翡翠の歌

06 手紙




「あれは・・・どこの湖だったのかしら。それとも池? 川? いいえ、流れはなかったのだから川ではないわね。川だったら助からなかったもの・・・」
「・・・何だ?」
「ほら、二人でボートに乗って・・・ひっくり返ってしまったことがあったでしょう?」
「・・・そう、だな」
「あなたが何か・・・変なことを言ったから驚いて、私、多分立ち上がってしまったのね、きっと」
「・・・そうだ。お前はいつも無茶なことをする」
「ごめんなさい・・・でも、あれはどこ?」
「あれは・・・アルハンゲリスコエの庭園の池だ。大きくてな、屋敷全体が見渡せる。島には東屋もある。そこへ渡るのにボートを使ったのだ」
「アルハンゲリスコエ・・・」
「戦争が終わったら、また連れて行ってやる。そうだ、赤のサロンにその風景画がある、観てみるか?」
「そうね、もっと何か思い出せるかもしれない」


*     *     *     *     *



あ!


「どうした? 何をしている?」
「お帰りなさい。ごめんなさい、出迎えなくて。アンナが気を利かせたのね」
「うん?」
「小鳥たちにね、パンをあげているの。テラスの手摺に置いて、ここからそうっと眺めているの」
「・・・この寒空だ。さぞや感謝しているだろう」
「そうなの。勝手に私が思っているだけだけれど、時々嬉しそうにこっちを見るの」
「そうか」
「本当はね、もっと近くに・・・窓辺に置きたいの、よく見えるように。でも・・・アンナが・・・もし部屋に入ってきてしまったら困るのですって。何でも・・・」
「何でも?」
「お腹の赤ちゃんを一緒に空に連れて行ってしまう? そんな言い伝えがあるの?」
「・・・数多いものの中の一つだ。気にすることではない」
「そうよね、きっと。でもアンナが嫌がることはしたくないから、あの手摺でいいの。鳥たちも遠慮なく食べられるしね。あのね、フランクフルトでもパリでも・・・行く先々でいつも窓枠にね、置いてあげた。もちろんフランクフルトでは貴重なパンくずだったけれど。お話しするの、いろんな言葉で。ねえ、レオニード、誰かの、何かの役に立つのって、小さなことでも嬉しいわ」
「そうだな・・・だが・・・まさか部屋中にパンを隠してはおらぬだろうな?」
「え? どうして? あのパンはさっきアンナにもらったわ。下げたものの中から持ってきてって」
「それならばよい。部屋がネズミの巣にならずにすむ。さあ、私たちもお茶にしよう」


こんなささやかな喜びも与えられなかったのか、私は。


*     *     *     *     *



別邸から移した彼女の持ち物。
記憶を取り戻すきっかけになりかねぬので、衣類や楽譜も全て処分し新しく誂えさせた。

宝石は・・・それぞれに思い出があるからな・・・苦いもののほうが多いが。
だが、過去も含めて今のお前を愛している。
キャビネットの奥深くに置いておき、様子を見て渡そう。

身につけた姿を見てみたいものだ。
元々こういうものに興味が薄く、まして私からの贈り物ということでほとんどは一瞥し、形ばかりの礼を言っただけだったが、今は違うだろうからな。
夜会に連れていってもいいが・・・あまり注目されるのも厄介か。





ラテン語の小さな聖書・・・彼女がドイツから持ってきた。
開くと、以前と同じように乾いた花が挟んである。
そのまま棚に戻そうとして、裏表紙あたりの手触りに違和感を覚えた。
妙な厚みだ・・・別邸に持って行った時には・・・なかった。
案の定、小さな紙が二枚、折り畳まれて潜んでいた。

一枚には地図、あの屋敷からモスクワ駅への道筋がかなり正確に描かれていた。
記憶を頼りにか幾度も修正した跡がある。
本当に、お前は・・・。

そして・・・もう一枚には・・・小さな文字が一面にぎっしりと・・・同じように、幾度も付け加えて書き込まれている。
平易なドイツ語だ、私にもおおよそのことはわかる、不愉快なことに。



マフカと呼ばれているあなたへ

このまま狂ってしまうかもしれないのでこれを書き記します。あなたが絶対に忘れてはならないことを。

あなたの本当の名前はユリア・アプフェル。お母様はレナーテ。別の名前はユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤ。ドイツ・バイエルン・レーゲンスブルクの貴族のうちで、お姉様はマリア・バルバラ。

アラバスターの小箱の中にあるターラーはお母様の形見、小さな書付けはあなたが守ってきた鍵の在り処を書いたもの。あれが行方不明になるとお姉様に迷惑がかかる。



レオニードはあなたを監禁している敵。汚らわしい悪魔、けだもの。でもどうか彼の言う通りにして。クラウスの命を守るために。どんなに辛くても苦しくても。きっとたくさんぶたれる、床にも叩きつけられる。娼婦って罵られる。彼はね、身分の高い奥様に頭が上がらないの。だからあなたで憂さを晴らしているの。思い通りにできる人形でね。

いい? 彼といる時は目を逸らしたり瞑ったりしてはだめ。クラウスの名前を言っても泣いてもだめ。何かもらったら無理にでも微笑んでお礼を言うの。彼が期待している通りに振舞うのよ、とても難しいけれど。もし彼の機嫌が悪くなったら、それがどんなに理不尽なことでも、ただ謝って。ごめんなさいって、許してって、縋りついて謝るのよ。

