07 無くしたい記憶
(1)
「お母様はね、一日中働いてらしたから、私、ずっとお部屋にいたの。マリアと一緒にね。外に出るのは・・・そうね、滅多になかった気がする。ごくたまに公園に連れて行ってもらって。鳥を追いかけたり、花を摘んだり。薄い赤色の背の高い花をね、たくさん摘んだ。そうして繋いで冠にするの・・・」
「どうした?」
「あの・・・この話・・・前にも・・・したかしら?」
「そう、だな。聞いた覚えはある」
「ごめんなさい。つまらなかったでしょう?」
「いや、そのようなことはない」
「ごめんなさい。いやね、自分の話したことも忘れてしまうなんて」
「構わん。何しろお前が昔の話をするのを聞くのは・・・楽しいからな」
「え? そんなに楽しい話なんて」
「内容だけではない。お前が母や伯爵のことを話す時の表情がよい、私も心地良い」
「そう? それならいいんだけど・・・そうね、おかしなことがあったわ、とても・・・あれは何だったのかしらね」
「うん?」
「パリで演奏会に連れて行ってもらったの。伯爵がね、奇妙で面白いからって」
「演奏会が奇妙?」
「そう、変でしょう? そうしたら少し年上だけれど、まだ子どもの女の子が演奏して。演奏は見事だったわ、聴衆も熱狂していて。珍しいものね、女の子なんて。それもとても綺麗で不思議な魅力のある女の子。でも、そのあとのパーティーで少し話して、私、気づいたの、男の子だって」
「変装か?」
「そう、彼女、いえ、彼ったら、クスって笑って耳元で囁いたの、お互い大変だなって」
* * * * *
(2)
久しぶりにユスーポフ家を訪れた・・・侯爵のご不在を狙って。
社交界の事情通の叔母様から再婚されたと聞いて、遅まきながらお祝いの品をお届けに・・・でもこれは・・・口実。
新しい奥様はあの方らしい・・・それを確かめに・・・あの時、亡くなってしまったって聞いていたのに。
再婚そのものはもう一年以上も前のこと。
公な結婚式も挙げず、宮廷でのお披露目もないし、夜会や劇場で見かけたと言う話も聞かないけれど、お屋敷勤めの使用人の世間話から、いろいろな噂が静かに広まり伝わってくる。
*
長く囲っていた愛人を妻に・・・それも陛下の姪姫と離婚して間もないというのに・・・
誰もが眉をひそめることを選りにも選ってあの侯爵がやってのけた、陛下に無理を言って・・・
ユスーポフ家だから許されることだ・・・
そもそもどう言った女なのだ?
街で拾ってきたらしい・・・
街娼か?
いや、リゴフスキーあたりの高級娼婦らしいぞ・・・
何と言うことだ、帝国随一の貴族がそんな女を
その場に共にいるだけで汚らわしいではないか
いやいや、卑しい育ちはどうにもならず未だ礼儀が備わるはずもなく、外には出さないというから安心だ
それは何よりだ。侯爵の手前、無視するわけにもいかんからな
だが、その美しさは格別らしい
透き通る金髪でサファイアのような碧い瞳
侯爵の執心ぶりは側近の目に余るほど
*
戦時下で停滞した社交界の恰好の話題になっている。
どうして?
やっと彼と会えたのに・・・結婚したって同志から聞いたわ。
心からのありがとう
あの言葉だけで私は充分だった。
だから本当に祝福した、あなたたちのことを、彼の幸せを。
嫌疑をかけられないように会うことも連絡を取ることもできなかったけれど。
あの摘発で彼も負傷した、でも逃げ切ったのよ。
どうして敵の侯爵と結婚なんて。
また脅されているの?
