翡翠の歌

02 生き延びて




(1)



女の子。
私と同じ。

金色の髪。
私と同じ。

ようやく開いた瞳は・・・碧色。
私と同じ。

・・・あなたに・・・全然似ていない。

でも・・・きっと、性格があなた似なのよ。
きかん気で、真っ直ぐで、情熱的で、暖かくて、優しくて、照れ屋さんで・・・。



名前は、どうしようかしら?
結局、決めていなかった。

いろいろ相談した。
込める願いを出し合った、覚え切れないくらい沢山よ。
それに、優しい響きがいいね、って。
女の子ならお母様やおばあさまからいただくか、まったく別の・・・。

変よね。
覚悟はしていたはずなのに。

でも・・・二人で名前を考える、その時間がとても幸せだったから。
決めてしまいたくなかった。





あの時、一緒に逝けていたらよかったのに。

ごめんなさいね、せっかく生まれてきたのに。
綺麗な景色もかわいい動物も見ることができずに。
優しいそよ風の音も心が震える音楽も聞くことができずに。
・・・何より、お父様に抱いてもらえずに。

あなたのお父様はね、あなたに会えるのを心から待っていたの。
私のお父様とは全然違う。
今も・・・この同じロシアの空の下で、あなたのことを想ってくれているはず。
それなのに・・・会うことができないなんて。

捕まってしまったから・・・あの男に。
あの下劣な・・・私を散々穢した、賤しめた・・・。

でも、大丈夫。
あなた一人で逝かせるなんてさせない。
必ずお母様と一緒。
あの男があなたを奪いに来たら・・・。



これを・・・掛けてあげる。
おばあさまのお守りよ。
あなたが天国に行けますように。

私は・・・その門はくぐれない、そこでお別れ。
我が子を手にかけた母は地獄に落とされる。

でもおばあさまが待っていらっしゃるから、安心して。
名前をつけてもらって、きれいな服を着せてもらって・・・髪を梳いてもらうのよ。

私につけてくださった名前、本当の。
考えてみれば、大切な人だけが私をそう呼んでくれた。
お母様・・・そして、アレクセイ。
人生の半分にも満たなかったけれど。
込められた願いはほんの一瞬しか実現できなかったけれど。

耳に残る。
あなたが私を呼ぶ声。



そう、いつの日か・・・お父様が来てくださった時これを掛けていれば、すぐにあなただってわかる。

そして幸せに・・・穢れなど無縁の世界で。


*     *     *     *     *



(2)



都に吹き荒れた一斉摘発の嵐が表面上は収まってきたある日、書斎に呼び出された。
机には私の旅券と査証、それと手紙のようなものが数枚載っていた。


「頼みがある」
「?」
「子と共にコペンハーゲンに行き、暫く滞在し、ある人物を待って欲しい」
「誰を、ですか?」
「マリア・バルバラ・フォン・アーレンスマイヤ。彼女の姉だ」
「えっ?」
「里子に出す。この国に置いておくわけにはいかぬからな。会って、引き取る意思があるなら渡してほしい」
「お兄様・・・」
「この手紙はシュラトフに届けさせる」


それには、妹の子どもを引き取って育ててほしいこと、父親はさる侯爵家の青年で生死は不明、と。
妙なことに、実は男と偽っていたが、とも書いてあった。


「本名は、ユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤ。男ということになっている」
「その名前は・・・覚えています、彼女にお兄様が呼び掛けていらした。でも、男と? なぜです?」
「理由は・・・私も知らぬ。もっとも、幼い頃はともかく、あの容姿と体形ではそう長く偽れはしなかったろうが」
「姉は知っているのですか? そのことを」
「気づいてはいなかったようだ」
「姉からすれば青天の霹靂ですわね。裏切られていたわけですし。もし来なかったらどうしましょうか?」
「これまでの彼女の話では姉との関係は良好のようだったがな。騙されていたとなればどう思うかはわからん。まあ、疎まれるくらいなら他人の中で育つほうがましだろう。叶わぬ場合はこの教会に預けてくれ。子にはこの口座に相応の財産を付与してある」
「お兄様・・・そこまで・・・ありがとうございます」
「・・・彼女の子だからな、お前の言った通り」
「彼女には黙って?」
「・・・無論だ」
「一緒に帰しては?」
「それはできぬ。陛下の安寧を脅かす」


