翡翠の歌

02 罪




オストロフの支部から緊急連絡があった。
以前から何かと組織を逸脱した行動をとっていた連中が列車を襲撃し、皇族を拉致したと。
あのユスーポフ侯爵の夫人、皇帝の姪だ。

大抵のことには動じない幹部達が血相を変えて対応を協議している。
まだまだ準備の整わない今、全面戦争では我々は壊滅だ。
はやる気持ちはわかるが、劣勢の側こそ統制のとれた戦いをしなければモスクワの二の舞だ。

早速現地に向かう一行に俺も加えられた。
元貴族だから皇族相手に何か役に立つのではとの判断らしい。
貴族って言ってもな、社交界には縁がなかったし、見聞の為と兄貴に無理やり連れられて数回冬宮や離宮に行ったくらいでどう役に立つかはわからんが、一大事だ、自分にできることは何でもやるさ。


*     *     *     *     *



ヤルタから戻る途中、アデール様と間違えてさらわれた。
二人はもう離婚していたのに・・・。
活動家は活動家でも少人数が組織を外れて勝手に計画したらしく、下調べも不十分だった為に誤ったのだ。
それだけに襲撃方法は粗暴で、ヴェーラや護衛の人たちがどうなったのか心配だった。

どこか・・・小さな町の隠れ家のようなところでやっと別人と気づき、仲間割れの大喧嘩の挙句、持て余して殺されそうになっていたところに、話を聞きつけた上層部の人たちが到着した。

その中に、クラウスが・・・まさかクラウスがいたなんて。

拘束されている部屋にも薄い壁を通して声が伝わってきた、秘密を守るため始末するべきだとか、知り合いならスパイとして侯爵の元に戻したらどうかとか・・・。

やがて、どう説明したのか、説得したのか、何か条件があったのか・・・指示があったのか・・・クラウスは何も話さず私を連れ出し、二人で少し離れた町の、たぶん協力者の隠し部屋に、鉄道襲撃の騒ぎが落ち着くまでじっと潜んでいた。

会話はまるでなく、私の視線を避け、難しい顔をした彼は時折出かけ、私はただ待っていた、彼が戻るのを。
私のもとに帰ってくるのを、帰ってきてくれるのを、ただ。



感激の再会なんて、やっぱり夢だったのね。
とうの昔に追い払ったおかしな女が何の因果でまた目の前にいるのか。
そうよね、そう・・・わかっていたこと、ずっと。

殺してほしい。

そう命令されたのでしょう?

敵の妾になって穢れ切った体、心。
再会しても触れることはできないと思ってきた。
だから、もういい、もう十分。
翠の森の奥であなたが撃ってくれたら、それでいい。


*     *     *     *     *



「モスクワに?」
「鉄道が回復した。身分証も手に入ったからな」
「・・・一緒に?」
「そうだ」
「・・・殺さないの? ここで」
「馬鹿なこと言うな。なぜ殺す?」
「だって、私」
「俺が保証したんだ、心配するな。とにかくここじゃ目立ってかなわん。取り敢えずモスクワに帰るぞ」


*     *     *     *     *



モスクワの下町・・・一人暮らしのアパートの部屋・・・でも、ここにはあまり帰ってこないみたい。
それに・・・いつでも逃げられる為なのか、物は少なくとても殺風景で、そう、聖ゼバスチアンの学生寮の部屋に似ている。
椅子を勧めてくれた、お茶を淹れてくれた、あの秋の日の夕刻と同じように。

しばらくの沈黙の後、クラウスは静かに話し出した。


「お前に確かめておきたいことがある、大事なことだ・・・今ならドイツに帰らせることもできる。この国は危険だ、まもなく動乱が起きる。ドイツのほうが安全だ」
「・・・帰りたくない、帰れない・・・」
「なら侯爵家に戻れ。 非合法の活動家といたら今日食べるものにも困るぞ。それどころかいつ逮捕され投獄されるかわからん」
「・・・戻りたくない、絶対に・・・」
「・・・特別車両に警護の兵士・・・あいつはお前のことを・・・。お前も・・・当たり前だ、な。今更俺に何を言う資格はない」
「・・・」
「スパイ活動なんぞしなくていい。俺のことは忘れて、自分の安全だけを考えろ」


