翡翠の歌

05 微睡み




(1)



幸い、奴は気づいてないようです。会ったのは一度、懲罰房の暗がりで小さな鉄格子の窓越し、それもほんの数分でしたから。


*     *     *     *     *



「母屋へ?」
「そうだ、体調も大分戻ったろう?」
「ええ、それは・・・。でも・・・私、ここにいてはいけないの?」
「いけないというわけではない。お前の本来の部屋に戻ってほしいだけだ」
「本来の・・・でも・・・覚えていないの」
「構わぬ、そのようなことは。何しろ内装もすっかり変えさせたからな。見違えるようだぞ、お前に相応しい明るく落ち着いた雰囲気に仕上がった」
「・・・」
「どうした?  嫌、なのか?」
「いえ・・・何か・・・怖い・・・の」
「馬鹿なことを。お前の家だ」
「そうね・・・そうよね・・・そうなのだけれど・・・私、ここにいては駄目?」


レオニードはぎゅっと強く抱き締めてくれた。


「私の上の部屋でも・・・嫌なのか?」
「え?  あなたの上の部屋?」
「そうだ。私の書斎があって、その隣が居間と寝室、その上がお前の寝室だ。内部の階段で行き来できる。嫌なら食事も部屋でとればよい。誰にも会う必要はない」
「それなら・・・あなたの近くなら・・・行きたいわ。いいえ、行くわ。ごめんなさい、我儘を言って」
「いや・・・よいのだ、些細なことだ」





初めて・・・入る母屋。
離れが所詮離れだったのだとわかる豪華で荘厳な造り。
私、本当にここに住んでいたの?
大階段を上がって自分のだと言われた部屋に入るまでずっと、いいえ、入ってもレオニードにしがみついていた、子どもみたいに。
部屋は・・・空色の壁に薔薇色のカーテン、家具は濃い茜色の華奢なマホガニーやクリーム色のポプラ、大小の風景画、孔雀石の花瓶、ミルク色の陶器の時計、それに、白いピアノ。


「どうだ、気に入ったか?」


ずっとしがみついたままの私に苦笑しながら声をかけてきた。


「ええ、もちろんよ、綺麗なお部屋ね、広くて・・・」


そこへお茶を持って、二人が入ってきた。


「執事のピョートル・ベスーホフ、女中頭のインナ・ウリヤーノヴァだ」
「奥様、お戻りをお待ち申し上げておりました。精一杯お仕え致します、何なりとお申しつけください」


私は一層彼にしがみついてしまった。
ちゃんとした奥様なら、どんなふうに振舞ったのだろう?
私、ここで暮らしていけるのかしら。





お茶を淹れて二人が出て行ったあとも暫く私はそのままだったらしい。
彼が、冷めてしまうぞ、と笑いながら一緒に長椅子に座るまで。


「お前の世話はこれまで通りアンナとレーナがする、変わらぬだろう?」
「ええ、そうね、そうよね」
「家のことはヴェーラに任せておけばよい、万事うまくやる」
「ええ、私にはできそうにないもの、とても・・・でも・・・」
「でも?  何だ?」
「でも・・・私・・・何も、役に立たないのね、あなたの」
「何を言い出すかと思えば!  お前はここにいればそれでよいのだ。それが私の為だ」
「そうなの?  それだけでいいの?  そんな当たり前のことでいいの?」
「そうだ、それが、な、案外と・・・難しいのだ・・・私がお前に望むのはそれだけだ・・・ここに・・・私のそばに・・・ずっと、いてくれ」


*     *     *     *     *



(2)



離れから迎える為に、半年をかけた工事がようやく終わった。
年内に終わって何よりだ。
まず、封印していた女主人の部屋を全面的に改装した。
アデールの気配が一切残らぬように、そして相応しい雰囲気になるように、壁もカーテンも家具も照明も全て変えた。
そして書斎も図書室も、音楽室もサロンも晩餐室も・・・およそ訪れたことのある部屋は調度品や絵画の置換えを行って、過去を気取らせぬようにした。
東西の塔にも上れぬよう、昇り口に壁を作り、埋めてしまった。

そうとは気づかせぬ穏やかな・・・監禁だ。
記憶を取り戻させぬよう・・・決して。



まあ、身を守るにはあの左遷も良かったのかも知れぬ。
親衛隊では辺境に幾度も遣られ、身辺も騒がしかったからな。
守備隊ならばむしろ都を離れることはできぬ・・・私自らが看守を務めよう。

