翡翠の歌

08 夕陽




「アンナ、あのお花は? 音楽室に飾っていたあの薄紅色の」
「申し訳ございません、奥様。草花ですのですぐにしおれてしまったのです」
「あまりもたないの?」
「はい。それでやむなく」
「そう、懐かしい花なのに。それならまた摘みに行く。レーナを呼んで頂戴」
「奥様。それが、先ほど見てまいりましたら、もう時季が過ぎてしまったようで、散っておりました」
「え? そうなの・・・」
「今はプシケの像のあたりに白い花が咲いてございます。それではいかがでしょう? あれは長持ちしますし、何より旦那様は白いお花がお好きです」
「そうだったの? 嫌だ、そんなことも忘れているなんて、私、情けない。それなら絶対に白い花にしなくちゃ。あら? でもアブラムはどの花でもお好きだって・・・?」
「男のアブラムには分からないこともございますよ」
「そう、そうよね、あなたが言うなら間違いないもの。じゃあ、すぐ摘んでくる」
「少しお待ちを。コートをお羽織りくださいませ、まだ風が冷とうございます。レーナ! レーナ!」


*     *     *     *     *



珍しく一日レオニードがお屋敷にいる。
だからと言ってのんびりしているわけではなく、書斎に籠って次々と齎される電報や伝令に慌ただしく対応している、午餐もそこそこに。
大丈夫なの?  身体は?
心配だけれど何の役にも立たないのに余計なことを言って煩わすのは嫌だから、書斎にも白い花を飾り、サロンでピアノを弾いている、彼が好きな曲を・・・。

彼は・・・多分・・・きっと・・・苦しんでいる・・・。
これほどまでに尽くしても皇帝陛下は疎んじられている、自分の利益しか興味のない佞臣の讒言を信じて。
物心ついた時から陛下の御為のみに尽くしてきたのに・・・。





お父様・・・お父様・・・。
なぜロシアの皇帝陛下に尽くそうと・・・思われたのですか?
ドイツ人なのに・・・ドイツの貴族なのに・・・敵国の・・・。

私は・・・レオニードと同じ、ね。
幼い時から訳もわからず、そう、ドイツとロシアの区別もつかない頃から皇帝陛下に忠誠を誓わされてきた。
でも、人生をかけても命をかけても、陛下は私に一顧も与えてくださらない。

だから!
今はレオニードの為に尽くします。
引いてはそれが陛下の御為になるでしょう?





もうすぐ夕方になる・・・レオニードと話をしたい、少しだけでいいから・・・同じお屋敷にいるのに・・・。
そう思っていると気持ちが通じたのね、彼が入ってきた、平服にコートを羽織って。


「散歩に行かぬか?」
「え?  ええ、勿論!」


私もすぐにコートを手にし、彼と馬車に乗り、お屋敷の前の運河に沿ってまずは冬宮のほうへ向かった。
そしてネフスキー大通りからツーリスカヤ通りに入って、スモーリヌィ修道院を見ながら橋を渡った。
彼が思い立ったように合図して馬車を降り、寄り添って歩き出した。
馬車でも車でもなく歩いてなんて、これが初めて。
当然、少し離れてこれも平服の部下たちが警護についてきているけれど。


「レオニード、待って、もう少しゆっくり・・・お願い!」
「ああ、すまぬ、悪かった」


きっと彼は、本当はもっと速く歩いているのだろう、冬宮でも陸軍省でも、戦場でも。
私も子どもの頃はしょっちゅう乗馬もしたし、一人で走り回っていたような気がする、寂しさを紛らわせるために。
このところはお屋敷に籠りっぱなしで・・・少し体力をつけないと。





「ああ、あの突堤ね!」
「そうだ、久しぶりだろう?」
「本当に久しぶり!」


右はペトロパブロフスク要塞、左は冬宮、そしてその先にあの教会が。
もうすぐ夕陽がかかって尖塔が輝き出す、一瞬だけよ、見逃さないようにしないと、ね。

二人でじっと見つめた、その瞬間を。
ああ、変わらない、あの輝き!  最後に見たのはもう十年以上も前になるのに。
あの春の終わりの日、あなたが通りがかって一緒に見た。

私にはそれからの記憶がない。
あなたは話してくれた、ドイツに帰って、でもすぐに戻ってあなたと結婚したと。
それならもう十年も夫婦でいるのに、私にあるのは四年にも満たない記憶だけ。
残念だわ、あなたとの思い出が・・・。


「なぜ泣いている?」
「え?  泣いてなんか・・・」
「嘘をつくな」
「だって・・・覚えていないから・・・初めの頃のこと・・・」
「今と同じだ・・・二人で・・・仲良くな・・・暮らしていたのだ」
「わかっている、勿論、そうよね。でも、どんな話をしたかとか、どこへ出かけたかとか思い出したいの、やっぱり」
「・・・あまり考えると、また具合が悪くなるぞ。さあ帰ろう、ヴェーラが待っている」





馬車へ戻るために、彼と腕を組んで歩いていると、何か妙な気分がしてきた。


「どうした?」
「いえ・・・前にも・・・こうやってお散歩したかしら?」
「?  何故だ?」
「前に、雪の頃、二人で歩いたように思うの。氷に足を取られないように気をつけながら」
「そうだ、な。そのようなことも・・・あったかも知れぬな」


彼女は私を愛している。
それは奴への愛とは異なる、私の求めてやまぬ愛とは。
仔馬が母馬に絶対の信頼を持つような、そんな愛だ。
伯爵を慕う想いと同じ。
もし再び奴が眼前に現れれば、霧のように消え去ってしまうだろう。
だが満足しよう、充分だ。



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