*
私に何ができるかわからないけれど、ともかく事情を知るために訪問した。
サロンに通され、今日はあいにく具合が悪く臥せっていると言われた。
でもそれ以上に、会わせたくないようだった。
ヴェーラが珍しく言葉を濁していた。
だって、あなただって知っていることでしょう? 二人のこと。
もちろん立ち入っては話せない、彼女は私が反体制派の一員とは夢にも思っていないから。
当たり障りのない世間話をしながら、それとなく探りを入れたけれど、結局何も得られなかった。
帰りかけて扉の近くまで来た時、突然あの彼女が入ってきた、薄紅色の花束を抱えて。
私を見ると驚いて落としてしまい、震え出した。
ヴェーラが駆け寄り、「大丈夫よ」と声を掛け、連れてきた。
「紹介するわ、マフカ・アレクサンドロヴナ・ユスーポワよ。マフカ、こちらはアナスタシア・ストラーホワ伯爵夫人。久しぶりに来てくださったの」
彼女の唇は見る見るうちに真っ青になり、言葉が出てこなかった。
私が口を開く前にヴェーラが遮るように言った。
「ごめんなさい、アナスタシア。少し・・・失礼するわ。お待ちになって」
*
僅かに開いた扉から二人の声が漏れ聞こえてきた。
ごめんなさい。私・・・お客様がいらしていること、知らなくて。ごめんなさい
いいのよ、いいの。突然のご訪問だったのだから。気にしないで
ごめんなさい。お花をサロンに飾ろうと思って・・・失礼なこと、私・・・
いいのよ、本当に。彼女は気さくな方だから、大丈夫。私からお話しておくから。それより、お花を早く花瓶にね、せっかくなのにしおれてしまうわ。そうね、音楽室に飾るといいわ。レーナ、お花を持って、奥様をお連れして。それから少しお休みになるよう支度して差し上げて
何か違和感を覚える二人の会話だったけれど、ヴェーラは、「ごめんなさいね、ずっと精神が不安定なの」とだけ話し、詳しい説明はなかった。
*
帰宅後、どうしようかと考えた。
彼に知らせる?
もっとも・・・これは罠なのかも、彼をおびき寄せるための。
第一、組織が弱体化している今、あの屋敷から救い出すことなど彼にも出来はしない。
でも・・・私なら可能かもしれない・・・何か口実を設けて外に連れ出せば・・・。
それにしても・・・彼女・・・ひどく動揺していたけれど、私のこと・・・初めて見るような瞳だった。
まして、入ってきた時の幸せそうな表情は本心からのようだったわ。
もう忘れてしまったの?
まさか・・・何不自由のない生活を選んだの?
何にしても、もう一度ヴェーラと話してみてからにしよう、我が家にお招きして・・・。
* * * * *
(3)
遅くに帰宅すると、晩餐も取らずに臥せっているという、このところ落ち着いていたというに。
口籠るヴェーラからストラーホワ夫人の訪問のことを聞き出した。
「お兄様に禁じられていましたが、突然のご訪問でどうしようもなかったのです。早めに切り上げて・・・でも、お帰りになるところに折悪しく鉢合わせを・・・」
「あれの様子は?」
「初対面のようでした。それよりも・・・ひどく動揺してしまって。鎮静薬も飲まなくて、ただ泣いているのです」
「思い出したのか?」
「いえ、それはありませんでした。ごめんなさい、と繰り返して。無作法を恥じているようで」
「・・・その祝いの品は屋根裏にでも入れておけ。彼女にとっては新婚ではないのだからな」
*
しかるべき指示を出したあと、寝室に行くと泣き腫らした瞳で私を見た。
ああ、本当に久しぶりだ、彼女の涙を見るのは。
「ごめんなさい、ごめんなさい、レオニード」
「何を謝る?」
「だって、私・・・無作法をしてしまって、お客様に。どうしよう」
「彼女はヴェーラの友人だ。何も気にすることはない」
「だって、だって、せっかくいらしてくださったのに・・・何の用意もしていなかったし、それどころか私・・・」
「気にするな。伯爵夫人相手にお前が悩むことはない。そうだな、今度改めて招待するとよい。そのように気に病んでいると彼女も来にくいだろう? 」
「でも・・・でも・・・」
「何だ、私を信じられぬのか?」
「いいえ、いいえ。でも・・・でも・・・私・・・」
「仕方のない奴だ」
深い口づけを与えて落ち着かせた。
「まあ・・・彼女はしばらく南部の領地で暮らすそうだ。戻ってきたらお招きするといい。ヴェーラと相談して凝ったもてなしにすればそれで帳消しだ」