執事や女中頭にも過去の話を厳禁とし、リュドミールにはヴェーラからよく言い聞かせさせた、それが彼女の幸せの為だ、と。

万事整え、ようやく母屋に連れてきた。
部下や使用人には姿を見せるなと指示しておいたので、怯えさせることなく私室に迎えることができた。



全く・・・別人だ。

記憶を失うとは、人をここまで変えてしまうことなのか・・・恐ろしいほどに従順だ・・・まっすぐ私の瞳を見つめる・・・命じなくとも、奥底まで。

それとも・・・これが本当のお前なのか。
ドイツでの二年が、そして私の仕打ちがお前を変えてしまっていたのか。

そうだ、な。
お前は・・・心が通じれば、全てを預けてくる、飛び込んでくる。
母親にも伯爵にも、あの男にも・・・信奉者のように・・・他の何ものにも惑わされることも妨げられることもなく・・・。

ならば・・・これからここで本来の自分を取り戻すがいい、私のそばで・・・私の信奉者になれ。
私はそれに相応しい人間でいよう。


*     *     *     *     *



(3)



母屋に移って半年が経った。
レオニードがいろいろと配慮してくれているのだろう、思いのほか暮らしやすかった。

外は・・・戦争で大変だというのに・・・故国ドイツとの。

知り合いはいない・・・覚えていないだけなのかしら。
でも帰国して、お父様とお母様が亡くなって・・・すぐにこの都に戻ってきたって教えてくれた・・・知り合いができるひまなんてなかった、きっと。
それに、私、売国奴、よ。
今更愛国心なんておかしい。

レオニードは都の守備隊だから戦争には行かないけれど、戦局が悪くなれば前線に配属されるかもしれない。
早くロシアが勝って、終わってほしい。





食事もレオニードやヴェーラがいる時には別室で一緒にだけれど、一人の時は自室でとるし、ピアノも部屋にあって、書斎へもレオニードの居間へも隠し扉から階段を使うから、しばらくは、ほとんど他のところへ行ったことはなかった、お屋敷の中さえも。
使用人もアンナとレーナとしか顔を合わさなくても用が済む。

でも近頃は料理長のワシーリーや庭師のアブラムたちとも言葉を交わすようになった。
レオニードの食べ物や花の好みを教えてもらうの。
疲れているの、本当に・・・せめて家にいる時は寛いでもらわないと。



そして、この間は新年の休暇で帰京したリュドミールに初めて会った。
もちろん、記憶をなくしてから、だけれど。
明るい髪の巻き毛で兄や姉に似ていないのが不思議だった、それに何故かとてもぎこちない。
思春期、だからなのかしら。





その後は・・・たまには人に会わないと、と、誕生日にパーティーを開いてくれた、私はいいって言ったのだけれど。
でも楽しかった。
気心の知れているらしいカレンたちいとこを数名招いて午餐をとり、サロンでお茶をいただきながら彼らがいろいろな話をするのを聞いていた。
その中で誰かがイザーク・ヴァイスハイトという名を口にした、私も以前そのドイツ人ピアニストのコンサートに行ったことがあると。
話はすぐに最近の芸術事情に移ったのでそれ以上はわからなかったけれど、イザーク・・・聞き覚え・・・ある? ・・・ない?

彼らが帰ってからもずっと考えていたら、どうした? と声を掛けてきた。


「ええ、さっき、イザークっていうピアニストの話が出たでしょう? ・・・私、知っているような気がして」
「それはそうだろう、一度コンサートに行ったからな」
「ううん、それだけではないの、もっとよく知っているって思うの」
「・・・そうか?」
「帰国した時に知り合ったのかも・・・でも・・・本名なのかしらね、聖イザークに全知全能の神・・・」
「別の・・・どこかの芝居の役名ででも見かけたのではないか?  まったく大仰な名前だ」
「そうね、きっと・・・でも・・・」
「以前はよくオペラも芝居も観に行ったものだ。私は芸術には明るくないから、その名がどの劇に登場したかまではわからんが・・・それより、これをお前に。誕生日の贈り物だ」
「え?  私に?  どうして?」
「どうしてって・・・誕生日だからだろう?  いいから開けてみろ」


それは・・・様々な色合いの緑や青のサファイヤやエメラルドで編まれたリボンの形をした首飾りだった。
結び目の部分には一段と大きなエメラルドが。


「綺麗・・・森の色みたい・・・ありがとう、レオニード、嬉しいわ・・・でも・・・いいの?  私なんかに」
「何を!  私の妻だろう、夫として当たり前のことだ」
「でも・・・私にはあなたに贈るものは何もない」
「・・・言っただろう?  そばに・・・いてくれるだけでよいと」
「本当に?」
「本当だ」