それからね、お屋敷にいる人を誰も信用してはだめ。特にアンナ。あの人は何でも告げ口する、気をつけて。

乱暴で冷酷だけれど単純な男なの。女の体が好きなのよ、ただそれだけあればいいの。だから好きなようにさせてやって。唇や指が蛇のように体中を這い回っても我慢するの。そうすれば満足して帰るわ。そしてクラウスを守ってくれる。あなたを抱いた代金を看守に渡すのよ。だから捨てられないように殺されないように、おとなしく従っていて。お母様のように他の妾に乗り換えられないように。



あなたの恋人のクラウス・ゾンマーシュミットはロシア人。アレクセイ・ミハイロフ。あなたはクラウスを探しにロシアに来たの。亜麻色の髪、琥珀の瞳。バイオリニスト。聖ゼバスチアン音楽学校で一緒に学んだ。オルフェウスの窓で出会った運命の恋人よ。こうして考えているだけで胸が熱くなる。素敵な人なの。たった一年と少ししか一緒にいられなかったけれど、それで十分よ。あなたも会えばわかる。そう、その時正気に戻れるかもしれない。それほど素敵な人なの。暖かくて力強くて、やんちゃで、でも物静かで、素晴らしいバイオリン。彼の周りにはいつもたくさんの友人がいた。なのに彼は、そう、いつもどこか寂しそうだった。

その理由はね、お兄様を殺されて亡命していた非合法の活動家だから。帰国して逮捕されて今はシベリアの監獄にいるの。きっとひどい所よ。あなたが守ってあげないと死んでしまう。

挿んであるミモザは、彼と別れたミュンヘンのお屋敷に沢山咲いていたの。もっともっと黄色で綺麗だったけれど。



そしてもし・・・レオニードが死んだって知らせがあったら・・・トルコの象嵌の箱に乗馬手袋がある。それをはめて飾り戸棚のガラスを割ってアンナたちを殺して、宝石を持って逃げるのよ。あの男にねだったの、売りやすい小さいものをね。なのにあの男ったら素直になったって喜んだのよ、馬鹿みたい。殺す方法はね、後ろに回って・・・大丈夫、あなたの体が覚えているわ。そして地図を頼りにモスクワ駅に行って。クラウスはアカトゥイって言うシベリアの監獄にいるの。何とか辿り着いて。

あなたがクラウスに会えることを心から祈っている。

でもね、会えても遠くから見るだけよ。触れてはだめ。彼まで汚れてしまう。彼が無事ならあなたの人生には十分な価値があったのよ。だから会えたら、もうそれで終わりにしましょう。



ああ、それから、クラウスのバイオリン、レオニードが隠してしまったの。どこにあるのかわからない。どうやって取り戻したらいいのかわからない。飽きて捨てられる前に、お願いしてみて。よほど機嫌のいい時に。

忘れないで。レオニードにとって人形でも娼婦でも、あなたは人間なのよ。クラウスを愛している一人の人間なの。どんなに権力のあるあの男にも心までは奪えやしない。忘れないで。



聖書共々、枯れた花もこの手紙も暖炉に焼べてしまった。
そして・・・屋敷に数本あった忌々しい木々も切り倒した。
まだ花が咲く前で何よりだ。

私はとっくの昔に地獄に落ちているのだ、今更何だと言うのだろう。


*     *     *     *     *



「あ、レオニード!」
「これは、閣下。では今日はこれで」
「いや、よい。そのまま続けてくれ。様子を見に来ただけだ」
「は! 恐れ入ります」
「でも・・・恥ずかしいわ」
「まあ、よいではないか、たまには・・・それは・・・」
「え? 少し前に新調したのよ」
「いや、その、首飾り」
「綺麗でしょう? 黄色がとても素敵。細工も凝っていて」
「・・・よく・・・似合っているが・・・他のものにしてくれぬか?」 
「え? どうして? これも・・・あなたからいただいたもの・・・でしょう?」
「そうだ。だが・・・今更で悪いが」
「? わかったわ。それならこれから選び直して」





「怒ったのか?」
「・・・ううん・・・でも・・・だって・・・あのドレスに似合うし・・・好きな色だったのに」
「すまぬ。今回は・・・私の我儘を聞いてくれ」
「嫌い、なの? あの首飾り。でも・・・あなたが贈ってくれたのでしょう?」
「そうだが・・・」
「・・・変、よね? あなたが言いよどむなんて、初めて。いいわ、よくわからないけれど、許してあげる! 大事な旦那様だから!」
「お前には敵わんな。それで・・・どれを選んだのだ?」
「あのね、大きなサファイアの・・・えっと・・・」
「タタールの星、か?」
「ええ、そう! そうよ! アンナがあのドレスには青も似合うから是非って。それに、家宝? とても大事なものなのですってね」
「そうだ。祖父上が祖母上に贈られたものだ。代々の・・・女主人が身に着ける」
「え? そうだ! お母様の肖像画! どこかで見たことがあるって・・・。私・・・着けてもいいの? そんな大切な・・・」
「何を言っているのだ、まったく。お前以外に誰がいると言うのだ」
「・・・それなら・・・あれは、結婚の時にいただいたのね、私・・・」
「そうだ、な。よく似合っていた」
「・・・覚えて、いないの・・・何も・・・」
「些細な話だ。あれがなくとも、お前は私の妻だからな。さあ、休もう」





すぐさま宝飾業者に引き取らせ解体するよう命じた。

母との思い出の花・・・そう言って早春はずっと居間に飾らせていた。
いつもならば私室に引き籠っているが、花がある間はそこで過ごしていた。

そして時季が終わると残念がり、慰めになればとトパーズとエメラルドで作らせた・・・いつになく感謝されたものだが・・・。

真相を知った今・・・手元に置き身につけること、まして肖像画に残すことなど・・・許さぬ。
例え嫉妬深い愚かな男と笑われようとも。





↑画像をクリック