お兄様の安寧も、でしょう?
思わずそう言ってしまいそうになったが、お兄様の苦悩を考え口を噤んだ。
殺すこともできたはず。
なのに、そうはなさらなかった。


「結婚する」
「え?」
「皇族と離縁し、囲ってきた妾を正妻にする・・・なかなかの話題になりそうだ」
「お兄様?」


*     *     *     *     *



(3)



出産後、彼女は一時も子どもを手放さない。
周りが皆、敵に見えるのだろう、世話をする為預けるように言っても、窒息させかねないくらい抱き締めてしまうので手を出せないでいる。
自身の傷や出産後の手当ても不十分で、このままでは母娘とも取り返しのつかないことになってしまう。

だからと言って・・・。
狂ってしまうのでは?  奪われたら・・・。
彼も生死不明になっている今、正気でいられるだろうか?



食事はスープしか取らない。
それも半分近く私に食べさせて、しばらくしてから口にする。

あなたは信じている、でもアンナは・・・って。

もう少し食べないと、と言っても、首を振るだけ。
これでは仕方がない・・・手荒なことをしないと・・・辛いけれど。



寝静まるのを待った。
レーナが知らせに来て、そっと部屋に入り、薬を浸み込ませた布をかざした。
寸前に気づかれ手を払われた。


「何をするの?  止めて!  ヴェーラ、あなたやっぱり!  やっぱり兄妹なのね!  酷い!  騙したのね!  止めて!  私の赤ちゃんよ!」


けれど、弱々しく泣き出した子を庇った隙をついて鼻に押し当てた。
その時の懇願する瞳を、私は一生忘れないだろう。

でも・・・これがあなたと赤ちゃんの為なのよ、わかって。

アンナたちと共に押さえつけ、更に薬を嗅がせ、意識を失った彼女からようやく取り上げた。
すぐに隣室に控えていたグレチコ大尉夫人のオクサーナに預けた。

小さな小さな命。
その瞳にはまだ母を母とは認識できなかっただろう。


*     *     *     *     *



ごめんなさい!  ごめんなさい!
こんな兄妹を信じた私が愚かだった!
でも一人でなんか逝かせない!
すぐに追いかけるから!


*     *     *     *     *



(4)



グレチコ大尉と私は夫婦、オクサーナは乳母ということに偽装して、子どもを連れてホテルに到着した。
手紙はすでにアーレンスマイヤ家に届けているはずだ。
猶予はひと月。
果たして姉は引き取りに訪れるだろうか。

それにしてもこの間のこと、どの程度まで説明すれば納得するだろう。
監禁には皇帝陛下の御意志が強く働いているようだけど、私もよくは知らないし国政に絡むことについて不用意に口にはできない。
お兄様は、ともかく本人には育てられないから引き取ってもらいたいとだけ要望し、叶えられなければ教会に、と指示された。
そして、事情はある程度は話してもよいと。
どうせドイツからでは何もできないし、変に騒ぎ立てれば彼女は勿論、アーレンスマイヤ家にも禍が及ぶと釘を刺しておけ、とも。

半月後、姉と付き添いの男がレーゲンスブルクを発ったとの電報が届いた。
大尉も遠巻きに警護してくるとのこと。





子どもは健康だった、あの母の状態で本当に奇跡的なことだ。
オクサーナが我が子のように世話をしてくれている。
金髪で碧い目で色白で、不思議なほどそっくりだ。
・・・父親に似なくてよかった。
もしそうだったら、お兄様はここまで手を尽くされただろうか。

名前はまだついていない。
夫婦でいろいろと候補は上げていたが決まってはいなかったらしい。
彼のところに戻って決めるつもりだったのだろう。
でも、それももう叶わない。


*     *     *     *     *



(5)



最上階を占める2つのスイートを借り上げている。
昨晩遅く、その一つに二人が到着したと知らせが入り、午餐後、私の部屋で会うことにした。

大尉によると二人は夫婦ではなく友人で、姉は暗褐色の髪だが面立ちは彼女に似ており聡明であるとのこと。
手紙の内容に当初ひどく驚いていたが、その友人とも相談し、本当に妹の子どもなら引き取る覚悟で出国したらしい。





出迎えた時、姉のしっかりとした態度に安心すると共に、同伴した友人に目を見張った。
数年前、カレンのサロン・コンサートで声を掛けてきた男だ。
これは・・・少々の説明では納得しそうにない。


