10 悪魔を討つ
(1)
「お前が・・・話したのか、アデールに」
「・・・お兄様、お叱りは・・・覚悟の上です。お義姉様は・・・アデール様は・・・悔いておられて・・・ずっと・・・お兄様への振る舞いも、お父様やお母様のことも。いつかお役に立てる時が来たらどんなことでも、と言われていたのです」
* * * * *
協力を申し出てきたアデールの姿を見られてしまった。
彼女に残る唯一の・・・あの記憶が呼び戻された。
「罠よ! あの人はまた神父と計らっているんだわ! あの人が私に何をしたのか、もう忘れてしまったの?」
結婚してから初めて見せる激しい感情の爆発に、このまま全てを取り戻すのではないかと不安になり抱き締めた。
「鞭で打ったの! あの神父と一緒に! どうして信じられるの?」
「・・・これは私の役目だ。口を出すでない」
「私よりあの人を信用するの? 売国奴の娘よりも?」
「そのようなことは思っておらぬ、決して。さあ、部屋に戻りなさい。後で話そう。今はすることがある」
ヴェーラが引き留めようとしたが、扉を勢いよく開き、駆け出て行った。
「お兄様、鞭って? 売国奴の娘って? 何のことなのです?」
「・・・別邸にいた頃、国境視察の不在を狙って、いや、そもそもそれが目的だったのだろう、アデールと神父があいつを冬宮に呼び出し、鞭打った。幸い隙を突いて逃げ出し、子は無事だったが・・・以降、体調を崩し・・・」
「・・・」
「・・・まあ、過ぎたことだ・・・。売国奴の娘というのは・・・。そうだな、お前には話しておこう。今度の計画が成功しても私が生きていられるとは限らぬからな。その時はお前が私の代わりに彼女の使命を果たさせてほしい、ユスーポフ侯爵家の人間として」
*
「これから話すことは国家機密だ。私の他には皇帝陛下と数名の側近・・・そしてカレンとセルゲイのみが知る。皇后陛下も皇太后陛下もご存知ない。もしこれが他の勢力や革命家ども、まして外国に漏れれば大混乱が起きる。従ってお前も誰にも言ってはならぬ」
「わかりました、お兄様。ご信頼を裏切ることは致しません」
「・・・あれの父親のアルフレートはドイツ陸軍省諜報部の幹部だったが、実は父上と通じ、祖国を裏切っていた」
「それで"スパイの娘"だと」
「将来起こるかもしれぬ亡命に備え、陛下は密かに各国の信頼できる者たちに財産を託した。その内ドイツ帝国銀行の鍵を預かったのがアルフレートで、彼の死後彼女が引き継いでいる。鍵を引出し、貸金庫を開けるために必要な情報を知っているのは彼女自身と、以前私に渡した書き付け・・・これだ」
小さな紙片にはラテン文字や数字が書き込まれ、どう読み取るべきものなのか私にはわからない。困惑してお兄様を見ると苦笑していらした。
「まるで分からぬだろう? 暗号が組んであるのだ。あいつは姉をこの件に巻き込まぬよう私に預けた。しかし私には解けぬ。専門家に任せれば可能だろうが、この秘密に関わらせるわけにはいかぬ。かと言って暗号化せぬものを書かせるのも危険だ、人手に渡ればお終いだからな」
「では彼女がいなければ財産は引き出せないのですね?」
「そうだ。あいつの重要性が分かるだろう。・・・あれの母は妾で、身籠った途端に捨てられたそうだ。貧しい暮らしをして五歳の時、正妻が死んだのを機に再び囲われた。だがアルフレートが必要としたのは幼い娘のほうで、自分の役割を継がせようと、その為の英才教育を施したのだ。十四で帰国するまで教育係の部下夫婦と共に留学させた。当然、我が皇帝陛下への忠誠も叩き込まれた。私とよい勝負だろうな」
「お兄様と? そんなふうには見えませんけれど」
