翡翠の歌

11 亡命




(1)



十二月の終わり、ようやく我が帝国の厄災の根源、ラスプーチンを暗殺し、私への陛下の裁可が下り、謹慎していた。
そのお陰と言うのは憚れるが、本来ならば行事の続く季節を家族水入らずで過ごすことができた。
遅きに失したかも知れぬが、私は私のやるべきことを、これからを考えながら穏やかに年の始めを迎えた。
恐らくは人生最後の聖夜と新年・・・それを最愛の者たちと過ごす・・・これが天からの褒美でなくて何であろうか。

しかし・・・別れの時だ。


*     *     *     *     *



「亡命?」
「・・・そうだ。既に十分な財産を各国に送ってある。最低限の支度をし、ヴェーラと共に明後日出国しろ」
「あなたは?  あなたは?」
「・・・私には役目がある」
「嫌!  一緒にいる!  離れたりしない!」
「・・・駄目だ、お前にも使命があるだろう」
「だってまだ陛下はロシアにいらっしゃる!」
「今を逃すとスイスへ行けなくなる。国内情勢も戦況も悪化の一方だ。猶予はない。国外で陛下をお待ちしろ」
「嫌!  あなたと一緒でなければ!」
「頼む、聞き分けてくれ」
「私が嫌いになったの? そばにいてくれって、それだけでいいって、それが私の役目だって言っていたでしょう? 絶対に嫌!」


押し問答が延々と続き、やがて泣き疲れて私の腕の中で気を失うかのようにして眠ってしまった。
その華奢な身体を抱きながら、考えることは尽きぬ。

二十三の時、初めて会った、任務の一環として。
その時からお前は私の心の一番深いところを占めてきた、知らず知らずのうちに。

本当のお前は今でもあいつの、アレクセイ・ミハイロフのものだ。
奴は生きているぞ、ボリシェビキの幹部となって。
だがお前を、そしてお前たちの子を死んだと思っているだろう。
無論、教えてやる気はない・・・もし運命が導くならいずれ再会するがよい。

あの時の、この屋敷で会わせた時のあの瞳・・・。
あいつのことを語った時の、思い浮かべた時のあの瞳・・・。
碧く強い光。
遂に私に向けられることはなかったな。

だがこの四年、私には奇跡同然の日々だった。
お前の碧い瞳には私しか映っておらぬ。

思えばお前は生まれる前から与り知らぬ運命でこのロシアと、我が侯爵家と結びつけられていたのだな。
お前は認めぬだろうが私にとっては、ドイツでの奴との出会いですら、私の元へ呼び寄せるための運命と思いたい。

最初の頃、本当に惨いことをした。
どのようにすればよいか、わからなかった。
いや、そうすればよいと、それで済むと浅はかに思い込んでいた。

いつか記憶を取り戻した時、どれほど恨んでもよい。
だが、あと一日、別れの時まではこのままで、このままでいてくれ。





「役目を果たせ、お前の役目を!」


幾度となく繰り返し、幼い時からお前の脳裏に刻み込まれているはずの、あの"役目"を呼び覚ます。
亡命させる為には、それしかない。
そうでなければ、お前の命を助けることができぬ。

命。

私と同じようにお前もこだわっておらぬ。
そして私と同じように手は血に塗れている。

だが私にはお前の命は何物にも代え難いのだ。
その為に今まですべきことをやってきた。
全てはお前を守る為だった。
ここで死なせるわけにはいかぬ。

無論・・・もう一人の私は、お前と最期までと願っている。
これから数ヶ月だろうか、残された時間は。
だがその間も共に過ごせたら・・・そう思う。
・・・しかし、駄目だ。





「伯爵が明日ニコラエフスキー駅に迎えに来る。共にスイスに行くのだ。そして鍵を引き出し陛下の亡命に備えろ」
「・・・陛下の亡命に・・・」
「お前の役目だ。忘れたのか?」
「でもあなたは?  あなたは?」
「・・・私は私の役目を果たす。陛下の御為だ」
「陛下の・・・」
「そうだ、陛下の御為だ。お前も私も幼い頃からずっとそれを第一に考えてきたはずだ、皇帝陛下に奉ずることを。お前は私の同志なのだ」
「同志?」
「そうだ、どこにいてもそれで繋がっている。どれほど離れていても」


