06 レーゲンスブルク
今日は久しぶりに一日家にいられるのね! ねえ、散歩に行きましょうよ! 赤ちゃん? 大丈夫、もう悪阻も治まったし・・・よく動いたほうが赤ちゃんも元気になるのですって、ガリーナが・・・。
まだ解け切らない固い雪を踏みながら私たちは腕を組んで歩いた。
二人とも目深に帽子をかぶって・・・。
でもあんまりそうするといかにもっていう感じだから、ほどほどにしないとね。
こんな日が来るなんて・・・諦めなくて本当によかった。
アレクセイが・・・クラウスが私の隣にずっといてくれるなんて・・・夢みたい。
大きな手が私の手をしっかりと包んでくれて温かい・・・心まで温かくなれる。
言葉を交わさなくても分かり合えている、気持ちが交わっている、安心する。
何も差し出さなくても無条件で与えられる愛情・・・。
伯爵からもお父様からも・・・お母様からも得られることはなかった、そう、誰からも。
時々見上げて、瞳をじっと見る。
彼はそんな私の癖を不思議に思っているようだけれど、あなたのその瞳が私をずっと支えてくれてきたの、どんな時も。
記憶が遠のく時もあった。
どうして自分はここにいるのか、こんな目に遭っているのか。
現実の辛さに苦しさに、あなたの姿が薄れていく時が・・・。
でもそれを引き戻してくれたのは、あなたの瞳。
これからどんな苦しいことが起きても乗り越えて行かれるように、強く強く、心いっぱいに覚えておきたいの。
そう言えば、レーゲンスブルクでも私たち、こんなに寄り添って歩いたこと、なかったわね。
口づけだって、最後のミュンヘンで初めて・・・。
それでよく、恋人だ、なんて言えた。
* * * * *
「何考えてる?」
「え? 何も・・・ううん、レーゲンスブルクのこと、ちょっと思い出して」
「レーゲンスブルク! 懐かしいな、俺は三年? 4年? そんなもんだったが、お前はもっと短いか?・・・二年くらいか?」
「ええ、そうね。留学から帰って・・・そう、ちょうど二年」
「どこに留学してたんだ?」
「パリとロンドン・・・」
「大したお嬢様だ!」
「そう・・・本当に」
「・・・そう言えば、お前・・・親はどうしているんだ? 母親がいたろう? お前がこんなところにいるって知ってるのか?」
「・・・いいえ」
「伝手を辿れば手紙くらい出せるぞ? 安心させてやったらどうだ」
「いいの、もう」
「いいって、お前」
「・・・だって・・・もう、死んじゃったから・・・」
「何だって? じゃあ俺が帰国してからすぐか?」
「そう、ね」
「悪かったよ、思い出させちまったな」
「ううん、いいの。それより・・・二年くらい前にイザークに会った、ダーヴィトにも」
「おう、そうだ、来たんだったよな! 見たよ、ポスターで。マリインスキー劇場だったかな? 聴きたかったが、逮捕されちゃあかなわんからな」
「そうよね」
「いよいよあいつも世界に飛び出したんだな。劇場で会ったか?」
「あるところで・・・サロン・コンサートを開いたの。偶然行ったの」
「そうか。で、どうだった? イザークの奴は?」
「本当に素晴らしかった。ますますダイナミックになっていて、力強くて、でも洗練されていて。ドイツらしいって言うのかしらね、聴き慣れてなかったみたいで、みんな、驚いていた」
「そうだろうな、あいつはヴィルクリヒ直伝のベートーベン弾きだからな。決着はつけずじまいだったが、イザークにとっては奴と出会って幸運だったろう」
「そうね・・・」
「どうした?」
「別に・・・何でもない・・・」
「お前、嘘がつけないな、相変わらず。何があった? イザークに何か?」
「・・・いえ、イザークではなくて・・・」
「?・・・じゃあ、ダーヴィトか?」
「ううん・・・」
「ヴィルクリヒ?」
「・・・もう、死んじゃった」
「何だって? あいつが? 殺しても死なないような奴が? 何故だ?」
「事故で・・・」
「何の?」
「・・・窓から・・・オルフェウスの窓から落ちて・・・」
「はあ? 何だ、その間抜けな死に方は!」
「本当・・・本当に間抜けね」
「あいつが・・・信じられん。じゃあ、校長もがっかりだったろう、名物教師がそんな死に方をしたら」
「・・・そう・・・ね・・・落ち込んでおられた、ひどく・・・」
「何だ?」