*     *     *     *     *



(4)



「あの男の住処が判明しました」
「・・・どこだ」
「第11区、スラヴェンスキー通りの仲間のアパートです」
「・・・様子は?」
「先日のセンナヤ広場の暴動騒ぎで負傷したらしく、今のところ委員会には顔を出していません」
「それを知っている者は?」
「私の他はほんの数名の同志だけです。ですが・・・最近、オフラーナらしき者たちの気配がします」
「・・・警告してやれ。無論お前に嫌疑がかからぬようにな。そして常に居所は押さえておけ」
「はっ!」


記憶が戻った時のための保険だ。
悪運の強い奴め。





「どうした?」
「あ・・・ごめんなさい・・・ただ・・・」
「何だ?」
「ちょっと・・・怖かったの、あなたの・・・瞳が・・・ごめんなさい」
「すまぬ、悪かった。少し・・・疲れたのだろう、それだけだ」
「そうよね、あなたは毎日大変なのに・・・」
「悪かった。さあ、笑顔を見せてくれ。うん? 駄目か?」
「だって・・・私、自分が情けなくて・・・」
「何を言っている! さて、久しぶりに温室に行ってみるか、執事が新しい鳥を仕入れたと言っていたぞ」
「そう! そうなの! ああ、あなたを驚かせようと思っていたのに! 尾がね、すごく長いのよ、それが真っ赤なの! トサカは黄金色なのよ! まるで王冠のようで」
「それは是非とも拝謁の栄に浴さねばな」


*     *     *     *     *



「さて、もう十分だ。今日も素晴らしかった。疲れただろう、お茶にしよう。ん?」
「え?・・・そうね」
「何か?」
「ごめんなさい、ちょっと恥ずかしくて・・・あのね・・・とても嬉しいの」
「うん? 何がだ?」
「あのね・・・あなた・・・とてもいい聴き手だから・・・私・・・いつもより、きっと・・・上手く弾けてるって思うの」
「いい聴き手?」
「ええ。やっぱりね、心から聴いてもらっているって感じると、いい演奏ができるみたい。伯爵も夫人も聴いてくれたけれど・・・その頃の私、本当のこと言うとね、あんまりピアノ、好きじゃなかった。仕方なかったから弾いていただけ」
「そうか・・・大変だったな。だが、それでも練習していたおかげで、今私が楽しむことができる」
「楽しい? 本当?」
「ああ、本当だ」
「・・・私、前は・・・どんな曲を弾いていたの? 」
「今と同じだ。静かで穏やかな曲が多いな。随分と練習していた」
「不思議よね。軍人のあなたなら、もっと勇ましくて激しい曲が好きそうなのに。
「はは、それは軍務だけで十分だ」
「・・・私・・・お母様には弾いて差し上げたのかしら、ドイツで」
「もちろんそうだろう。大いに喜んだのではないか? 美しく成長した愛娘の演奏だからな」
「そうよね、そうね!」



あの男の・・・ドイツの記憶が消えた。
私にはこれ以上ない恵みだったが・・・。
母の記憶も失ってしまったのだな、お前は。



あの時・・・苦し紛れに言った・・・お前のピアノなどどうでもよいことだと。
ただでさえ表情の乏しかったお前から、最後の一燈が消え去ったようだった。
それでも・・・一所懸命弾いていたのだろう、私に聴かせるためにでも。
それ以降、投げやりな演奏になることはなかったが、ますます心は離れていったように感じた。


*     *     *     *     *



薄氷を履むようだ。

彼女は全面的に私を信用している、一片の疑いも持っておらぬ。
だが・・・何か・・・思いもよらぬ些細なことで・・・ふと視線が宙を彷徨う。
何気ない会話の中の言葉だったり、いつも見慣れたはずの景色だったり、何の変哲も無い部屋の片隅の様子だったり。
そのような気配が見えたらすぐに話しかけるようにしている、私もヴェーラも・・・アンナやレーナにも指示してある。

と言って、あまり閉じ込めて刺激を与えぬのも精神の健康によくないだろうと、時折は人にも会わせる。
あの屋敷での二の舞は避けねばならぬ。


この間は、シュラトフが昇進し在スイス大使館に赴任するということで夫婦で挨拶に来た。
事情を知っている彼ならば安心なので彼女にも会わせた。
案の定少し不思議そうな表情をして彼を見ていたが、すぐに思い出す努力を放棄して私と彼の会話を聞いていた。
恐らくは・・・彼女の中に安全装置のようなものがあってそれが働いているのだろう。
思い出すことが自分のためにならない、そうどこかで制御しているのだろう。