「平素はそうでも、事に接すれば呼び覚まされそのための行動を取るのだ。教育とはそういうものだ。ドイツでは少なくとも一人を殺している、自分の手で」
「!?」
「あいつは僅か十四、五で立派に責務を果たしたのだ」
「・・・」
「皇帝陛下の御為にも、人生をかけてきたあいつ自身の為にも、亡命される時には間違いなく財産をお渡しできるよう、お前も尽力してほしい」
* * * * *
これからについてあれこれと思案を巡らし、夜更けになって様子を見に行くと、寝台に身を投げ出し泣き疲れて寝入っていた。
傍らに座り、髪を撫で頬に口づけした。
気づいて力なく身を起こそうとするところを掬い上げ抱き締めた。
「悪かった。あの女は私たちの子を殺したのだったな」
僅かに頷く。
「思い出した、あの人、あなたの奥様・・・奥様よ! ここに住んでいた! 私は? 私はあなたの何なの?」
「・・・確かに・・・あの女は一時は私の妻だった。陛下のご命令で結婚し、そして離婚した。その後、お前と結婚したのだ」
「離婚?」
「そうだ、政略結婚などそのようなものだ。愛情などひとかけらも存在せぬ。お前ととは全く違う」
「違う?」
「そうだ、お前とは愛情だけで結婚したのだ。お前もそうだろう?」
「・・・ええ、そう・・・そうだったの、よね?」
「何だ、あの夕陽を忘れたのか?」
「そう、よね。そうよ」
「あの女は・・・嫉妬したのだ、お前に。結婚していた時には散々勝手な振る舞いをして他の男と遊び歩き、私を軽んじ遠ざけていたのに、いざ別れて他の女のものになったとなると誇りが許せなかったのだろう。身勝手極まりない。だがその為にお前を苦しめてしまった。すまぬ、悪かった」
「ううん、いいの。謝るのは私よ。ごめんなさい。何が何だか分からなくなってしまって。あなたを・・・あなたの愛を疑うなんて」
長い口づけの後、言っておかねばならぬことを告げた。
「好き好んであの女と協力するのではない。あくまでこのロシア帝国の為、皇帝陛下の御為なのだ。あの女が神父を誘い出し私が始末するのだ」
「始末? 殺すの?」
「そうだ。あの神父は皇后陛下に取り入り、皇帝陛下は皇后陛下の意向に沿わざるを得ぬ。似非神父が我が帝国の運命を左右しているのだ」
「・・・でも・・・そんな、両陛下に気に入られている男を・・・殺したら・・・あなたは? あなたはどうなるの?」
「大丈夫だ。陛下は聡明な方だ。私の思いをわかってくださる・・・そして・・・私の父母、私たちの子を殺した仇を取ることにもなる。奴はお前を・・・」
「いや! それ以上言わないで! 思い出してしまう! 怖かったの! 怖かったの!」
一層強く抱き締めた、震えが止まるように。
「罠かどうかはしっかりと確かめる、安心しろ。だが今はあの女の助けが必要なのだ。すまぬが堪えてほしい」
何もかもが切迫し、互いに連鎖し誘発しているように思える、破滅に向かって・・・国内も国外も・・・皇室も我が家も。
誰にも止められぬ・・・落ちてゆく木の葉を。
昨日の逡巡が、今日の決断が、明日のどのような舞いを呼ぶのか・・・わからぬ。
が、お前と添い続ける為にも、この戦いに負けるわけにはいかぬのだ。
* * * * *
(2)
彼女も・・・ああ言うのだろう・・・自分に向けられた銃口を見て・・・笑みを返しながら。
お疑いですか・・・彼女の忠誠を・・・ここに至って。
何物にも代え難いあの男と母の記憶をなくしてもなお残る・・・確固たる忠誠心を。
殺せと。
この・・・私に・・・。
「あなた・・・いるの? 灯りは? ヨシフを呼ぶわね」
「いや! よい・・・このままで・・・ここへおいで・・・」