辛いけれど・・・否定はできなかった、クラウスがその言葉の裏で望んでいるように、きっぱりとは・・・。
愛・・・だけどあれは・・・性愛。
彼は強い私は強いられ、魂が通うことのない、ただの。
そこから命を絶ってでも逃れられなかったのは、私なりにクラウスを守るためだった。
でも・・・それなら・・・クラウスが死んでしまったと知った時、私も死ねたはず・・・。
できなかった、もう・・・私・・・ただの・・・はずなのに・・・。
ああ・・・こんなことを話してどうなるというのだろう、二人ともが惨めになるだけではないか。

あの時、彼は言った、耳元で・・・確信を持って。


お前が本当に女になったということだ、私の手で。もうあの男はお前を受け入れまい


彼にはわかっていたのだ、こうなることを。
わかっていて・・・私を・・・女に・・・したのだ。
例えいつの日か、万が一再会したとしても、決して受け入れられることのないように。

酷い・・・酷い人・・・。


*     *     *     *     *



彼の唇が別れを告げるのを見るのが怖くて、私はずっと下を向いていた。
あんなにも求めてきたクラウス。
ほんの少し手を伸ばせば届くのに、今はシベリアより遠くに離れているように思える。
返事が怖くて名前を口にすることもできない・・・禁じられても心の中で幾万回も呼んできたのに。

でも・・・不思議と気持ちは次第に平坦になり、囚われ人が全てを諦め、神の世界だけを見て平然と刑場に引かれて行くように、私は静かに告げた。


「侯爵家に、戻ります」
「・・・わかった・・・サンクト・ペテルブルクまで・・・送る」
「大丈夫・・・モスクワのお屋敷を知っているから、自分で行ける」
「そうか」
「安心して。あなたのこと・・・あなたたちのこと・・・絶対に言わない」


本当は死ぬつもりの私を止めさせないために、精一杯の笑顔を作って立ち上がった。
最後にせめて、と、彼を見ると瞳が夕陽に深く輝いていた、まるで琥珀のように・・・。
あの日と同じ・・・キュンとなった。
これで十分、思い残すことは何もない・・・。
私は彼の役に立ったのだから・・・あの苦しみは報われたのだから。





出て行こうと扉へ数歩踏み出した時、後ろから抱き締められた、最初は包むようにおずおずと柔らかく、そして次第に強く。
彼が穢れてしまいそうで、振りほどこうとしたけれど・・・。


「許してくれ」





「俺の罪を許してくれ」


あなたの罪?  あなたに何の罪があるの?  罪があるのは私よ。


「お前が俺の為にあいつに抱かれていたと知っている。屋敷で会わせた、何の酔狂か、思い当たるのはそれだけだった。当然死刑と思っていたが終身刑になり、死の監獄からアカトゥイに移され、看守に金が渡っているらしいこともわかった。ずっと・・・お前が助けてくれていたんだな、言いなりになることで。だが脱獄した俺は、お前を救い出すことができなかった。いいや、違う。放っておいたんだ、危険を理由に。監獄に来たあの男の部下が言った、お前は何不自由なく暮らしていると・・・あいつの愛人になって幸せに・・・自分への言い訳に、そんな言葉を信じていた、信じたかった。が・・・幸せなら・・・俺を忘れたなら・・・曲名なんか尋ねるもんか・・・。俺は卑怯で弱い人間だ。お前に想われる価値はない。第一・・・あれからもう四年だ・・・あいつを愛しているなら、俺には止められん。俺にはお前を幸せにできる権力も財産もない・・・愛することしかできない」


涙が・・・久しぶりの涙が溢れてきた、もう枯れてしまったと思っていたのに。

あなたに愛されること・・・望めない・・・穢れた女なの、身も心も。
ただ、あなたの無事を・・・そして、せめて遠くから一目・・・それだけを求めてきた。
遠のく記憶の中で、辱めの日々の中で、ずっとそれだけを。