「そう? 本当? 本当に?」
「ああ、本当だ」
「そうね・・・ヴェーラなら完璧ね。大丈夫。今度はちゃんとやるから・・・ちゃんと」
「・・・伯爵は・・・それほどに厳しかったのか?」
「え? いいえ。優しかったわ。課題には厳しかったけれど、怒られたことはなかった」
「まあ、よほどお前の出来が良かったからだろう」
「ごめんなさい、本当に」
「謝る必要はないと言っている。まったく、禁句だな。それとも・・・まさか・・・私が怖いのか?」
「そんなこと、ない。でもあなたの恥になったらって」
「恥?」
「私、いろんなこと勉強した。でもね、いい奥様になる勉強はしたことがないの。だからあなたにふさわしい奥様にどうしたらなれるのかわからないの、今も」
「そのようなこと、書物から学ぶものでもあるまい。そのうちに慣れてくるものだ」
「だって、もう八年にもなるのよ。それなのに私・・・。記憶をなくす前の私はどうだったの? 今よりは少しは奥様らしかった?」
「そうだな。まあ、あまり変わらんがな。元々、外出や人に会うのは苦手だったのだから。ああ、そう言えば、今度キリル大公殿下の宮殿で舞踏会がある。長い外国暮らしから陛下に許されて戻ってこられ、ようやく落ち着かれたのだろう、気心の知れた者たちをご招待してくださった。どうするか迷っていたが・・・行ってみるか?」
「舞踏・・・会?」
「嫌か?」
「・・・少し怖いけれど・・・あなたと一緒なら・・・」
「では決まりだ。明日アンナに言って、急いで衣装を誂えなさい。宝飾品も選んでおくがよい。さあ、晩餐に付き合ってくれ。お前も一緒にとれ。しっかり体力をつけんと、その"いい奥様"にはとてもなれんぞ」
*
潮時だ。
ずっと泳がしておいたが、自分で引導を渡したな。
マフカのことを・・・ユリアのことを口外することは許さん、一言も。
* * * * *
(4)
ヴェーラが泣いていた。
そのすぐ前に帰邸したレオニードに縋りつくようにして何かを問うていた。
そして書斎から出てきた彼女はそのまま自室へ籠ってしまった。
何か仕事のこと?
それとも家族のこと?
仕事に口を挟むことはできないし、家族と言っても今の私には親戚のことまではわからないし・・・。
そんな私にはヴェーラの力になれない、そう、誰の力にも。
レオニードは、ただそばにいるだけでよいって言ってくれるけれど。
思い出せない八年間のことが恨めしい・・・なぜ忘れてしまったのだろう。
むしろ子どもの頃を忘れたかった。
*
子ども心にもひしひしと感じていた貧しい暮らし。
お母様は必死に働いて私は一人、寒い屋根裏部屋で待っていた。
そして・・・でも・・・冷たかった、あの川・・・冬の。
救い上げられて貧民院にいるところに知らない男女が・・・後で伯爵夫妻と紹介されたけれど・・・迎えに来た、あなたのお父様が待っていると。
どこかのホテルの、初めて見る豪華な部屋で体を磨かれて綺麗な服を着せられて・・・それはお母様も同じだった。
しばらくして部屋に入ってきた"お父様"。
がっしりとして大きく厳しい目をされていた。
男の人に間近で会うことなどなかった私は泣き出しそうになったけれど、必死に堪えた。
その後、一日くらいだったのだろうか、お母様はお父様とずっと一緒にいらした。
私はお母様に会うこともできず、伯爵夫人と遊んでいた。
と言っても、もらった綺麗なお人形で一人で遊んでいたような気がする・・・一人で遊ぶのには慣れっこだったから。
私の持っていたお人形・・・あの屋根裏部屋にまだあるのかしら。
今、手に取ったら、きっとあんまり粗末なもので驚いてしまうでしょうね。
それから・・・お父様に呼ばれ、膝の上に抱き上げられた。
葉巻の匂い、皮の匂い、お酒の匂い・・・男の人の匂い、ね、レオニードと同じ、伯爵も・・・同じだった。
だから・・・あの匂いは・・・懐かしく頼もしいけれど・・・ちょっと・・・怖い。
*
「お母様が好きか?」
「ええ、もちろん」
「どれだけ好きだ?」
「たくさん、たくさんよ」
「お母様の役に立ちたいか?」
「ええ、もっと大きくなったら、たくさんお手伝いする」
「今からでもできることがあるんだよ、お前に」
「それはなあに?」
「だがね、少し寂しくて少し辛いことかもしれぬが、お前にやれるかな?」
