翡翠の歌

04 休息




(1)



子どもを彼女の姉に託して帰国した。

彼女は意識が朦朧としている状態でお兄様に抱きかかえられ、改宗と婚姻の儀式が行われ、侯爵の妻となり私たちの義姉になった。

お兄様も、これ以上、薬を与え続けるわけにもいかず中止された。
次第に切れてきてうなされるようになった。

もう数カ月経つというのに、ずっと熱が高く時々痙攣も起こす。
傷口もなかなか塞がらず、悪露も治まらない。
食事は・・・強して飲まされる薄いスープだけ・・・これでは・・・。

でも今、意識が戻って子どもが遠くへやられてしまったと知ったら、アレクセイ・ミハイロフが生死不明と知ったら、どうなってしまうだろう。





けれど残酷なことに、それは無用の心配だった。
ようやく目覚めた時、彼女は記憶をなくしていた。
残っているのは、子どもの頃ドイツに帰国する直前までの記憶、それと、あの・・・流産のこと。
今回の出産と混同しているようだった。

お兄様はとても驚かれたけれど、一方で安堵されたようだった。
彼女には不慮の事故にあったこと、それが原因で記憶をなくしたこと、そして自分の妻であることを告げ、優しく穏やかに接している。
長い投薬のせいか高熱が続いたせいか、いずれにしても意識が混濁しているようで、深く考えることができない様子だった。
夫であると言われたお兄様を全てにおいて信頼し、疑いを持つことはなかった。

あまりに波乱の半生を哀れんで、神様が休息の日々を与えたのかもしれない。


*     *     *     *     *



次第に回復すると、窓際に座って飽きもせず中庭を眺めていた。
変わりばえのない風景・・・彼女の瞳には何が映っているのだろう。
そして特に禁じられているわけではないのに、部屋から出ようとしなかった。
長い監禁生活が甦ってしまったのだろうか。
本や新聞も用意したが、まるで興味がないようで触れることもなかった・・・かつてはあんなに熱心に読んでいたのに。
ただ、暇を見つけては訪れるお兄様に寄り添って座り、静かに話していた。
時々は静かな曲を弾いていた、お兄様に望まれて。





国情は風雲急を告げ、お兄様の心痛は察するに余りある。
激務が続き、思うようにならない政治情勢や侮辱的な扱いに疲れ切っておられる様子だった。
彼女がいなければ、さすがのお兄様もやり通せなかったかもしれない。

人の出入りや街の喧騒から隔離された離れの一室でそんな静かな一年を過ごした後、母屋に移り、亡命までの三年を暮らした。
いつ記憶が戻るか心配だったが、幸いなことにその日は訪れなかった。


*     *      *     *     *



(2)



以前より酷い修羅場になると覚悟していた。
それでも無論、救出を躊躇することなどなかったが、政情不安な下での任務の毎日で自分でもどこまで耐えられるかわからなかった。

記憶喪失・・・。

ドイツ帰国以降の記憶がすっかり消えてしまった。
アレクセイ・ミハイロフもクラウス・ゾンマーシュミットも、その存在が全て・・・。
狂気の淵に沈む一歩手前で、神が彼女に与えた居場所なのか。

彼女の心からあの男を消し去ることは、六年前に再会した時からの強い強い願望だった。
私だけを見て欲しかった、想って欲しかった。
奴に向けるような強い光でなくていい、例え今のように穏やかな光でも、いや、もっと微かな光であっても・・・独占したかった。
私には自分の本心がわかっていなかった、認めたくなかった。

あの頃は叶わぬ望みに苛立ち、その理不尽な怒りをお前に向け、愚かなことばかりしていた。
ますます遠くなっていくのに、他に方法がわからなかった。
もっとも、どのように接していたとしてもお前の心から奴が消えることはなかっただろうが、あそこまで硬い殻に閉じこもらせることもなかったろうに。





かつてない動乱と屈辱の日々ではあったが、人生で初めて心から安らげた至宝の時間でもあった。
お前は私に寄り添い、髪や腰に回した私の手を拒むことなく静かに微笑み、時として歌うような明るい笑い声をあげ、その日あった些細なことや幼い頃の思い出を話してくれる。
そこには鍵の呪縛はあっても、奴は存在しない。

何しろお前の最後の記憶は、ネヴァ川の突堤で私に会った時のもの。
あの美しい記憶を、ようやく二人で共有することができた。
どこにも行きたがらず、せいぜい庭の散策で満足し、以前のように厳しい監視態勢を取る必要もなければ、逃げるなと言い聞かせる必要もない。

臥所でもそうだ。
私をまっすぐ見上げ、愛撫に熱い吐息で応え私を受け入れてくれる。
そんなお前の体に無数にある傷が痛々しく、全てに口づけして消してやりたい。


*     *     *     *     *



「許していると言ってくれ」
「なあに?」
「許していると」
「私があなたを?」
「・・・お前は覚えていないが、以前、喧嘩をしたのだ。全て私が悪いのにお前に辛くあたってしまった、惨いことをしてしまった。悪かった、本当に。だから、言ってくれ、頼む」


お前は奇妙な申し出にきょとんとしながらも、立ち上がって私の前で屈み込み、頭を胸に引き寄せ、言った。


「・・・許しているわ」


彼女の手を髪に感じながら、甘やかな匂いを胸一杯に吸い込みながら、私も抱き締め、ありがとう、と応えた。

記憶のないお前からこのような言葉を引き出したところで、結局のところ何の許しにもならぬが、もう時間がない。
こうして共にいられるのも、あと僅かだ。
国交と治安が辛うじて保たれているうちに、ヴェーラと共に亡命させなくてはならぬ。





↑画像をクリック