幼い頃から絶えず刷り込まれてきた信念・・・。
己の中から発したものではなくとも、人生を支配する、死さえも。





納得したかはわからぬ。
だがお前はヴェーラと支度を進めている。
レーナも連れて行けば心丈夫だろう。

二人で・・・生きていってほしい。
無論これから起きるロシアの混迷は国外にいても同胞人に影響、そう、悪影響を及ぼすだろう。
可能な限りの財産を国外に送った。
豊かに暮らせはするだろうが、状況によってはかえって仇となるかも知れぬ。

最後の、私の卑怯、なのか。
私はこの地で死ぬ、いずれ・・・遠からず。
だがお前たちは生きていく、予想もつかぬ困難の中で。
それでも・・・生きてほしいのだ。


*     *     *     *     *



(2)



晩餐は・・・最後の晩餐は・・・三人とも何も話さなかった、いや、話せなかった。
明朝、二人はこの都を発つ。
パリにヴェーラを残し伯爵夫妻とスイスへ向かう。

国を捨て、根無し草となる・・・。
辛いことだ・・・私にはできぬ。
だがそれでも生きてほしい、生き抜いてほしい。
最後の我儘を聞いてくれ。

サロンから聞こえてくる・・・古傷に痛む腕で弾くピアノ。
兄妹の最後の時間を作ってくれているのだ。
銃や刃物の傷・・・そして私が刻んだ傷・・・。
思うようには動かなくなった指に時に苛立つこともあったが、私にとっては天上の響きに他ならぬ。





ヴェーラ。
顔立ちも気質もよく似た妹。
お前に支えられ、これまで自分らしく生きてこられた、深く感謝する。
彼女をも支えてくれた、複雑な心境だっただろうが。
だが、お前の恋人を殺したことに後悔はない、あいつは私たちを脅かす敵だった。
軍の情報を得る為、帝政を転覆させる為、お前の心を利用したのだ、私の無垢な妹の心を。
お前がどう自分に納得させているのかはわからぬ。
それでも想っているのか許しているのか、私を恨んでいるのか。
しかし、もうこの世でその答えを聞くことはない。





ヴェーラが退室し、暫らくして入ってきた。
ターコイズブルーのドレスを纏い、ルビーの首飾りをして。
あの舞踏会での姿そのままだ、最初で最後の舞踏会。
抱き締めるしかないではないか、このような、このような姿をされては・・・。

だが全く無粋だが、確かめておかねばならぬことがある。


「スイス銀行の貸し金庫は一つか?」
「・・・いえ」


思った通りだ。


「どう、違う?」
「偽物も用意してある。本物の番号は私以外は知らない。そう、あの紙片にも書いたわね。もし私が脅されて追いつめられたら偽物を教えるの。それを開けたら・・・知らせが行く」


アルフレートは疑っていたのだ。
それ故、遠ざけていたのだ。


「あの伯爵を信用するな」
「え?  何故?」
「何故でも、だ」
「だって、私のお父様みたいな人よ、とっても優しい」
「それでも、だ」
「・・・わかった、レオニード、あなたを信じる」
「・・・隠し財産を頼む、皇帝陛下の御為に」
「大丈夫よ、大丈夫。ちゃんとやり遂げる・・・でもね、でもレオニード、もし、もしもよ・・・」
「何だ?」
「もしも皇帝陛下が・・・御一家のどなたも亡命されなかったら?  できなかったら?  どうすればいいの?」


そうだ、十分あり得る。
亡命・・・そう容易なことではないからな。


「その時は他の皇族方に、皇太后様や大公殿下に」
「皇太后様・・・。もうお年よ? 大公殿下は大勢いらっしゃる。どなたに?」
「・・・キリル殿下に」
「もしキリル殿下も亡命できなかったら?」
「・・・お前が決めてよい、自分の考えで。お前ならちゃんと判断できるだろう」
「どう判断するの?  ねえ! どなたに? あの財産でたくさんの人の人生が変わってしまうのよ!」
「国などと言うものは捉えどころがない。まして未来など、私にも予想はできぬ。だからその時は・・・お前の為になることを考えろ、お前やヴェーラの為になるように行動しろ」
「私の?」
「そうだ、お前に任せる。お前にはその資格がある」
「私の・・・わかった、そうする、必ず」





もうこれ以上は無粋なことはよい、最後の夜だ、一秒も惜しい。
彼女も私も乱れた、これまでにないくらいに・・・。
お前の爪が食い込む感覚・・・。
お前が私を抱き締める感覚・・・。


愛している
幸せだった


私の名と共に繰り返す。


愛している
幸せだった


私も繰り返す。


本当はこの幾倍も謝罪せねばならぬが、今はできぬ、お前が"何故"と問うから。
あとしばらくは、このままで・・・記憶を取り戻さぬままでいてほしいから。


*     *     *     *     *



(3)



求めあったまま、いつの間にか眠りに落ちてしまった。

最後の朝・・・最後の目覚め・・・。
このまま目を瞑っていれば、"最後"は訪れないのだろうか?