「寂しくて辛いの? うん、頑張る、お母様のためなら」
「約束できるか?」
「うん、約束する」
訳も分からず五つの子どもが約束したその後、やっとお母様に会えた。
あれは泣き腫らした目だった、今思えば。
強く抱き締めて、ごめんなさい、元気でって。
私はそこから伯爵夫妻に連れられてパリへ向かった。
*
今日からあなたの名前はユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ロサコフです、ウクライナ貴族の・・・男の子。
ユリアという名は封印されて、私はユーリに、男の子になった、理由を教えられることもなく。
いるはずのない父と母の名前や経歴、行ったこともない故郷の様子などを覚えさせられた。
暮らしはまったく不自由しなかった、いえ、豊かなものだった。
それまで口にしたことのない美味しいものをたくさん食べられたし、繕った跡のない羽のように軽い服もたくさんあった・・・全部男の子のものだったけれど。
美しい調度品が揃えられた広くて暖かい部屋を与えられ、侍女まで。
生活の一切を自分でする必要がなくなった、でもその代わり・・・。
初めて触れる鍵盤・・・来る日も来る日も練習した、させられた。
そして言葉も。
まだドイツ語すら満足に話せないのに、フランス語や英語、ロシア語、ラテン語・・・。
一体、何ヶ国語をやったのだろう。
乗馬もダンスも・・・嗜む程度では許されなかった。
それから・・・ロンドンに移ってからは・・・銃やナイフの使い方、青あざを作りながら練習した。そして毒も。
何の為に?
初めは・・・よくは分からなかった、分かりたくなかったのかも。
でも・・・獣を殺す為ではないこと・・・くらいはわかった、十にもならない私にも。
幸いまだ使う機会はないけれど・・・ずっとないことを祈るわ。
*
毎朝毎晩ロシアの皇帝陛下に忠誠を誓った。
忠誠という意味も分からなかったけれど、朝晩の聖書の祈りと同じように。
学校に行ってはいても友達はできなかった・・・いえ、作ってはいけないと暗に言われていたと思う。
表面的な、学校だけでの付き合い。
自分の過去も今の暮らしについても話してはならないと言われた、教えられた作り話以外は。
思えばあの頃に、黙っていることを覚えたのかもしれない・・・今でも得意。
本当に変な同級生だったでしょうね、きっと。
ただでさえ敬遠される留学生、言葉は綺麗だけれど、どこか気取っている。
君のフランス語はまるで教科書だって言われた。
そんな毎日が寂しくないわけがない。
お父様は "少し"って言ったけれど、それは嘘、本当に寂しかった。
伯爵夫妻はとても優しくて、いつも寄り添ってくれた。
もちろん私はお父様との約束通り頑張った、すべての課題に期待される以上の成果を上げた。
・・・伯爵夫妻も満足そうだった・・・だから可愛がってくれたの。
それまで失うのが怖くて必死に努力した。
そして故国のお母様のためにも。
*
最後にこのサンクト・ペテルブルクに来て、あと二年、あと二年すればドイツに帰れる、お母様に会えるって。
そして、レオニードに会って・・・。
一度ドイツに帰ったはずなのに、その記憶すらない。
だからお母様はあのホテルで別れた時の、あの泣き腫らしたお顔しか思い出せない。
レオニードは教えてくれた、お母様はご病気で亡くなったと、それにお父様も。
今、アーレンスマイヤ家は長女が継いでいるって。
多分会ったのだろうけれど、覚えていない、腹違いのお姉様。
私の、あの努力は何だったのだろう。
お母様はお幸せだったのだろうか、アーレンスマイヤ家で。
私は・・・今、幸せよ。
記憶がなくなったことは悲しいけれど、でもレオニードがいてくれるから。
ああ、でも・・・赤ちゃん。
あの時、二人に。
あれはラスプーチンっていう神父と、それから、あの女の人は?
顔しか思い出せない、鬼のような形相の・・・誰だったのだろう。
今度の命日には教会に連れていってくれるって。
私たちの赤ちゃんが眠る、レオニードのお父様やお母様と一緒に。
そう、レオニードと見たあの夕陽、本当に美しかった。
彼も覚えているのかしら、今度、聞いてみよう。
きっとそんな美しい思い出もたくさんあったはずなのに全部忘れてしまうなんて、どうして?
辛い思い出が多すぎる。
*
あ、レオニード!