「ヴェーラ・スタニスラーヴォヴナ・ユスーポワです。突然のご連絡にも関わらず、遠路お越しいただいてありがとうございます」
「マリア・バルバラ・フォン・アーレンスマイヤです。こちらは友人のダービィト・ラッセン氏」
「ラッセンです。以前サンクト・ペテルブルクでお会いしました」


他は席を外させ、私たちは掛けて話し始めた。


「子どもは?  どこに?」
「ご安心ください。別室で乳母がみています。後でお連れしますわ。それで・・・ラッセン氏にいろいろとお聞きでしょうね?」
「ええ、ある侯爵の愛人になっているとか。手紙にあった侯爵と同じ方ですか?  愛人の子どもはいらないと」
「いいえ、愛人にしたのは私の兄ですが、子どもの父親は別人です」
「?」


やはり長くなりそうだ。
お茶を勧め私も一口二口飲んでから、覚悟を決めて話し始めた。


「私の兄、ユスーポフ侯爵は六年前、偽造旅券を使ってロシアに入国したあなたの妹さんを捕らえました。私たちは旅券通りの名前でマフカと呼んできました。密入国の目的はドイツで知り合ったあるロシア人を探すことでした」
「?」


*     *     *     *     *



マリアは僕を見た。


「そうです。そのロシア人が先日お話しした、聖ゼバスチアンの学生だったクラウス・ゾンマーシュミットです」
「彼は政治犯として手配中でしたので彼女も仲間と見做され、兄は別邸に監禁しました。そしてしばらくして愛人にしたのです」
「え? なんて、なんてひどいことを!  若い娘を閉じ込めておいて愛人にするなんて!  どうしてそんなに平然とお話しになれるの?」
「・・・では官憲に引き渡したほうがよかったと?  そうしていれば彼女の命はその時終わっていたでしょう。追って来た彼は政治犯、それも最重要の政治犯なのですよ」
「待ってください。確か彼はあの頃まだ十八か十九だったはず。そんな若い彼がどうして最重要の政治犯なのです?」
「出自が問題だったのです。彼の兄はその数年前に反逆罪で処刑されました。侯爵でした」
「侯爵? では、子どもの父親というのはクラウスですか?」
「そうです。ですからロシアでは生きていけないのです」
「三年前彼女に会った時、クラウスは亡くなったと、そう言っていましたが偽りだったのですか?」
「いいえ、当時はそう信じられていました。彼が収容されていたシベリアの監獄が火事になり囚人全員が死亡したと。ですが彼は既に脱獄していたのです。私も詳しい経緯は知りませんが、あなた方が帰国されてから少しして二人は再会し、二年ほど一緒に暮らしていました」


君は望みが叶ったんだね、叶えたんだね、逆境の中で懸命に求めていた彼と・・・。
僕はユリウスの愛の力を想い、深く溜め息をついた。


「我が国では数ヶ月前に反逆者たちの一斉摘発が行われました。そこで兄が再び彼女を保護したのです。身籠っていることは知らなかったようですが無事に産ませて、こうして出国させたのです」
「彼女の希望なのですか?  子どもをマリア・バルバラさんに預けることは?」
「・・・そうです・・・彼女自身が望んでいることです」





「クラウスは・・・彼はどうしているのです? 生死不明と」
「今回は捕らえられませんでした。きっと熱りが冷めるまで潜伏するつもりでしょう。彼のことですから、そのうちにまた表舞台に出てくるとは思いますが」
「ユリウスとは? ユリウスを彼の元に戻すことは?」
「それは兄が許しません。近々結婚する予定ですから」
「結婚ですって?  それもあの子が望んでいるのですか?」
「この際、望む望まないは重要ではありません。彼女の命を守る為にはユスーポフ侯爵の夫人になることが必要なのです」
「命って?  それならあの子をドイツに帰してくだされば!」
「それはできません」
「あなたのお兄様があの子に執着しておられるとおっしゃるの?」
「これは兄の一存ではありません。皇帝陛下のご命令なのです」
「ロシアの?  皇帝の?  どうしてあの子が?」
「あなたのお父様と私の父、そして我が皇帝陛下と深く繋がりがあるとのことです。国家機密なので私も詳しくは知りませんが」
「国家機密? 我が家とロシアが?」
「ともかく、その為に彼女はロシアを生きて出ることはできないのです。ですが兄は力の及ぶ限り彼女を守ってきました。これからもそうするでしょう」