でも、見たい。
焼き付けておかなければ・・・。

レオニードは目の前にいる、あの漆黒の瞳を隠して。
黒い髪、がっしりとした体・・・。
もう、お別れなのね、永遠に・・・。

気づいた彼が苦笑する、何を見ていた?  と。


「分かり切ったことでしょう? 私の旦那様、大事な・・・」


一瞬、悲しい表情が掠め、そして、にっこり微笑んで抱き締めてくれた。


「いいでしょう?  もう一度だけ・・・」
「言われなくともそのつもりだ・・・」


*     *     *     *     *



支度を整え使用人たちと一通り挨拶を交わした後、私たちはレオニードの前に立った。


「お元気で、さようなら、お兄様」
「さようなら、レオニード」
「元気で」


まずヴェーラと、そして私と抱擁してくれた。
とうとう来てしまった、この時が。
思わず口をついて出た、幾度目もの問いが・・・願いが・・・。


「ここに戻ってはいけないの?  あれは伯爵に・・・」


全てを言う前に口づけで封じられた。


「私を・・・迷わさないでくれ・・・」


ああ、あなたは・・・私が生きることを望んでいるのね?  一緒に死ぬことではなく・・・。
皇帝陛下の御為だけでなく、私が生き続けることを。

この先に待つ運命が何なのか、まったくわからないけれど、あなたが望むのなら私は従います。
幼い頃から唱えてきた言葉を、これまでで一番真摯な気持ちで彼に誓った。


「大ロシア帝国の繁栄の為に、ニコライ二世陛下の栄光の御為に・・・そして・・・ユスーポフ侯爵家の名誉の為に・・・身命を捧げます」


敬礼した、初めての・・・。
ゆっくりと答礼してくれた。
私たちは・・・同志、なのよね。





横づけされた車・・・伯爵の待つニコラエフスキー駅へ。
サンクト・ペテルブルクから、ヘルシンキ、オスロへ、そしてロンドン、ドーバーからカレー、パリへ、スイスへ。
戦時下、客船への無差別攻撃も伝えられる中、行きつけるかどうか・・・いいえ、気を強く持って正しい判断を下して切り抜けていかなければ・・・もうレオニードに頼ることはできないのだから。


愛しています、レオニード!
これまでも、これからも!


涙を拭い、意を決し、彼を見た。
彼は何故だか思いがけず息を呑み、静かに微笑んだ。

さようなら、永遠に。


*     *     *     *     *



(4)



あの瞳・・・最後に私を見た瞳・・・私の追い求めた、あの強い光を放つ碧い碧い瞳だった。

奴にはいともたやすく向けたあの瞳、眼前にした時のみでなく、想っただけで見せたあの瞳。
記憶を失い私しか見ておらぬ時でも、決して与えてくれなかったあの瞳。

生きてきてよかった・・・不覚にもそう思った。

ありがとう。
感謝している、私の人生に関わってくれたことを。
もしお前がいなければ、この世に生まれた意味の半分も知ることなく死んでいったことだろう。
お前のお陰で私は、私の中に実は潜んでいた情熱を直向きさを、弱さも愚かさも・・・知ることができた、そして、苦しみも。

お前はどうだったのか?  私と出会って・・・。
味あわなくてもよい苦しみを・・・与えたか・・・私は。
あの春の日、突堤で再会しなければお前は死んでいた、暴動に巻き込まれて。
そのほうがよかったか?  あの男への純潔を守って死んだほうがよかったか?

わからぬ、私には・・・おそらく、お前にも。

最後に言ってくれた、幸せだったと。
あの夜の・・・身勝手な誓いを果たせたと・・・思ってよいか?





護衛した部下から報告が入った、国境へ向かう列車に乗ったと。
三人は伯爵夫妻と合流し、家族と小間使いという偽造旅券でスイスに向かった。

十年近く親子同然に暮らしたのだ、信じ切っているのもわかる。
しかしあの男は信用ならん、私の直感がそう教える。
だがもう守ってやることはできぬ、お前自身で自分を守れ。

私は任務に戻る。
反逆者どもにこの国を、祖国を渡すわけにはいかぬ、決して。




(第四部終わり)






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