「どうしたの、こんな薄暗がりで。あ、考え事をしていたのね、ごめんなさい、邪魔をしてしまって」
「・・・つい・・・うたた寝をしていただけだ。気にするな」
「レオニード・・・お疲れなのよ、ずっと・・・今夜は早めに・・・あら・・・拳銃?」
「・・・手入れを・・・していた」
「懐かしいわ」
「うん?」
「伯爵もよくしていたの。私も教わって。分解しては組み立てて。もちろん私のはもっと小さかったけれど・・・触っても・・いい?」
「ああ」
「重い、やっぱり。軍務ではこの大きさでないと駄目なのね。しばらく・・・撃っていない、私。練習したほうがいい?」
「・・・そうだな・・・春になったら・・・別荘ででも」
「そうする。私、結構上手なの、信じられないでしょうけれど。でも・・・見せたこと、あったのかしら、私の腕前」
「・・・いや・・・」
十分過ぎるほど知っている。
あの時・・・お前は・・・自分の使命のために・・・撃たなかった。
今度は・・・私は・・・私の使命のために・・・撃たねば・・・ならぬ。
「ごめんなさい。疲れているのにおしゃべりしてしまって。晩餐はお部屋でとる?」
「・・・そう、だな。久しぶりに二人で・・・二人きりで」
「え! 嬉しい! それならすぐにアンナに言ってくる」
「ああ、その前に・・・中尉を呼んでくれ」
* * * * *
胸騒ぎがした。
陛下の急なお召しからお帰りになって・・・遠く、何かが落ち、割れた音・・・彼女はクリスマスの飾り付けに子どものように夢中で気づかなかったようだけど。
向けられた銃口。
暗い・・・それは暗い瞳。
お兄様・・・何をお考えです?
陛下は何をお兄様に?
*
中尉やアンナが書斎に出入りし、今夜は二人での晩餐だと言う。
日付が変わる頃・・・響く銃声。
駆けつけた時、彼女は布に包まれていた。
金髪を伝って滴る血、白い指先から滴る血。
悲鳴を上げるレーナが奥へ引きずられて行き、騒然とする中、中尉の操る馬車で・・・吹雪の夜・・・一体どこへ?
彼女を・・・彼女は?
* * * * *
(3)
「アンナ?」
「お目覚めになられましたか、奥様」
「アンナ・・・朝、なの? ここ・・・は? レオニードは?」
「奥様・・・こちらはロセヴォの別荘でございます」
「ロセヴォ?」
「ラドガ湖のほとりの。この季節は・・・ご覧にはなれませんけど」
「どうして? ねえ、レオニードは? レオニードを呼んできて」
「旦那様は、都におられます」
「え? それならどうして私? だって・・・二人で晩餐をとって・・・レコードを聴きながらお茶を・・・」
「奥様・・・旦那様は、しばらくこちらでご静養なさるよう、私にご指示を」
「静養? こんなに元気なのに?」
「こちらを。旦那様からのお手紙ですよ。お茶を用意してまいります」
心配するなって。
例のことで不穏な動きがあって・・・私が身を隠さなければならないって、暫くの間。
迎えに行く、必ず
新年の訪れる前に、必ず・・・だから大人しく
念の為に、銃を用意した
アンナから受け取り、常にそばに置いておくように
あくまで念の為だ
だが、私以外の人間が訪れた時、容赦は要らぬ
例え部下でも、皇室の迎えであっても、だ
私を信じ、待っていろ
必ず迎えに行く
大人しくって、子どもでもないのに。
おかしい、あなた。
それに・・・必ず、必ずって。
かえって心配になる。
でも・・・信じている。
足手まといにならないように、待っている、ここで。
そして・・・自分の身は自分で守る。
*
「それにしても・・・退屈、アンナ。本もあまりないし、外は吹雪で」