「どうした? 何を考えていた?」
「いえ、昔のこと、子どもの頃の。いいえ違うわ、あの夕陽のことよ。一緒に見たでしょう? 覚えている?」
「あの突堤のか? 覚えているとも、昨日のことのようだ」
「そうね、嬉しいわ、覚えていてくれて」
「もう少し気候が良くなったら見に行くか?」
「ええ、ええ、そうしましょう・・・ね、聞いてもいい? あの・・・ヴェーラのこと・・・」
「・・・」
「ごめんなさい、いいの、余計なことを、私ったら」
「いや、よいのだ、どう話すか迷っただけだ、謝ることはない」
「でも・・・」
「先日、幼馴染が、公爵家の令嬢だが、反逆容疑で逮捕されたのだ」
「え? 公爵家の方が?」
「判決が出る前に監獄で死んだ、一昨日のことだ。何らかの伝手で毒を手に入れたらしい」
「亡くなって・・・ヴェーラのお友達だったのね」
「実は・・・そう言った噂が以前からあってな、ここしばらくは付き合いを止めさせていたのだが、幼い頃の友人というものはまた特別なのだろう」
「そうね、きっと。私にはいなかったけれど少しは想像できるわ・・・でも・・・ねえ、レオニード。どうして公爵家のお嬢さんがそんなことを?」
「まあ、中にはいるのだ、そういう者も」
「でもね・・・貴族でしょう? あなたと同じ、陛下に身分を与えられた。陛下をお守りするのが役目ではないの? 公爵家って・・・陛下の御親戚でしょう?」
「そうだな・・・それが当然なのだが。貧しい者に同情するあまり自分の立場を忘れてしまう奴らも・・・いる、困ったことだ」
「ねえ、レオニード。もしそんな人たちが増えたら・・・そうしたら、陛下は亡命なさるの? あの鍵はその為のものなの? そうなることを・・・随分と前から陛下も考えておられるってこと? その時が来たら、あなたはどうするの? 私はどうするの?」
彼は黙って私を抱き締めた。
そのようなことにはならぬ・・・とは、言ってくれなかった。
* * * * *
(5)
「奥様、先程楽譜店の使いの者が参りまして、昨日お納めした楽譜に間違いがあったので、新しいものをお持ちしたと」
「間違い?」
「はい、こちらでございます」
「そう、わかったわ、ありがとう」
ラフマニノフの新譜?
え? でもこれ、中身はショパンの・・・。
これが間違いじゃないの?
あ・・・。
ゆっくりな曲。
楽譜通りに弾いてみる。
ところどころ間違っている音符がある。
む・か・え・に・き・た・あ・す・か・ら・ま・い・ば・ん・よ・あ・け・ま・え・ま・で・お・ん・し・つ・で・ま・つ
コーダのマークが・・・蛇に・・・伯爵だ。
私が昔作った暗号で。
迎えにって?
どう言うことだろう。
どうして?
ここを離れろと言うこと?
なぜ?
*
どうしよう。
あれから三日経つ。
同じ頃から何だか忙しそうで・・・ヴェーラも執事も。
私は黙って見ているしかないけれど。
見つかったら、いくら伯爵でもただでは済まない。
記憶のない間に何かあったのだろうか。
でも、ここを、レオニードから離れてなんて・・・
鍵のことならばレオニードに相談したっていいのに。
なぜ?