*     *     *     *     *



受け入れざるを得ない沈黙が支配していた。
三人が三人とも彼女を心から想っているけれど、最善という言葉に縋るしか今はなかった。


「これを・・・預かってきました、子どもを頼むと」


ああ、ゲオルグス・ターラー!
私は冷たいはずの金属にユリウスの体温を感じた。


「実はまだ名前がないのです」
「え?  ユリウスはつけてあげなかったのですか?」
「ええ・・・。これから先、何が起こるかわかりませんので、あまり出自が特定されない名前をつけてあげてください」
「・・・つけたら、どうやってユリウスに知らせればよいのですか?」
「連絡はご無用です。それに、今後私たちからご連絡を差し上げることはありません。あなた方からもお手紙などお送りくださいませんように」
「何故です?  子どものことが心配でしょう?」
「こうやってロシア貴族である私がドイツ貴族のあなたと会っていることがどちらかの政府の耳に入れば、お互いに立場が危うくなります。彼女も・・・私も兄もあなた方を信じておりますからすべてをお任せします。これは子どもに兄が与えた財産の銀行口座です」


*     *     *     *     *



僕は、あのサロン・コンサートで会った厳しい表情の軍人を思い出していた。
いくらロシア有数の大貴族であっても、愛人が産んだ他の男の子どもに自らの財産を付与することなどあるだろうか。
ましてその男は敵だ。
何より、これだけの手間をかけ危険を犯して姉に預けに来た。
どこかの孤児院に捨てたり、そう、殺すという選択肢だってあったはずだ。

そうして静かに、しかし力強くマリアは言った。


「わかりました。ユリウスの子どもです。大切に育てましょう」
「深く感謝します。ついてはお願いがあります」
「何でしょうか?」
「子どもは出自不明の孤児としてあなたの養子に迎えてください。両親の名前を世に出したり子どもにも教えないでください。使用人にも警戒し、地域の人々の口の端に上らないように十分ご注意ください」
「では子どもはユリウスのことを知らないで育つようにと?  それは残酷ではありませんか?  ユリウスにとっても子どもにとっても」
「確かに残酷なことです。ですが命や人生を奪われるよりはよいでしょう。すでに長きに渡りヨーロッパの国々には我が政府の特務機関が入り込み、亡命中の活動家を監視し強制連行し、時として秘密裏に抹殺しています。ドイツ国内も例外ではありません。敵国とのささいな関係でも気づかれてはならないことはお二人にもお分かりでしょう?」
「・・・わかりました。この子を守ります、心を鬼にしてでも」
「本当に、本当にありがとうございます。これで私も安心して帰ることができます」


*     *     *     *     *



私は思った。
このロシア貴族の女性は、兄の愛人の為にこんなにも心を砕き行動してくれている。
優しくて誠実な心根なのだろう。
そして何よりユリウスの魅力がこの兄妹の心を動かしているのだろう。


「・・・きっとロシアは大変な状況なのでしょうね。ユリウスはよく生きてこられたこと、彼との子どもまで産めて。それにはあなたやあなたのお兄様のご尽力があったからこそ、深く感謝します」


乳母が連れてきた子どもを見て、私は思わず泣き出してしまった。
肩を抱いたダーヴィトも目頭が熱くなっているようだった。



ユリウス・・・。
あの手紙が届いて、はじめて知った・・・妹だったなんて。
生意気で、喧嘩っ早くて、威勢が良くて・・・散々手を焼いた弟が。

ダーヴィトから聞いた、私の知らないあなた。
そして今日知った、私の知らないあなた。
何を背負っていたの? あなた一人で。


*     *     *     *     *



翌日、二人はオクサーナと子どもを伴いドイツに帰って行った。

さあ、帰ろう。
彼女は・・・彼女はどうしているだろうか・・・。


*     *     *     *     *



(6)