「ご・・・ごめんなさい。何でもない。ね、話題を変えましょうよ、そう言えば、この間、洗濯場でね、お向かいの・・・」
「おい! 校長がどうした? 何があった?」
「もういいの、レーゲンスブルクのことは・・・だから、お向かいのアントニーナが・・・」
「ユリア! 校長がどうしたんだ!?」
「・・・もう・・・いない・・・」
「いないって? どういう意味だ?」
「・・・死んじゃったから・・・」
「校長も? 死んだって、お前・・・」
「・・・私の目の前で、毒を飲んで・・・自殺・・・」
「自殺?」
「・・・」
「いいか、最初から全部話してみろ、俺に。レーゲンスブルクで一体何があった?」
* * * * *
「知ってどうするの? もう過去のことよ、ごめんなさい、言い出した私が悪いの。もう二度と言わない、レーゲンスブルクのことは」
「ユリア! お前がこんなに動揺しているのに、俺が知らないでいて済むわけないだろ? さあ、言ってくれ、何があった。一人で抱え込むなよ。俺にも分けてくれ」
「・・・アレクセイ・・・でも・・・」
「ユリウス!」
「・・・あの・・・ヴィルクリヒ先生はね、偽名だったの」
「偽名? 何で音楽教師のあいつが?」
「本名はね、エルンスト・フォン・ベーリンガーって言って、ミュンヘンの貴族の息子。それで・・・校長先生は彼のおじいさま」
「何だって? そんな藩士、聞いた覚えないが、隠していたのか、二人で」
「ううん、ヴィルクリヒ先生は知らなかったみたい」
「わかんないな、天涯孤独って感じだったが。立場もあるだろうから公言はしなくても、孫に黙ってるなんてさ」
「そうよね、本当に」
「うん? フォン・ベーリンガーって聞いたことあるぞ。どこでだったか?」
「あの・・・お屋敷・・・ミュンヘンの、あの」
「ああ、あの! 俺たちがアジトにしてた、あの、か!?
「そう、偶然よね、あのお屋敷よ」
「あそこが奴の生家か。規模から言ってそれなりの貴族だろうに、何でしがない音楽教師なんかに」
「あのね、私のお父様を仕事上のことで恨んでいて、アーレンスマイヤ一族を殺そうとしていたの」
「おいおい、また極端な話だな、たかだか仕事で」
「お父様はね、陸軍の諜報部で・・・フォン・ベーリンガー家の人たちを・・・皆殺しにしたの」
「!?」
「子どもだったヴィルクリヒ先生は辛うじて生き残って、別に暮らしていたおじいさまの校長先生の元で復讐の機会を狙っていたのよ」
「何てこった、あいつが、あいつらが・・・。そんな素振りはまるで」
「校長先生はカーニバルの劇の小道具・・・短剣を本物にすり替えて・・・この腕の傷、ね。ヴィルクリヒ先生はその後、ほら、あなたの扮装をして私を連れ出して、あなたが来てくれなかったら・・・」
「あの時の! あの男がヴィルクリヒだったのか!」
「私は助かったけれどお母様は・・・彼に呼び出されたのか、それとも呼び出したのか、今となってはわからないけれど、二人であの窓で会って・・・たぶん・・・突き落とされた。でも窓が、窓枠が緩んで壊れていたから一緒に崩れ落ちてしまったのよ」
「・・・お前・・・」
「でもね、それでも校長先生は復讐を諦めなかったの。お姉様たちは馬車に細工されて大怪我をするし、夜会の暗闇で殺されそうになるし・・・。最後に私、気づいたの、これは校長先生の仕業だって。夢中で追及したら・・・紅茶に毒を入れて・・・」
「・・・お前・・・お前、よく、生き抜いたな・・・よかった・・・本当に」
そう言ってアレクセイは強く抱き締めてくれた、強く強く。
ああ・・・私の心の中の冷たく凍りついていた部分が溶けて流れ去っていくのがわかった。
「悪かった・・・辛いことを言わせてしまったな。だが、これからはもう自分一人で抱え込むな」
「ありがとう、アレクセイ。もう大丈夫。聞いてもらって何だか楽になった」
* * * * *
ごめんなさい、アレクセイ。
でも、他のことは・・・言えない。
この手が血塗れだということ・・・。
それが何の為だったかということ・・・。
私は決して同志にはなれないということ・・・あなたが望んだとしても。
いつか・・・言える日が・・・来るかしら・・・。
あなたに謝る日が・・・。
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