翡翠の歌

09 幸せの終わりへ




(1)



少し前、アレクセイ・ミハイロフが実は火災以前に脱獄し、この都に戻っているという情報がもたらされた。
他方、二年前、人違いで拐われた彼女の行方は一向に掴めなかった。

これがアデールならば別だが、表向きは一介の愛人に過ぎぬ者を権力と立場を行使し捜索するには限界があった。
隠し財産を預かる者、故に陛下の保護命令を受けている者・・・例え特務機関にもそれを理由に命じることはできぬ。
不審人物として憲兵に引っ張られておらぬか売春宿に囚われておらぬか、逐一情報を集めているが成果はない。
ともかく・・・王朝三百年祭を万全に迎える為の帝都の守備という職権を最大限に用い、活動家どもを根こそぎ逮捕していけば、いずれ何らかの情報に辿り着けるだろう。
私から天使を奪った奴らを許しはせぬ・・・まったく・・・帝国軍人にあるまじき動機・・・だな。

そうしながら本心では、もう諦めている・・・のかもしれぬ、認めたくはないが・・。
殺されたか・・・既に・・・自ら命を絶っているか・・・。
何しろ鍵の在り処は私に教えてあり、あの男が死んだと思っている以上、再び囚われに戻る訳もない。



生きていてほしい・・・。

後悔ばかりだ。
何故より厳重な警護態勢を敷いていなかったのか、何故あの日に帰都させたのか・・・何故優しく愛さなかったのか。

あの時・・・襲撃の時・・・。
二人を射殺後、蹲っていたヴェーラの目の前に銃が滑り落ちてきたという。
奪われたのではなく・・・落としたのだ、自ら捕らわれる為に・・・いや、自由を得る為に・・・。
そして私に伝えるようにと・・・立ち会わなくとも鍵は開けられる、と。

命を守るために偽っていたのだな、殺されまいと。
翼をもぎ取ったつもりでいたが・・・諦めて私の籠を安住の地とみなしていると思っていたが・・・見せかけだったのだ、巧妙な。
本心と情熱を奥深くに潜めておいて、突然訪れた機会を逃さず飛び去った。
お前の強さは筋金入りだ。 

だが、奴らが求めていたのはアデールだ。
人違いとわかって・・・どうした? どうされた?





結局・・・"大嫌い"なままだったのだ、な。
あの朝、部屋の外まで届くほどの声で私を罵倒した。
堪えてきた全てを爆発させたかのようだった。

力づくで犯したと・・・確かにそうだった、が。
痩せ細り、精神が壊れていくお前をどうすれば救えるのかわからなかった。
瀉血のように傷つけてでも引き戻したかった・・・この世に。



それからは腐心した・・・私なりに・・・。
そして・・・少しは心を向けてくれていると思っていたが・・・実際、心が通ったことも一度や二度ではなかっただろう?
だが・・・ただの、慣れ、諦め・・・だったのか。
心を鎧で覆っていただけか。

私の元に戻るより、死を選んだ。
それほどまでに、"大嫌い"か。



どの女も、そうなのか?
恋をすれば、真の恋をすれば・・・どのような屈辱にも痛みにも・・・快楽にも・・・屈せぬものなのか?
その恋のみに殉ずるものなのか?





内偵している者から奴の所在が判明した。
あと数人の重要人物の潜伏先が確認出来次第、一斉摘発を実施する。
容赦はせぬ・・・罪を、償え。


*     *     *     *     *



内務省のシュラトフが奴の身辺について気になる情報を入手したと訪ねてきた。
どうも女と暮らしているらしい、素性不明だが党員ではなく、逮捕状は出ていない・・・そして金髪で・・・ユリアと呼ばれている・・・。

受けた衝撃を悟られぬよう、背を向け血が出るほど唇を噛み締めた。

それは、何とも言えぬ瞬間だった。
・・・あいつだ・・・確信だった。

そうだ、神が二人を巡り会わせたのだ。
はじめ私に与えて試し、その資格がないと断じるや、あの男に引き渡したのだ。


「いかが致しましょう、ご下命あれば速やかにお連れしますが」
「いや、今はよい。摘発の際、ロストフスキーにやらせる」


ロストフスキーならば彼女がどれほど懇願しようと無表情で任務を果たすだろう。
シュラトフは・・・迷うかも知れぬからな。
あいつを見る眼差し、私が気づかなかったと思うか・・・。


*     *     *     *     *



(2)