高熱が続いている。
うわ言はあいつの名ばかりだ、な。
当たり前だ。
何を期待していたのだ、私は。

私の檻から一瞬の隙を突いて飛び立った。
翼を隠していたことに気づかなかった・・・気力を燠火のように絶やさず燃やし続けていたことに。

神は、自分を信じ続けたお前の望みを叶えたもうた。
挫けることのなかったお前に相応しい褒美だ。

何と言うざまだ。
何が、必ず幸せにする、だ。

自害しても・・・お前は幸せだったろう。
自分の力で探し当てた幸せの中で死ねたのだから。

助ける・・・べきではなかったのだ。
あのまま死なせるべきだったのだ、子と共に。
浅はかな考えでお前の最後の幸せを奪った。

いずれ再び見開かれた瞳には、永遠に憎悪と絶望しかない。
私は・・・耐えられないだろう。

今ならば間に合う。

逝かせてやろう。
そして、時を空けず、奴も、必ず。
せめてもの手向けだ。

記録上、お前はもう死んだ人間、人知れず墓所に運ぶだけだ。
あの子と安らかに眠るがよい。

胸の上に痩せた手を組ませ、数年ぶりの口づけをした・・・最期の。
その感触に何かが蘇ったのだろうか。


レ・・・オ・・・・・・ごめん・・・さ・・・い・・・・・・るし・・・て・・・


ようやく聞き取れるそれは、何の感情もなく、ただ聖書の言葉のようだ・・・いや、私を宥めるための呪文か・・・私が強要した・・・。


ゆ・・・るし・・・て・・・かえら・・・い・・・で・・・ごめん・・・な・・・・・・おね・・・い・・・


弱々しいながらも両手を空に伸ばそうとし、恐らくは私を・・・私に縋ろうと・・・。


か・・・えら・・・な・・・・・・レ・・・オニード・・・お・・・がい・・・・・・れに・・・を・・・ださ・・・いで・・・


・・・私以外の誰がこの手を取れるというのだ。
帰りなどせぬ、どこにも行かぬ・・・お前のそばにいる・・・例え苦しみしかなくとも・・・逃げはせぬ・・・それが、それだけが償いなのだな・・・憎しみの対象としてそばにいることが。


*     *     *     *     *



(7)



・・・まったく、ここまでの痴れ者だったなんて、我が家もとんだ恥さらしですわ・・・
・・・どういうことなのか、詳しくはわからないのですよ。でも勿論、強く反対しておきましたからね・・・


「おばあさま、お久しぶりです。何事かありましたの?」
「ああアデール、あなたには・・・」
「いいえ、リュドミラ、知っておかなくては。宮廷で何を言われるかわかりませんよ」
「宮廷で? 私が?」
「驚いてはいけませんよ。あのレオニードが再婚するのですよ。でも陛下のお許しがまだですけれどね」
「え?」
「それがずっと囲ってきた妾となんですって。あなた、知っていたの? そんな女がいたこと」
「あ・・・ええ、聞いたことはありましたけれど・・・その女でしょうか」
「素性も容姿も、そう、名前さえも伝わってこないのですよ。つまりはろくな女ではないからでしょう」
「・・・今更・・・結婚ですって?」
「そうなのよ。そのまま囲っていればよいのに、正式に結婚したいと陛下に願い出たらしいの」
「正式に?」
「正妻ですよ! 特例を要求して!」
「もうモイカ宮殿に住まわせているのですって! 図々しい!」
「宮殿に・・・」
「何より解せないのは陛下のお考えです。私が聞きつけてお訪ねした時にはすぐにでもお許しになるおつもりでしたからね。もっとも、陛下はユスーポフ侯爵家には何か特別なお考えがおありなのは前からわかっていましたけれどね」
「そうですよ。それにうちのアデールが振り回されて。婚約した長男がこともあろうに痴情で決闘、急ごしらえの跡継ぎの次男との結婚を勧められて」
「そうでしたね、リュドミラ。どうしてそこまでユスーポフ家にこだわられるのか、本当に不思議で。確かに名門ではありますよ。でも所詮は侯爵家ですからね。あの時陛下に幾度お尋ねしても、皇室のためだとばかり」
「あの根っからの軍人ですもの。アデールがかわいそうですよ。まして姫を迎えるのに、未婚の妹はおろか不義の子どもまで一緒に住まわせて」
「思い返せばあの侯爵家の男たちの多くが女にだらしない人物でしたよ。堅物だけが取り柄だったはずのあのレオニードも血筋には勝てなかったということですね」
「本当にそうですわ。アデールを放っておいて妾にいれあげるなんて、どうしようもない男。アデールは陛下の姪ですよ! 公爵家の令嬢ですよ!」