シュラトフには・・・感謝している、天使を見つけてくれた。
その礼の意味もあって、昇進と赴任先での責任者の地位を推薦した。
代々ユスーポフ侯爵家に尽くしてくれる、父親も喜んでいるだろう。
過去のマフカを知っている数少ない人間・・・そして・・・。
忠義者でよかった、恋は盲目と言うからな、私すらをも変えたように。





「シュラトフ少佐?」
「そうだ、長く私に仕えていたが先日昇進して、在スイス大使館に赴任することになった。その挨拶に来るからお前も一緒に会ってやってほしい」
「私・・・覚えていないけれど・・・それでも、いいの?」
「ああ、構わぬ、あいつはお前に会いたいだろうから」
「そうなの・・・それなら、あなたと一緒なら」
「それから何か弾いてやってくれ、出発の手向けに」
「え?  ええ、そうね・・・何がいいかしら?  スイスならば・・・"泉のほとり"は、どう? それから何かロシアの・・・」
「お前に任せる」
「明後日よね。じゃあ、これから早速練習する。随分前に弾いたきりだから」





「畏れ多いことです、奥様、私は・・・私ごときにお手を煩わせることは・・・」
「いいのよ、レオニードと私からの気持ちですもの。聴いて頂戴ね」
「ありがとうございます」


いつもながら見事な演奏だった。
以前お前は自分には才能がないと言っていたが、私には誰のどのような演奏より天上の響きに聴こえる。
シュラトフも感激していたぞ、それはそうだろう、憎からず思っている、けれども決して手の届かぬお前が己の為に弾いてくれたのだからな。

一方で、チトフを見る時は不思議と何も感じぬようだ。
恐らく・・・余りに思い出したくない為に、より一層厚い壁が記憶を塞いでいるのだろう、私に対するものと同じように。

装置はずっと働き続けるのか?
神の意志はわからぬ。
彼女にこのまま穏やかな毎日を送らせるのか、それとも・・・。


*     *     *     *     *



(5)



「・・・ねえ、ニコライって誰?」
「何だ、藪から棒に」
「ニコライの手先って?」
「・・・何の話かわからんが」
「でも・・・あなたが言っていたのよ? ニコライの手先って」
「・・・いつだ?」
「ほら、雨の中、走って逃げたことがあったでしょう?」
「・・・」
「忘れちゃったの? 二人であんなに必死に走ったのに」
「どこで、だ?」
「・・・あなたのこと、言えないわね。私も忘れたもの、どこでだったのか。ただ、坂道で遠かった。雨が降っていて。あなた、私の手首を掴んで強く引っ張って。男たちに追いかけられて」
「・・・」
「あなたが彼らに向かって言ったのよ、大きな声で、ニコライの手先って」
「・・・それは・・・記憶違いだ・・・私ではない。その男たちが言ったのだ、不敬にも陛下のことを」
「え? 陛下?」
「そうだ。いつだったか、反逆者どもに襲われたことがあった。その時の記憶だろう」
「反逆者に? 私たちが?」
「私は奴らに相当恨みをかっているからな」
「そうなの。そんな大変なことがあったのね。無事だったのよね? 私たち」
「勿論だ。ただ、お前には無理をさせてしまった、随分と走ったからな。部下たちを待たせて、二人だけで夏の庭園を散策したことがあったのだ。雨だったがそれも風情があってな。そこへ襲ってきた・・・それで馬車のところまで走って戻ったのだよ」
「よかったわ、助かって。その時その人たちがあなたを罵ったのね? ニコライの手先って」
「そうだ」
「変ね、それをどうして取り違えて覚えてしまったのかしら。あなたが言うはずがないのに」
「まあ、よほど怖い思いをしたのだろう。そのような場合は記憶が混乱してしまうこともある」
「・・・そうね。でも大丈夫。これで正しく覚え直したから」





どこかで・・・僅かに残る記憶の中で、奴と私が混ざり合っている。
これは油断ならん、な。
うまく話を合わせ、言いくるめる必要がある。
あの庭園に坂はないが・・・連れて行かねば気づくこともない。

