り戻しかねぬと憂慮したからだ。
お前のを聞くのは何年ぶりだろうか。
この二年は使っていたのだろう?
お前のドイツ語は澄んだ冬の空気のように明瞭で、フランス語は小鳥が囁くようだった。
ロシア語は・・・まるで詩を謳っているようだ、母音の響きが心地よい。
あの男も聴いていたのだな・・・。
いろいろと・・・奴らの言葉を学んだか。
語学力は随分と奴らの役に立っただろう。
だがお前は所詮は体制側の人間だ、望むと望まざると。
昨日はピアノが弾けないと涙ぐんでいた、右手が自由に動かないと。
日常生活には不都合ないように見えるし、私の耳には十分に美しい演奏に聴こえるが、どうも腱を傷つけたらしく演奏には致命的なことらしい。
何しろお前は、まるで戦場に行ったかのように傷だらけだ。
死ななかっただけよかった・・・まったくその通りなのだが、今のお前の慰めにはならぬか。
* * * * *
「レーナ」
「何でしょう、奥様」
「私、列車の事故に遭う前は、どんなだったの?」
「・・・あの・・・」
「毎日何をしていたの?」
「・・・あの・・・」
「そう、このお屋敷に来た頃は?」
「・・・あの・・・」
「どうして教えてくれないの? 何でもいいから教えて」
「・・・あの、私・・・ここにお勤めし始めて間もないので、存じ上げないのです。申し訳ございません」
「そう、なの。それならアンナを呼んで頂戴、彼女なら何でも知っているわよね」
*
「奥様は六年ほど前にご結婚されてこのお屋敷にお輿入れされました。旦那様とは以前からのお知り合いだったと伺っております」
「そうよ、宮殿でお会いしたわ、突堤でもね。本当に綺麗な夕陽だった。旦那様の沢山の勲章に反射して眩しかったことを覚えている。それから? それから私たちは?」
「平穏に、それは仲睦まじくお暮らしでございました。時折各地の別荘にも行かれて」
「どこに?」
「沢山ございますよ、侯爵家のお屋敷は数えきれないほどですから。リドガ湖畔やモスクワ郊外のアルハンゲリスク、黒海を臨むヤルタ・・・お二人で遠乗りされたり、ボートに乗られたり」
「それは楽しそうね。ああ、悔しいわ、まるで覚えていないなんて」
「・・・これからまたお出掛けになればよろしいでしょう?」
「そうね・・・そうだわ、ねえ、結婚式の写真は? 持ってきて頂戴」
「・・・お写真はお撮りになりませんでした」
「え?」
「旦那様はお写真がお嫌いなのです」
「そうなの。残念だわ、それがあれば思い出せたかも知れないのに」
「あまりお考えになると、お体に障ります。もうお休みになられませ」
* * * * *
体が回復するまで、待っていた。
今夜、と決めていたわけではなかったが、いつものように口づけしているうちに、もうこれ以上抑えることができなかった。
三年ぶり・・・
戸惑っていた、怯えていた。
「嫌、か?」
「・・・ううん、違うの・・・でも・・・私・・・」
「でも?」
「何だか・・・前にも・・・」
「それはそうだろう。夫婦なのだからな。大丈夫だ。私に任せておけばよい」
ほんの僅か、恐らくは本能的に抵抗する様子を見せたが、すぐに緊張も解けたようだった。
だが、奴とのことを思うと、つい手に力が入る。
どのように抱いたのだ? どのように抱かれたのだ?
このように、奴も私に嫉妬したろうか。
そして・・・もしや記憶を取り戻すかと恐れた。
あれほどまでに嫌悪していた私との交わりだ。
だが心配は無用だった。
お前は変わらず温かく、が、驚くほど素直だった。
あの夜のことは忘れよう。
あの屋敷でのことは忘れよう。
今日が初夜なのだ。
* * * * *
いつもの口づけが首筋に降りてきた時、思わず彼から離れようとしてしまった・・・なぜだかわからないけれど・・・怖くて。
でも、夫婦なのだからと、任せておけばよいって言われて・・・。
あれは・・・誰だったの?
覚えている・・・紙タバコの匂い・・・長い髪が顔にかかる感触・・・ドイツ語の囁き・・・熱くて優しい瞳。
全身に口づけされ、貪るように吸われた・・・同じように。
あれは、誰?
こんな苦しい息で・・・雨の中、走ったことがあった。
手首を強く掴まれて、坂道をずっと・・・。
追いかけてくる、何人もの男が私たちを捕まえようと。
私、途中で倒れてしまって・・・気づいた時、瞳が合った・・・何か言われた、優しい言葉を。
あれは、誰?
思わず目を開けて彼を見た。
彼も私を見た。
黒い瞳・・・その奥に暖かくて優しい強い光があった。
ずっと・・・熱と痛みで朦朧としていた間も見守ってくれた、励ましてくれた、あの光だわ!
あれは・・・みんな、みんな、レオニードだったのね!
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