今夜のは前回より大規模だ。
奴を含む名の知れた活動家や、軍や鉄道などに潜り込んだスパイも加えると逮捕者は百人を超えるだろう。

仕上げは、トボリスクから呼び寄せたミハイロヴァ夫人・・・最期に貴族として陛下の役に立ってもらおう。
あの屋敷でドイツ人の妻が養われていると噂を流せば暴徒がなだれ込み、奴の信用は失墜する、ボリシェビキの評判もな・・・疑心暗鬼が生ずれば、労せずに分裂を招くと言うもの。




あれから二年か・・・。
幸せでいたのだろうな、私には見せたことのない笑顔で、あの碧い瞳を強く輝かせて・・・例え貧しく、逃げ隠れする生活であっても。

あたう限りの努力で奴を支えてきたのだろう、慣れぬ家事をし、活動に協力し。
進んで口づけを交わし、愛し合い、あの瞳で見つめ。
私が決して得られなかった全てを奴はやすやすと。

私のことなど、もはや憎んでも、いや、覚えてもおらぬだろう。
不要な過去として封印され、北海に沈められたか。



まったく何という強運の持ち主なのだ、お前は。
この広いロシアであてもなく求めてきた奴と巡り会うとは。
ゾッとした・・・策略だったほうがまだましだ。

何かの力が働いているのか?
何の力だ?
幾度撃たれるも襲われるも、死線を越え。

しかしその力を引き寄せたのは・・・決して諦めぬ意志だ、な。
どうしようとも奪えなかった一途な想い。





生きていてよかった。
そう思う、心から。
あの男のものになってでも、生きていてくれたことを神に感謝する。


私を見て絶望するだろうが、どの道お前は再びあいつに会うことはできぬ。
そして私が介入せねばお前は、早晩、嬲り殺される。
どれほど憎まれようと助ける・・・私にできることをやるまでだ。


*     *     *     *     *



(3)



革命思想。
私にはわからない。
事務的な、あるいは何かの行動を促す連絡文は難なく理解できる。
でも思想自体はアレクセイの書物を幾ら読んでも・・・。

それは・・・差がありすぎるとは思う、陛下や貴族の世界と今いる世界、まして貧民窟や出稼ぎ労働者、農奴の世界とは・・・同じ人間なのに。

彼は言っていた、身分制度が国を支えているのだと。
なくなったはずのフランスにも、新しい上下が生まれただけだろうって。

ガリーナは・・・前のことはほとんど話さないし私も尋ねないけれど、きっととても辛い人生を送ってきたのよ・・・ユダヤ人だろうし。
だから、この社会を憎んで変えたいと思って、それでフョードルの思想を頼りにしているように思える。

でも、その思想って・・・人の数だけあるのでは。
帝政を支えている人たちも一枚岩ではないもの。
革命側だって・・・たくさんの党や集まりが反目し合っているじゃない。
第一、指導部と大衆って・・・つまりは、これからどういう思想がロシアを支配しようとも、やっぱりそこには。


*     *     *     *     *



いつものように穏やかに陽が暮れたはずだった。
明日も変わらない陽が昇るはずだった。

今夜は帰ってくるかしらと通りを見下ろすと、馬車が横付けされたのが見えた。
そして階段を上がる数人の足音が近づいてくる・・・聞き覚えのある軍靴の響きだ。

ああ!  摘発だ!

暖炉に作業途中の書類を投げ込みランプを消し、戸棚から銃を取り出して火の前に立った。

お願い、早く燃えてしまって!

残ることのないように火箸で炎を移らせながら願った。

狙いはこの部屋。
ほかに摘発を受けるような住人はここにはいない。


ごめんなさい、赤ちゃん。
産んであげられなかった、また。
怖くない、お母様と一緒にいきましょう。
アレクセイ、あなたはどうか無事で!
幸せだった、ありがとう!


開けろ! という怒号と同時に銃声がして扉が開いた。
その瞬間、最後の紙束が大きな炎を上げ侵入者の顔を照らした。

ロストフスキー?  ああ!

予期していなかった人物に、こめかみに当てた銃の引き金を引くのが一瞬遅れた。
彼の発射が僅かに早く、私は倒れながら自分の撃った役立たずの弾が天井に向かっていったのを他人事のように見ていた。



止血しながら身重の私を見て少なからず動揺したようだったけれど、それもすぐいつもの平静な顔になった。
私はお腹と傷の痛みで蒼白となり、何の抵抗もできなかった。

そして兵士に抱え乗せられた、地獄行きの馬車へ。


*     *     *     *     *



気づいた時にはヴェーラが傍らにいた。
左手首はベッドに繋がれ身動きできない。
頭も腕も痛くて・・・でもお腹はそれほどには。
まさか!


