05 幸せ
(1)
ユリウス、いや、ユリアの素性はほんの数人しか知らない。
その中には最初、スパイじゃないかと言った奴もいたが、結局のところ、自分たちの下部組織が勘違いして勝手にさらってきたのだからスパイであるわけないってことで疑いは晴れた。
*
日常の面倒はガリーナに頼んだ。
何しろ驚くほどユリアは日常生活・・・家事ができない。
それはそうだろう。
元々貴族育ちだし、ロシアに来てからはずっとあいつに囚われていた。
侍女二人を始め、数人の使用人と屋敷を充てがわれていたらしい。
先日、普段は滅多に寄り付かない都の中心部で、その屋敷の前を通った。
勿論・・・宮殿と称されるあの侯爵邸には及ばないが、薄緑色のそれは突堤のほとんどを占める広さで、とてもじゃないが女一人を囲うには大きすぎる。
あの男はどんなつもりだったんだ。
俺という弱みで自分に逆らえない女は都合が良かった、か。
だが女ならいくらでも望み通りだろう、奴ならば。
まあユリアほどの美人はそうはいないが・・・それだけか?
さもなければスパイ容疑で官憲に引き渡すか、ドイツに送り返すか・・・そうなったら今度は故郷で同じ容疑に問われただろう・・・一触即発の敵国同士だ。
いずれにしても命があったかどうか・・・。
辛い思いをしてきたユリアには言えないが、奴に囲われていたことで命は助かったのだろう、それでも。
そう、広くて綺麗なお屋敷だったけれど、私に許されたのはほんの数部屋だけ。みんな鍵がかけられていて、窓も開けられなかった。使用人と言っても仕えているのは彼で、ずっと監視されていた・・・本当に優秀な看守だった、彼女たちは。でもシベリアの監獄に比べれば天国よね、ごめんなさい、罰当たりなことを言って。もう口にしない、あの男のことは・・・あなたも聞かないでね、お願い
そうだ。
俺たちに必要なのは再会してから紡ぎ始めた未来のことだけだ。
* * * * *
だが、その未来は毎日の生活の積み重ねの先にある。
包丁も針も手にしたことのないユリア。
火の熾し方もジャガイモの買い方も知らないユリア。
あいつはひどく恥じて、何でもできるガリーナに熱心に教わっている。
ガリーナも最初は貴族というものへの思い込みからどう接しようか悩んでいたようだが、素直で明るいユリアとたちまち打ち解け、いろいろと教えてくれている。
外出する時は髪をまとめ、プラトークの中にすっかり隠してしまう。
何しろあの金髪は目立つ。
軍や警察のスパイもあちこちにいるだろうから、万が一見知った者に知られてはならん。
侯爵邸や囚われていた屋敷はもちろん、大貴族の屋敷や政府の中枢が集まる冬宮周辺、点在する軍の施設に繋がる道も避けさせた。
もっとも外に出るのはズボフスキーの家に行く時と買い物、そして、たまに気晴らしに行く散歩だけ。
買い物にはガリーナと、散歩には俺と行くから危険は避けられる。
退屈じゃないか? これで幸せなのか?
こんな生活で・・・物も乏しい中、狭いアパートの一室でただずっと俺を待つ生活は
不思議そうに俺を見つめた。
こんなに自由なのに?
少し待てばあなたに会えるのに?
何が退屈で不幸せなの?