おぼろに残るあいつを私に置き換え、新しい記憶を作らなければならぬ。
消し去るのだ、奴の残像を。


*     *     *     *     *



「肖像、画?」
「そうだ、明日から画家が通ってくる」
「でも、どうして? 急に?」
「いや、以前から考えていたのだ。代々引き継ぐものだからな」
「あなたのはどこに? そう言えば・・・見たこと、ない。お父様やお母様のはあるのに」
「私には馴染まん」
「え? ずるい、レオニード! あなた、写真も嫌いだってアンナが言っていた、だから結婚式の写真がないのだって。せめて肖像画は残しておかないと」
「まあそのうち・・・国情が落ち着いたら・・・考える。ともかくまずはお前だ。今日のうちに好きな衣装と宝石を選んでおきなさい」


私の妻であるお前の姿を残しておきたい・・・記憶が戻ろうとも・・・亡命しようとも・・・最期まで共にいられるように。


*     *     *     *     *



「あの、旦那様。奥様が人形をお探しで。昼間からずっとお屋敷中の戸棚を見て回られています」
「人形だと?」
「はい。前に旦那様がご処分なされた・・・ぼろのような、あの人形でございます」





「どうした? 探し物か?」
「ええ、そうなの。あとはあなたの書斎だけ。一番なさそうだから後回しにしておいたの。一緒に探して」
「何を探しているのだ」
「お人形。フランクフルトで持っていた。小さいの、このくらい。お顔はね、少し傷がついていて、体は布におが屑が詰めてあって、白いブラウスと赤いスカートと、小さなエプロンを着けて、そうそう、空色のリボンもね。でも全部擦り切れていて褪せていて、今思うとぼろ切れみたいだったけれど」
「そのような物、見たことはないが」
「そう? そうね、あんまりみすぼらしいものだから、あなたに見せるのは恥ずかしかったのかも。でも、大切なのよ、ずっとお友達だったの」
「友達? 人形がか?」
「ええ、マリアっていうの。ずっと一緒だった。お母様は昼も夜も働いていらしたから、一人でお留守番していたの。特に夜は怖かったから夢中でお話しして、気がつくと朝だったの。マリアがいなかったら・・・私、耐えられなかった、きっと」
「・・・そうか・・・。だがお前は何も持たずにこの国に戻ってきたぞ」
「本当? 何も?」
「そうだ。第一、フランクフルトから留学に持ち歩いていたのか?」
「え? そうね。そう言えば・・・持っていなかった。じゃあ、あのまま置いてきたのかしら、あの屋根裏部屋に」
「そうだろう」
「そうよね、だからどこかのホテルで、初めて伯爵夫人に会って・・・綺麗なお人形をもらったのね、代わりに。とてもいい匂いがして、おが屑なんか使っていない、それも傷一つない滑らかな。お洋服は厚くて柔らかい手触りで、細かいレースがついていて。でもあんまり遊ばなかったような気がする。私には綺麗すぎて」
「人形が綺麗すぎて遊ばない、か。妙な理屈だな。ともかくもう探すことはあるまい?」
「そうね。勘違いしていたみたい。一日中付き合わせてしまってレーナに悪かったわ。だって・・・なぜかしらね・・・戸棚にね、隅っこに突っ込んだ覚えがあるの。でもおかしいわよね。いくら粗末なものでも隠すことなんかないのに」
「まったくだな・・・人形が欲しいのなら、明日にでもヴェーラと店に行って選んでくるといい」
「ありがとう。でも、もういいの。あの人形が懐かしかっただけだから」
「そうか。まあ人形でも何でも、慰みになるのなら揃えてやるから言いなさい。さあ、晩餐にしよう。さすがに空腹だ」
「ごめんなさい! もう、私ったらこんなことで大騒ぎして! 今日はね、鴨が手に入ったからテリーヌにするって料理長が張り切っていたのよ」
「それは楽しみだな」





その夜、腕の中で話し始めた。


「四つのクリスマスの朝に目が覚めたら隣に寝ていたの。後から考えればもちろんお母様からの贈り物だったのだけれど、その時は神様がくださったって本当に嬉しかった。だから名前はマリアなの。人にはみすぼらしいでしょうけれど、マリア様だって着飾っておられたわけではないのだし。何より優しい瞳で、柔らかい手触りで。あなたにはおかしいでしょう? おが屑と麻布の人形が柔らかいなんて。でもね、きっと何人もの子どもの手を経たからだと思うの。不思議な体温のあるお人形だった。あの時・・・あの日、一緒に出掛けなかったから、だから私は助かったのかもしれない。そして・・・あなたとも会えたのよね。今でもあのアパートの屋根裏部屋から見守ってくれているわ」


記憶を無くした。
天からの授けだと、思ってきたが・・・どれほどの仕打ちをお前にしたのかを思い知らせるための神の罰だったのか。
踏み砕いた・・・フランクフルトからお前を守るために出現した聖母を。





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