*     *     *     *     *



「さあ、何もかも正直に奥様に申し上げなさい。そうすればすぐに帰してやります。それに褒美も下さるでしょう」
「は、はい」
「ネーリ、お前は下がっておいで」
「はい、奥様」
「怖がらなくていい、レーナ。尋ねたことに答えれば何もしない」
「は、はい」
「今、モイカ宮殿に旦那様の妾がいるのね?」
「はい」
「お前がずっと仕えてきた、あの、女なの?」
「はい」
「名前は確か、マフカだった。マフカ・アレクサンドロヴナ・ロサコワ。ウクライナの生まれね?」
「はい。そううかがってます」
「育ちは? どういう身分の女なの?」
「あ、あたしは・・・知らないんです、アンナ様も教えてくれませんし、奥様、あ、マ、マフカ様にもお尋ねしては駄目って言われて」
「貴族なのかしらね、それとも裕福な商人とか」
「あの・・・ふるさとではお付きの小間使いがいたって。でも貧しかった時もあったみたいで」
「そう・・・そうなの・・・今は・・・毎日何をしてるの?」
「あ、あの・・・前は・・・ピアノがとてもお上手でよく旦那様に弾いて差し上げていました。いろんな国の言葉がお分かりでたくさんの御本や新聞を読んでおられて・・・」
「前は? どういう意味なの?」
「あ、あの! 今は怪我をされてずっと寝ておられて。意識もないんです。熱が高くてうなされて」
「怪我ですって? なぜそんなひどい怪我を?」
「あたしは知らないんです、突然戻ってこられて」
「戻って? どこから?」
「何年か前に別荘からの帰りの列車が襲われてさらわれて! ずっと行方知れずで!」
「さらわれた? 誰に?」
「か、革命家にってアンナ様が」
「なぜ革命家が? あの女にどんな関係があるの? 反逆者なの?」
「あ、あたしにはわかりません、でも、でも・・・が・・・だって」
「はっきりお言いなさい」
「ア、アンナ様が、お、奥様と間違えてさらわれたんだって・・・申し訳ありません! お許しください! でもそう聞いたんです!」
「・・・それで・・・少し前に・・・戻ってきたのね? 大怪我をして」
「は、はい。お付きの軍人に抱えられて、血だらけで」
「旦那様は・・・どういうご様子なの?」
「だ、旦那様は毎日のようにお見舞いに。でもお話はできないと思います。だって・・・」
「意識がないからね?」
「はい・・・お願いです、もうお許しください。誰にも何もしゃべっちゃいけないって言われてるんです。あたし、困ります・・・」
「誰にも? 安心おし。私の名を出せば何もできない。それともこの私に逆らってこのまま監獄に行きたいの?」
「そんな! 嫌です!」
「それなら隠さないですべて言いなさい。そうね・・・ヴェーラはどうしているの? 兄の妾との同居に寛容とも思えないけれど」
「あ・・・お嬢様とは・・・」
「とは?」
「仲がおよろしいのかどうか・・・あたしにはわかりません、だって赤ちゃんをあんな・・・」
「赤ちゃん? 赤ちゃんですって? いつの話?」
「こないだのことです。戻られた時、お腹に赤ちゃんがいて」
「誰の子なの? まさか、旦那様なの?」
「いいえ、いいえ、違います。だって生まれてすぐに無理矢理取り上げて、ヴェーラ様がどこかに連れて行ってしまわれたんです。長いことお留守で」
「どこかへ?」
「きっと地の果ての孤児院に捨てたんだって、タチアナが・・・もしかしたらシベリアの氷の川にでもって・・・」
「捨てて・・・それなら旦那様の子ではないわね」
「タチアナは、売春宿で働かされてたんだろうって。お痩せにはなってましたけど、身綺麗にされてましたから。娼館で商人の旦那様にでも囲われてって。だってお綺麗ですもん」


なんてこと。
そんな女を・・・そんな女を・・・正妻に・・・私と同じ座に・・・。


*     *     *     *     *



婚約者を亡くし、それでもユスーポフ家の跡取りとの婚姻しか許されなかった。
事情を知らない人たちからはたくさんの縁談や求婚がもたらされていたのに、選りに選ってあんな人・・・運命を恨んだわ。

でもそれはあの人も同じでしょうね。
兄の、言わばお古の婚約者だもの。

義務として褥を共にした。
跡継ぎを・・・陛下に差し上げる為に。
あの人はユスーポフ侯爵家のため、私はロスティスラフ公爵家のために。

解放されたかった、一刻も早く・・・そんな夜から。
なのに・・・あの日。

回復してももうあの人が来ることはなかった。



まこと私の子だったのか?