多少の制約があっても、生き延びる為に自分で選んでいること
あそこでは物は何でも与えられたけど、奪われていたことのほうが多かった
それに、あなた! あなたはもうシベリアじゃない! ここへ帰って来てくれる
こんなふうに言われて嬉しくない男がいるか。
相変わらず忙しく危険な日々だったが、お前を得たことで、その毎日に幸せという気持ちが満ち溢れた。
* * * * *
(2)
あまりの不器用さにガリーナに呆れられてしまった・・・勿論、笑いながらだけれど。
自分でもほとほと情けない。
掃除は・・・。
もともとあまり物のない部屋だから、さっと掃いてさっと拭けばいい、それくらいはできる。
洗濯は・・・。
そんなに洗う物もないし、洗濯場に行って、このくらいはできる。
ただ、おしゃべりが苦手。
皆早口で聞き取りにくいし、どうも私の発音は上品すぎて浮いているらしいし、うっかり余計なことも話せないから。
そうかと言って、だんまり、というのも警戒心を抱かれてしまうし。
アレクセイはこれまでの人にまた頼めばいいって言ってくれたけれど。
結局・・・彼のところでは・・・ずっとフランス語で通してしまった。
お願いすればもしかしたらって思ったこともあった。
顔色をうかがって機嫌の良い時に言ってみようって。
でも怖くて思いとどまった・・・またあの乱暴が戻ってくるような気がして。
本当に教科書通りのロシア語、それも上流階級の・・・怪し過ぎる。
早くここのに慣れないと変な噂が立ってしまう。
繕い物は・・・。
どうしてあんな怖い針をガリーナはやすやすと扱って、さっさと縫い上げてしまえるのだろう。
貴族の女性の嗜みには刺繍もあるけれど、ユーリは男の子だったから・・・針を見たのなんてもしかしたら子どもの時以来かもしれない・・・それもお母さまが使っているのを傍らで。
でも繕いは必要だから、指を縫ってしまわないように慎重に時間をかけてやっている。
買い物は・・・。
ともかくまずは並ぶのが仕事。
大抵はガリーナと行くからその間にいろいろと教えてもらえて、この時間はありがたい。
それから良い物を選び値段を交渉する。
行きつけのお店はガリーナの紹介ということもあって、よくしてくれる・・・あまりに私が頼りないからかもしれないけれど。
そして料理・・・。
これは鬼門。
何度も挫折している。
どうしたらガリーナのようなおいしい料理ができるのだろう。
一所懸命教わって、その通りにしているつもりなのに。
"まずはシチューが作れるようになりなさいな。パンは買ってくればいいのだし、おいしくて温かいシチューとパンがあれば、それで十分よ!"
ガリーナはにこやかにそう言うけれど、どうしてなの?
第一、包丁が言うことを聞いてくれない。
まったく・・・人を殺すための使い方は十分教わったのに。
*
そして、そして・・・体の手入れ・・・。
アンナが惜しげもなく使っていた香油や化粧品はとても手に入らないけれど、ガリーナからいろいろと教えてもらった、庶民の女性ができることを・・・。
時間だけはたっぷりとある。
髪も肌も毎日、体の全てを磨き上げた、アレクセイのために・・・。
アンナも本当に時間と手間をかけた・・・でも、それは彼のため。
いつ訪れて抱いても満足するように。
私は苦痛だった、望まない男にこの体を与えるために・・・。
でも今私は自ら施している。
自分のことは構わずに民衆のため、命がけの活動をしているアレクセイ・・・。
せめて家に戻った時には何もかも忘れられるように。
穢れた体が清められるように思える・・・彼に抱かれるたびに。
初めのうちは怖かった、彼を穢してしまいそうで・・・こんな娼婦を抱くことで。
でも彼は受け入れてくれた、あの男に抱かれることに慣れ切ったこんな私を・・・。
そう、アレクセイは強い人・・・私の穢れを祓ってくれる。
そのうち何もかも忘れさせてやるって、お前は俺の妻なんだって。
妻!
なんて素敵な言葉なの!
*
言われ続けた・・・娼婦、妾、愛人。
閉じ込めて、好き勝手なやり方で好き勝手な場所で抱いた、拾ってきた人形のように・・・今更壊れたって構わないって・・・マリアのように踏みつけて。
目を逸らすことも涙を流すことさえも禁じた。
鎖を引きちぎって、絃も切らせた。
気に入らないことがあれば問答無用で打って、叩きつけて・・・。
結局あの夜以来乱暴も侮辱もなくなったけれど、それでもずっと怯えていた、顔色を窺っていた・・・だって・・・人間の本性なんて・・・変わらないもの。
愛しているなんて、許してほしいなんて・・・あんな嘘つきの口から出る言葉を誰が信じるの?