深い口づけを長く交わしたあと、我に返った。


「ユリウス?」
「ごめんなさい、駄目、いけない!」
「やはりあいつを・・・」
「いいえ! いいえ、違う! 絶対そんなことはない! 違うの! 汚れてしまう、あなたが!」
「汚れる?」
「汚れてしまう! 数えきれないほど抱かれた! 嫌だった、本当に! でも、あなたの命と引き換えだって・・・機嫌が悪いと、ぶって、床に叩きつけて、娼婦だって罵って・・・宮廷や夫婦の諍いの憂さを私で晴らしていた・・・卑劣な男だった! でも・・・でも・・・私・・・」
「いい、もう何も言うな!」
「いいえ! 嘘はつきたくない! あなたが亡くなったって知って・・・それなのに私・・・彼を待っていた、彼が訪れるのを! 抱くのを! 娼婦なの! 私! もう、そうなってしまった! 汚れるわ! 離して! 戻ります、あの男のところに! 私に相応しい男のところに!」
「ユリウス! ユリウス!」


息ができないほど強く抱きしめられた。
もがいてももがいても振りほどくことはできなかった。

あの男と同じ、強い強い力。
でも・・・違う。
熱くて優しい何かが・・・私を包み込んで、興奮した心を静めていった。


「それでも・・・生き抜いてきたのは・・・俺に・・・こうして・・・会う・・・ため・・・だろう? 会えたじゃないか! この広い国で!」


そう、奇跡・・・神様が叶えてくれた。


「生き抜く手段は・・・綺麗事じゃあ済まないさ・・・嵐をやり過ごすのも、動かずじっと耐えるのも・・・闘い方の一つだ。いや、むしろそのほうが・・・強い意志がいる。未来を見失わない信念がいる。俺もそれをシベリアで学んだ。ユリウス・・・お前には・・・俺が生きていることが・・・わかっていたんだよ・・・」


ああ・・・クラウス! クラウス!
でも、もし・・・あなたが許してくれるのなら・・・。


*     *     *     *     *



愛する人に抱かれる・・・やっぱり違うものだったのね。
男女の関係など皆同じ、肉体の快感だけだ・・・彼はそう言っていた。
そうなの?  誰とでも同じなの?

いいえ、今なら違うって言える、自信を持って。
身体の奥底から求め合う、表層的な快感ではなくて、心から求め合うのよ!
あなたにはわからない、永遠に。


*     *     *     *     *



初めて二人で迎えた朝、生まれたての柔らかな陽の光が差し込む中でまた抱かれていた時、クラウスは私の体を覆う鞭の跡と二つの銃創に気づいたけれど何も聞かなかった。
一つはレーゲンスブルクの殺人現場から逃げる時、もう一つはサンクト・ペテルブルクで市街戦に巻き込まれて・・・。
二つ目はともかく一つ目については言えない、アーレンスマイヤ家と皇室に関わることだから。

思えば秘密ばかり。
何も説明できない私を受け入れてくれるのだろうか。
でも彼は心配ないとでも言うかのように、その醜い傷跡ひとつひとつに口づけしてくれた、助かってよかった、と。



無数の鞭の跡・・・。
これについて思った時、不意に涙が溢れてきた。
あの男から与え続けられた苦痛。
監禁、拷問、陵辱、侮辱の言葉、蔑みの目。
幾度ぶたれ、床に叩きつけられたことだろう。
冬の冷たい床で純潔を奪われたあの夜。
塔や図書室で護衛に聞かれながら抱かれた日々。

それにも増して苦しかったのは、次第に私の体は彼を求めるようになったこと。
あの聖夜を境に乱暴や侮辱は影を潜め優しくなった彼に、気がつくと微笑みかけていた、寄り添っていた。
憎み切ろうと幾度となく努力したけれど・・・。

そんな後悔が募り、声をあげて泣き出してしまった。
クラウスが泣き止ませようとしたけれど、もう堰を切ったように止まらない。
久しぶりに、本当に久しぶりに思いっきり泣いた、涙を流して声を出して。
彼のところでは静かに流すことさえ許されなかったから。


*     *     *     *     *



俺は思い知った。
例えあの男がこいつを愛していたとしても、こいつが愛したことなどほんの一瞬もなかったのだ。
無数の鞭の痕。
なら表面上は癒えてしまった傷、そして見えない心の傷はどれほどだろう。


侯爵を愛しているなら帰れ・・・
満足な生活をしたいなら帰れ・・・


何と残酷なことを言ってしまったのか。
俺の為という理由だけで、それこそ命と尊厳をかけて囚われていたお前に。
闘っていたのは俺だけではなかった、お前もこの四年の間、闘っていたんだ、たった一人で。

悪かった・・・。
許してくれ・・・お前の心を信じ切れなかった俺を。



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