そうよ。
あなたが初めてだったし、他の男となんて・・・それまでは。



あの子・・・男の子だった。
人づてに聞いた。
私が鞭打って流産させた、あの子。
侯爵家の墓所に埋葬されたと。



今は・・・このまま引き下がる、今は、だ



あの時の瞳・・・。
それまではそれでも妻として見ていたのだとわかった・・・冷たい怒りの漆黒。

なぜあんなことをしたのか・・・口車に乗せられて。
愛人のことなど放っておけば済んだのに、愛人の子も。
この私が恐れる必要はなかったのに。

失って初めて気づいた。
私は・・・愛して欲しかったのだと。
私は・・・愛していたのだと、ずっと。

見たことのない瞳、聞いたことのない声を独り占めしている女。
許せなかった。


*     *     *     *     *



(8)



「氏素性の知れぬ女、あまつさえ娼婦に身を落とした女に仕えられぬと言うのか」
「・・・旦那様、旦那様のお気持ちは重々承知しております。もちろん奥様のお人柄も・・・しかしながらご結婚だけはどうかご再考くださいませ。公爵家の御不興をかいましては侯爵家の御為になりません。宮廷で受け入られましょうか、どうなさりようもなかったとは言え・・・」
「一度しか口にせぬ。それで納得しろ。そして他言は無用だ、それこそ侯爵家の為だからな」
「・・・」
「彼女は・・・この二年は・・・娼婦ではなく、ある男と暮らしていた。教会の法に則ってではないだろうが・・・この都に来る前から二人は相思相愛の仲だった。それを私が割きあの屋敷に閉じ込め我がものにしたのだ。あの時アデールがいなければ結婚していた。我が侯爵家に十分釣り合う身分のある女なのだ。父上も御存じだったことだ」
「・・・」
「さらわれた後、神の導きで再会したのだろうが、こうしてようやく取り戻し、アデールと離縁した今、ためらう必要はあるまい。それとも・・・このまま跡継ぎもなく分家に渡せと、お前はそう考えておるのか?」
「滅相もございません。私はご当家のためにこのような不敬なことも申し上げているのです。お許しください」
「・・・」
「何より、御再婚のお許しが出ましょうか? 公爵家の御意向も伺って、穏便な御相手を・・・。奥様はまたあのお屋敷でお静かにお暮らしになられればよろしいかと」
「公爵家に何の関係がある! 遊び歩いて流産するような女の実家に!」
「お怒りはごもっともでございます! ですが・・・」
「もうよい! 心配はまったく無用だ。陛下の御理解もいただいている。公爵家の意向など慮る必要はない。この話は二度とするでない。アデールに、いや、アデールに仕えた以上に彼女に仕えろ。無礼は許さん」


*     *     *     *     *



正確に言えば、彼女が目を覚ますことはなかった。

薬を与え、考えることも歩くことも一人では何もできぬ状態を保ち続けていた。
今の彼女にとってそれが一番の平安だろう、子どもがどうなったのか、あいつがどうなったのか、思うことすらできぬ状態が。
その間に早く身体を、傷を治せ。
だがいずれ正気に戻った時、自分はどう対応したらよいのか、どのような修羅場を迎えるのかと暗然となる。

このまま与え続けようか?
だが廃人にするわけにはいかぬ。

姉は子どもを引き取った、妹の願いと信じて。
どこで育つより幸せになるだろう。
いつか、いつか二人が再会する時が訪れるだろうか。
その時、私はこの世にいまいが。



昨日、カトリックからロシア正教に改宗させた。
白い洗礼着が肌の白さをいや増すようだった。
しかし痩せ細った体は腕に何の重みも感じさせず、碧い瞳は固く閉じられた瞼の下だ。
浅く熱い息・・・だが回復まで待てぬ、時間がない。

明日は邸内の礼拝堂で式を挙げる。
参列者はヴェーラとリュドミールのみ。
教義では禁じられているが、ドイツ政府から隠し財産を守るためと強引に理由をつけ、陛下から許可を頂いた。
私の妻にすれば、より守ってやれるだろう。

可哀想に。

意識のないまま、神に誓わされるのだ・・・忌み嫌う私との・・・結婚を。





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