そう! その上・・・騙していた。
本当のことを黙って、従わせていた、ずっと。
ヴェーラが教えてくれていなかったら・・・あの襲撃の時だって逃げ出すことはできなかった。
こんなふうにアレクセイと巡り合うこともできなかった。
なんてひどい人なの。
自分が苦界に落としたくせに、私を人間として扱わなかった。
有り余る宝石やドレスを与え、夜会や劇場に連れていけばそれで満足だろうって。
使用人も部下たちもみんなみんな、憐れんで見ていた、蔑んでいた、嘲っていた。
娼婦として扱われて、そう見られて・・・私、そうなってしまった。
そのうち、彼を待っている自分がいた。
幾日か訪れないと寂しくて体が疼いて・・・。
・・・何度思っただろう・・・もしこの隣にいるのがクラウスだったらって。
彼と休む時、夜着は許されなかった。
冬でも・・・いいえ、冬だからこそ寄り添って温めあって眠った。
腰に回された手、もう一方は時折髪を梳き、寝息がかかった。
一刻も早く湯あみしたいのに、あと何時間このままでいなくてはならないの?
夜の間に彼の匂いが皮膚に染みついてしまうようだった。
息をするたびに体の奥底まで入り込んできた。
この男がクラウスだったら・・・。
思おうとしても、いつも駄目だった。
そうよね・・・まったく違うのだもの・・・あの男とクラウスとは。
うとうととしながら夜明けを待った。
あと一、二回受け入れれば、そうしたら帰ってくれる。
そんな日が四年も続いて・・・。
取り戻せるかもしれない、自分を・・・アレクセイと一緒ならば。
でもね、アレクセイのほうはみんなに、女と暮らし始めて変わったって言われるのが嫌らしい。
私は、変わったって言われてほしい・・・身綺麗になって、もう少し太って。
その為にも頑張らないと。
* * * * *
(3)
このところようやく家事も何とか様になってきて、気持ちにも時間にも余裕が持てるようになった。
アレクセイは相変わらず忙しく、朝も夜もない、都にいても週に二回帰ってこられれば多いほう。
地方に行く時はひと月も不在のこともある。
それはそうよね、彼には家なんて必要ないんだもの・・・私のために帰ってきてくれるのよ。
そして家にいる時だって寸暇を惜しんで本や書類を読んでいる。
「勉強嫌いだったって聞いたけれど?」
「そうか? まあな、ガキの頃とは・・・違うさ」
「目覚めたのね?」
「そうだな・・・労働者は・・・一日中働いてる、それも劣悪な環境での重労働だ。その後、疲れた体に空腹と眠気を抱えて職場の学習会や討論会に参加している。すぐには一文の得にもならない、その上危険な集会にさ。なあ、学校に一度も通ったことがない連中が幹部が読むような本を諳んじてるんだぜ。ぞっとしたんだ、この俺に何の価値があるんだって。俺達は労働はせず、活動だけだろ。何にも生み出していないんだよ、そのままじゃさ。だからこそ彼らを導ける強力な灯であり続けなくてはならないんだ。こんな意義のある勉強なら俺だってやるよ」
*
手伝いたい
そう言ってみた。
でも、アレクセイは私を関わらせたくない考えだった。
「同志でなくても、協力しただけで十分逮捕の理由になる。第一、活動は"正しい"ことばかりじゃない。むしろその逆だ」
それは、わかっているつもり。
テロルだって誘拐だって強盗だって、やっていることは知っている。
殺人も裏切りも粛清もつきものだろう。
皇帝側も革命側もやっていることは同じ・・・ただ、今、権力があるかないか、それだけの違い。
でも、私の手も血塗れだって知らない彼にとっては、及び腰になるのも無理ない。
「手伝いたいの。ガリーナが言っていた・・・もし思想により近づけたら、もっと愛せる、って」