「そうでございますね。こちらは夏の別荘ですから。ソリ遊びも宜しゅうございますが、この吹雪では」
「ピアノ。ピアノはないの?」
「ございます、東翼のサロンに。ただ・・・今は改修中で・・・閉じているのです」
「そうなの。残念。あの新譜の練習ができたのに。クリスマスにね、レオニードに贈ろうと思って・・・。そう言えばお屋敷の飾り付けも途中だった。まだだいぶ残っていたのに」
「きっとヴェーラ様が仕上げてくださっていますよ」
「そうよね。ヴェーラなら完璧。私はどうしても手仕事が苦手なの。一所懸命しているのよ。でもね、できたものは・・・。ヴェーラもレーナも、そう、あなたも本当に器用。ねえ、クリスマスまでに、ううん、せめて新年までに戻れるといいわね。ごめんなさいね、アンナ。あなたも家族と離れて。せっかくの季節なのに。都に戻ったら余分にお休みがもらえるよう旦那様にお願いするから我慢してね」
「ありがとうございます、奥様、お気遣ってくださって」
「そう! お菓子を作りましょうよ。お屋敷に持って帰って、みんなに配るの!」
「それはよろしいですわ。材料は沢山ございますから。あの、奥様・・・」
「なあに? どうしたの?」
「あの・・・その前に・・・」
「どうしたの? アンナらしくないわね」
「こちらのお茶を、今日から是非・・・」
「これ? あら、カミツレ? そうよね、この香り」
「はい、ほかにいろいろと加えてあります」
「あ、これ、あの、お薬ね? まだ冬なのに、手に入ったの?」
「はい、モスクワの・・・懇意にしておりますお店に質の良いものが残っておりました」
「嬉しいわ、アンナ、ありがとう、探してくれたのね!」
* * * * *
「レオニード! 迎えに来てくれたのね! 終わったのね?」
「ああ、そうだ、何もかも終わった。悪かった、心配したろう」
「ううん、大丈夫よ、あなたを信じていたもの。無事で、無事でよかった、本当に、あなた。え? これからすぐにモスクワに発つの? 帰らないの?」
「ああ、そうだ。しばらく・・・しばらくアルハンゲリスコエで・・・一緒に新年を迎えよう、ゆっくりと。いや、屋敷中を案内するとなると結構忙しいな。すぐにヴェーラも着くはずだ」
「みんなで新年を迎えるのね!」
「そうだ」
「お菓子を作ったのよ! アンナに教えてもらって、たくさんね」
「そうか、楽しみだな」
「綺麗なのよ、アンナは本当に上手で、敵わないわ」
* * * * *
「あそこに廟を作っているんでしょう?」
「そうだ。春になったら再開する」
「お父様の?」
「ああ、父上、母上、兄上。そして私たちの子と・・・先祖の、な」
「寂しくないように?」
「そうだな、皆でな。父上はことのほかこの地を愛しておられた。そうお望みだったのだ」
「お父様には、一度お会いした記憶しかなくて、それにお母様には・・・お兄様にも。残念だわ、きっとどなたも優しくて素晴らしい方だったでしょうに、あなたみたいに」
「はは、面はゆいな」
「ああ、いつまでもこんな日が続けばいいのに」
「そうか?」
「そうよ。中尉もいないし、軍務にも行かないし、あなたを独占できるもの」
「独占か」
「あなたは・・・どう? 退屈?」
「いや」
「あ、退屈そう! 仕方ないわよね」
「そのようなことはない」
「・・・あの・・・あのね・・・陛下は? お怒りに?」
「皇后陛下は、な。だが、御前会議では進言を聞き入れてくださり、不問に付されるようだ。当面は謹慎となる」
「そう・・・よかったわ、やっぱり陛下はあなたの忠誠をお信じくださったのね」
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