翡翠の歌

03 通じていた心




(1)



「サンクト・ペテルブルク、へ」
「そうなんだ。前から決まっていたんだが・・・。お前は・・・残るか?」


ここに来てから、私はずっと彼のアパートに閉じこもっていた。
不用意に人と関わると思わぬ事態になるから、このような生活に慣れるまでは動かないでいた。

それが・・・戻ることになるなんて・・・あの・・・彼のいる・・・。
でも・・・。


「ううん、もちろん一緒に行く・・・いいでしょう?」


*     *     *     *     *



そんなに見つめられると、戸惑うぜ・・・。


ふと彼が口にした。


「え? ごめんなさい。私・・・変?」
「いや、変って言う訳じゃないが・・・まあ、変・・・だよな、ずっと見つめられてるのは」
「あ、あの・・・」
「うん?」
「どうすれば?」
「うん?」
「どうすればいいのかしら、私・・・」
「したいようにすればいいさ、勿論・・・ただ・・・」
「ただ?」
「緊張する!」
「そう・・・見なければいいの?」
「いや・・・そんなの・・・俺が決めることじゃないだろ?」
「え? そう?」
「そうさ。見つめたければそれでいい」
「・・・たから・・・」
「うん?」
「命じられたから・・・」
「あいつに?」
「・・・」
「話してみろ」
「あのね・・・一緒にいる時にはね・・・ずっと・・・見ていなくてはならなかったの・・・そうしないと打たれて・・・だから・・・私・・・どうしたらいいのか分からない。ごめんなさい」
「・・・謝ることなんかないさ」
「・・・」
「なら・・・そうだ、しばらく瞑っていろ、試しにさ。案外、そのほうがいいかもしれんぞ」
「そう? そうね・・・あなたがそう言うのなら」


*     *     *     *     *



(2)



忙しいはずなのに、その日はずっと一緒にいてくれた。
ベッドに座ったまま、売店で手に入れたパンとソーセージを分け合って、一つのカップから熱いお茶を交互に飲んで・・・。
こんなおいしい食事は、もう思い出せないほど遠い昔。

午後には少し歩いてこれからお世話になる"同志"のご夫婦のところに挨拶に行った。
この都を自由に歩くのは久しぶり。
でもこれまでは入ったことのないような裏通りの細い路地ばかり。


「改めて紹介するよ。妻の・・・ユリアだ」


妻!

そうよね、あなたの妻。
これからは顔を上げて生きていける。


「ユリア、フョードル・ズボフスキーとガリーナ、そしてアントン」
「ユリアです。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。堅物で評判のアレクセイに青天の霹靂だよな!」


*     *     *     *     *



音楽のことは・・・何も話さない。
私も尋ねない。
あれほどの才能と情熱。
どこへ消えてしまったのか、一言も。

ピアノはもちろんのこと、バイオリンも何の楽器も手元にはない。
そうね。
こんなアパートで弾いたりしたら、近所中に筒抜け。
目立つことは一切ご法度。
私もずっとプラトークが欠かせない。

でも・・・話さなくては。
あの、ストラディバリウスのこと。
謝らなくては。


「どうした?  疲れたか?」
「え?  いいえ、違う。大丈夫・・・」
「変だぞ、お前」
「あのね・・・私、謝らないと、あなたに」
「謝る?」
「あなたの・・・バイオリン、ある人にあげてしまったの」
「俺の、バイオリン?  ストラディバリウスのことか?」
「そう、あなた、あの・・・ミュンヘンで、列車に置いてきたって・・・」
「ああ、そうだ。お前がとんだ無茶をするからな」


そう言って、コツンと私の額を指で弾いて、口づけした。


「あの後ね、ダーヴィトが骨董屋で売られているのを見つけて私に渡してくれたの」
「何だって?  ダーヴィトが?  そりゃあ奇遇だな」
「そうなの、本当に奇遇ね。私、あなたに返そうと持って来たのだけれど・・・彼に捕まってしまって・・・取り上げられたの」
「まあ、あいつのやりそうなことだ」
「何年かしてやっと返してもらえたけれど・・・でも・・・あなたが監獄で亡くなったって聞いて・・・私もいつ彼に殺されるか捨てられるかわからなかったから・・・そうなったら、あのバイオリン、あなたをとても憎んでいたから、きっと燃やしてしまうだろうって思って・・・そうなる前にって彼女に」
「彼女?」
「アナスタシア・・・」
「?」
「あなたと幼馴染だって言っていたし、御前演奏もする腕前だって聞いたから・・・ごめんなさい」
「アナスタシア・クリコフスカヤか?」
「そう。覚えている?  小さい頃、一緒に演奏したって」


そこまで聞いたアレクセイは私を抱き締めた。


「心は・・・通じるんだな。遠く離れていても」
「え?」
「これは極秘だが・・・彼女は俺たちのシンパだ。俺の脱獄にも多大な協力をしてくれた」
「え?  彼女が?」


ああ、差し入れなどではなかったのだ、あの時の・・・だから、だからトスカって・・・。
ありがとう、アナスタシア・・・本当に・・・心から。


「俺こそ謝らなければ・・・。脱獄の話は直前に伝えられた、未熟な俺の動揺を少しでも抑えるためにだろうが。その時も、それからしばらくも夢中で・・・思い至らなかったが・・・俺が脱獄したことで・・・お前はどうなったのだろうと。あいつがどんな扱いをするか。脱獄とばれなくとも、焼死したと知れば、お前がどういう行動を取るか。だが俺は・・・何もしなかった。モイカ宮殿に近づくことすらしなかった。自分の安全を、組織の安全を・・・優先したんだ。すまない、ユリア」
「アレクセイ・・・あなたの無事だけを願っていたのよ。全ては・・・辱めも苦痛も孤独も・・・そのために凌ぐことができたの。だから・・・いいの。そう思ってくれるなんて充分過ぎる。ありがとう。それに・・・職業革命家の厳しさは少し知っているもの、"なにをなすべきか?"で」
「?」
「あの男が・・・読んで聞かせたの」
「?」
「得意げにね。あなたの生家にも連れて行かれた、真っ暗な。私の想いなんて無駄だって。革命家にとっては何の価値もないって」
「・・・」
「どうせ分からないから言い返しもしなかったけれど、でも・・・私にとってあなたは・・・革命家じゃあない。ごめんなさいね、アレクセイ。私にとっては・・・クラウスなの、今でも。そして、そのあなたが選んだ人生の役に立ちたいの」




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