「おいおい、そんなことをガリーナが」
「私ができることはね、乗馬と射撃と、ああ、ピアノも・・・」
アレクセイが鼻で笑った。
「失礼ね、使いっ走りくらいできるわよ。それから、言葉・・・。フランス語と英語は完璧ね。勿論、ドイツ語とロシア語もウクライナ語も、それにイタリア語とスペイン語もそれなりに。必要ないでしょうけれど、ラテン語も」
「大丈夫だ、間に合ってる、お前の力を借りなくてもな」
「どうして? あなたの役に立ちたいのに」
「・・・無関係でいてくれ、俺の思想とは。今のままで十分だ」
「どうして? あなたの妻なのよ?」
「・・・だからこそ、だ」
「?」
「あのな、兄貴はもういないが、もしあのまま生きていたら、多分、そのうちに袂を分かったと思う、アルラウネとも俺とも。それも憎み合って」
「そんなこと・・・」
「そういう仲間を散々見てきた、兄弟も親子も・・・夫婦も、な。活動は・・・情が入り込む余地なんかない、理論だけで繋がっているんだ。そこにわずかでも亀裂が生じれば肉親でも切り捨てる。いや、敵同士になる」
「・・・私は・・・活動がしたいんじゃない。そんな難しいこと、できないもの。ただ手伝いたいだけなの。洗濯や食事を作るのと同じように、ただ手伝いたいだけ。ガリーナがやっているようなことでいいのよ。お願い」
*
「無理はするな」
「ええ」
「書類は持っているだけで逮捕されるんだからな、言った通り、危ない時は迷わず処分しろ」
「ええ、わかった」
こうして、いろんな書類の翻訳をすることになった。
ロシア語からドイツ語へ、フランス語からロシア語へといった具合に。
初めて知る専門用語が多くて最初は戸惑ったけれど、次第に慣れていった。
結果的には翻訳しながら学んでいることになる、彼の思想を。
それが何より嬉しかった。
思えば、小さい頃から何ヶ国語もやらされて大変だったけれど、これで報われた、役に立った。
初めて人生を肯定されたみたいで、これも嬉しかった。
* * * * *
(4)
いざとなれば暖炉の火で処分できるよう少しずつに分けて、作業を進めていった。
できたものを委員会に届け、また新しい仕事を渡される。
隠れ家に行くこともあれば、同志が営む商店で渡すこともある。
いずれにしても尾行に気をつけ、周囲に溶け込んで自然に行わなければならない。
考えようによっては結構な緊張が強いられることだけれど、役に立っている、という新しい刺激に私は満足していた。
*
そして今日、もう一つの幸せがやってきた、大きな大きな幸せが。
赤ちゃん・・・。
あれから二年、私の体は頑張ってくれた。
でも・・・ちょっと怖い。
喜んでくれるだろうか?
こんな時にって思わないだろうか?
そんなことは杞憂だった。
もちろん最初は驚いた。
それは、自分が父親になるってことに。
そうよね、あなたはまだまだ自分自身が子どもみたいなものだもの。
「大丈夫、私が二人とも育ててあげる!」
「こいつ!」
コツンとやられてしまった。
* * * * *
妊娠中の心得や準備については先輩のガリーナが頼り。
自分のことのように喜んでくれて、どんな赤ちゃんかしら、女の子ならきっと金髪ね、男の子なら・・・って。
あの男との子どもは・・・辛かった。
まして二人とも神に召されてしまった、赤ちゃんに罪はなかったのに。
でも今度こそは守ろう、強くなろう。
「名前は何がいいかしら?」
「そうだな、男ならミハイル? アレクサンドル? 女ならリュドミラ? イリーナ?」
「それって、今まで付き合った人じゃないわよね?」
「こいつ!」
またコツンとやられてしまった。
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