「赤ちゃんは!? 赤ちゃんは!?」
「大丈夫よ、安心して。落ち着いたわ。もう大丈夫」


ああ、よかった、よかった。
今度は頑張った、私。


「繋いでしまってごめんなさい。でも安静にしていないと赤ちゃんが危なくて」
「・・・ここは?」
「離れよ。ゆっくり休んで」
「アレクセイは?  アレクセイはどうなったの?」
「・・・今も摘発が続いているの。逮捕されたかどうかはまだわからないのよ」


きっと無事よ、きっと。


「・・・今回のこと、わかってあげて。怪我をさせてでも連れ出さなければならなかったのよ」


感謝すべきなのだろうか、彼らに。
もしかしたら、あのまま死なせてくれたほうがよかった?
彼が必要としているのは、私だけ。
アレクセイの子どもはいらないのだから。


*     *     *     *     *



(4)



まさか子ができていたとは。
医者によれば、あとひと月ほどで出産だと言う。
もう産ませるしかないが、その後どうする。
あの屋敷に子と共に再び監禁するか?
それとも・・・殺すか?

連行中に死亡したという報告書も作ったが、オフラーナのことだ、一連の流れの不自然さにいずれ勘づくだろう・・・相変わらず、足をすくいたいのだからな。
保護命令もどう有効に使えるか、先行きは不透明だ。
一刻も早く、二人は別人であると決定づけなければなるまい。
彼女は私の元にずっと監禁されていたことにせねば。

幸いボリシェビキの偽造した身分は完璧だ。
さしものオフラーナも・・・いや、それだけでは・・・。





幸せ・・・。

私に与えることができるのだろうか?
初めて抱いた時、必ず幸せにすると誓ったが、絵空事で終わるか。

ランプの灯だけで命中させた、重い軍用拳銃をその細い腕で。
暗闇の中、襲ってきた反逆者どもを三人も仕留めた。
ドイツでも二人殺したと言っていたな、まだ十四、五の頃に。

そして、深い後悔や罪の意識はない。
職業軍人の私は数え切れぬ人間を殺してきたが、お前にはその重みが違うだろうに。
いや・・・薄く硬い膜がお前の心を覆っているのだ、何も感じぬように、狂わぬように。

あの男への激情と殺人への淡白さ・・・。
それらを内包してお前は魅力的に輝く。

そのようなお前に、私が幸せを与えることはできるのだろうか。


*     *     *     *     *



(5)



官憲の目を逃れ転々とし、モスクワの支援を受けて組織の立て直しを図りながら、傷口が塞がった頃、俺はアパートに戻った。
勿論これは危険な賭けでもある。
奴らが張っているかもしれない。
だが行くしかなかった、行って確かめるしかなかった、現実を。
中心を担ってきた仲間を失った組織は機能不全に陥り、彼女の安否を知る者はいなかった。



誰が撒いたのか・・・ドイツ人の妻をミハイロフ侯爵の屋敷で養っていると・・・アレクセイ・ミハイロフは根っからの貴族で、党も民衆も騙されているのだと・・・ドイツに通じた売国奴だと。
略奪と破壊で荒れ果てた屋敷で殺されていた、嬲り殺しに・・・おばあさま・・・オークネフ・・・。
なぜ、こんなことに・・・なぜだ、なぜ。



堪らず一気に駆け上ったが、壊された扉の前で足が止まった。
覚悟を決め、ようやく踏み入れると、椅子は倒れ黒褐色に乾いた血痕がそこここに。

発射した拳銃。
燃えさしが白く積もる暖炉。

明白だった、何が起きたのか。

住人は、数人の兵士が踏み込み、銃声の後、ユリアを抱えて馬車に乗せて行ったと言う。
ではどこかの監獄に?
身重の身で出血して、看守に暴行を受けたら・・・助かるまい。

何てことだ!
わずか二年で・・・。
これからだったのに・・・。
守ってやれなかった・・・。
何もしてやれなかった。
一人で逝かせてしまった。
どんなに恐ろしかっただろう、どんなに俺を呼んだだろう。


(第三部終わり)




↑画像をクリック