「どうした? このところ上の空だな」
「え? 何でも、ないわ、何でも」
「水臭いな、まだ他人行儀か?」
「嫌だ、遠慮なんかしてない。何でもあなたやアンナにお願いしているもの」
「・・・信頼に足らぬか? 私は」
「え? 違うの・・・あの・・・戦局の悪い時にこんなこと聞いて・・・でも伯爵は? 伯爵はどうしているかしら」
「・・・定期的な連絡は取り合っている。この状況でもな。うまくやっているようだが・・・伯爵がどうかしたか?」
「いえ、ただ少し心配で。大丈夫かしらって。大切な人だから」
「そうか」
「あの・・・あのこと・・・鍵の・・・」
「・・・何だ?」
「あの・・・あなたも・・・私も・・・陛下のために・・・守っている・・・のよね?」
「・・・そうだ。ただ陛下の御為だ」
「それは伯爵も・・・そうよね?」
「そうだ」
「ごめんなさい、とても忙しそうなのに、私、当たり前のことを聞いて・・・」
「構わん、重要なことだ、あの件はな・・・これからモスクワに発つ。しばらく帰れぬが・・・大丈夫か?」
「ええ大丈夫よ、ヴェーラとちゃんとお留守番しているわ。気をつけて行ってらっしゃい」
*
「さあ参りましょう」
「待って、聞きたいことがあるの」
「それは脱出してからです、急ぎましょう」
「いいえ、聞いて考えなくては」
「ここは危険です。早く逃げなくては」
「危険? 逃げるですって? 何を言っているの?」
「どうなさったのです? 強要された結婚で、恋人への思慕もお忘れになったのですか?」
「強要? 恋人? 恋人って誰? 何のこと?」
「どうなさったのです? 革命家の・・・」
「そこまでだ!」
「あ! レオニード! あ、伯爵?」
「はなせ!」
「このまま見送るのが賢明ですよ、侯爵。弟君を失うことになります」
「貴様だったか!」
「伯爵? 待って! 嫌よ! はなして!」
「!」
* * * * *
「屋敷に戻っていなさい。中尉!」
「あ、でも・・・伯爵が」
「心配いらぬ、誤解があるようだから話し合うだけだ」
「誤解? でも、でも怪我・・・」
「中尉、奥方をアンナに任せたら軍医を呼んでくれ。さあ早く行きなさい、そうせねば手当が遅れるぞ」
*
「レオニード! 伯爵は? 伯爵はどこに? 大丈夫なの? ねえ、私、覚えていない間、伯爵に会ったこと、ある?」
「・・・」
「伯爵は私たちが結婚していること、知っているのよね?」
「・・・」
「ねえ! どうして黙っているの?」
「・・・落ち着いて聞きなさい。さあ、もう少しお茶を飲もう」
部屋にはカミツレの香りが満ち、私の荒ぶった気持ちをも鎮めてくれるようだった。
ずっと悩んだのだろう。
こちらが目的だと早く気づくべきだった。
危うく陽動作戦に引っかかるところだ、あの狐め。
「伯爵は・・・誤解していたのだ」
「?」
「お前はドイツで相次いで父母を亡くし、心が不安定になり、恋人に会いに行くとだけ書き残して行方不明になった。実のところその恋人とは私だったのだが、私は・・・伯爵も知っているものだと思い、伝えなかった。何しろ敵国同士のやりとりは出来得る限り控えねばならぬからな。伯爵はようやくお前の消息を掴み、敵地に捉えられていると誤解して訪れたのだ」
「そんな、そんなこと。ずっと心配させていたなんて。私、申し訳ないことを」
「まあ、あの頃はお前も大変だったのだ。一人でよく耐えてきた。だから仕方あるまい」
「でも、その為に・・・」
「それだけ伯爵のお前への愛情が深いということだ」
「それは・・・嬉しいけれど」
「よいではないか、これで誤解も解けた。怪我も大したことはなかったから、あのまますぐに安心して帰った、幸せにと言っていたぞ」
「そう? あなたと・・・離れなくていいのね?」
「勿論だ。私達は夫婦なのだからな」
「そうよね・・・あ、リュドミールは?」
「手下が誘拐していたが伯爵が連絡し解放された。本人と話をしたから大丈夫だ」
「そう、よかった。リュドミールにも迷惑をかけてしまって」
「今回のことは・・・リュドミールのことは活動家どもの仕業としておく、そして伯爵については心配ない、中尉も軍医も口は固い」
「でも・・・あの・・・」
「どうした?」
「あ・・・」
「また頭痛か? アンナを呼ぼう」
「いえ、いえ、いいの。大丈夫。もう夜中だし。いえ、もう夜明けね」
「そうだな。だが少し眠りなさい。温まれば頭痛も治るだろう。私はこのまま報告に行く」
「ごめんなさい。あなたに一番迷惑をかけたわ。相談すればよかったのだけれど、私・・・」
「わかっている。私の為に気を使ったのだ。そして鍵の為に、な」
* * * * *
・・・最後に伯爵の言った言葉・・・革命家・・・あれは?
ああ、頭が痛い。
何か考えようとすると、いつも。
もう、いい。
誤解だったのだから、何もかも。
眠ろう。
目が覚めたら元の通り。
疲れているレオニードの為に、私はにこやかにしていなければ。
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