01 蜘蛛の糸
殺そうと思えば・・・殺せた、残りの賊も・・・彼からもらった銃やナイフで。
でも・・・しなかった。
これがあの神父の手先ならば、どんなことをしてでも、例え自害してでも囚われはしなかったけれど・・・活動家だったから。
もちろん彼らにもいろいろある、レオニードを狙い私に復讐しようとしたあの人たちも。
でもただの恨みならその場で殺そうとしただろうし、私相手にこんな大掛かりなことまではしない。
目的は他にあると思った。
銃は手放してしまったけれど、太ももに隠したナイフはそのまま。
まさか"貴婦人"の私がそんなものを身につけているなんて思いもしなかったのか、身体検査もされなかった。
これがあれば、いつでも・・・死ねる、それなら賭けてみよう。
自由への扉が開かれたのかもしれないのだから。
もしそれが・・・死という自由に繋がっていようとも。
* * * * *
ヤルタからの帰り道、列車に揺られながら考えていた、これからのことを・・・幾度考えても答えの出ない問いを。
この三月、ようやく忘れてきた感覚は・・・黒い瞳を見た途端にきっと瞬く間に蘇る、私の意思に構うことなく。
彼に抱かれることには・・・もう慣れた。
不意に後ろから肩を抱かれて身を竦めることも、今はない。
嫌悪感に震え、罪悪感に魘されることも・・・ない。
何も・・・感じなくなってしまった。
いいえ・・・嘘よ。
感じている、彼の与える快楽を十分に・・・そしてそれが彼に一層の快楽を与え返している。
でもこれは愛ではない・・・ただ慣れただけ、堕ちただけ。
クラウスを想う時のときめきをあなたに感じることはない、今でも。
もうこの世にはいないけれど・・・それでもクラウスは私を熱くできるの、キュンって。
あなたがどんなに私に贅沢を与え、快楽を、優しさを与えても、私の心は動かない。
・・・動いたら・・・楽なのに。
*
三両を貸切り、ここはヴェーラとアンナとレーナ、両隣には警護の兵が数人。
お召し列車のような造りね。
陛下の囚人の為に彼が用意した走る牢獄。
明日の今頃には都にいる。
着く前に外しておかなければ・・・ゲオルグス・ターラー。
ターラーに不釣り合いな綺麗な鎖・・・何があったのか、これだけは覚えていてくれる、あの夜の、あの・・・。
そう・・・彼に・・・聞いてみようか。
片方だけの耳飾りのこと、夕陽の望める屋敷のこと。
何故、取っておいたの?
何故、買い上げたの?
・・・どうしてあの日、あそこにいたの?
黙って聞き流す?
くだらないことを聞くなって、前のようにぶつ?
でも・・・知って、その答えを知って、どうするの?
もし・・・もし・・・ずっと・・・あの言葉が本心からのものだったとしたら。
* * * * *
あの夜、寄り添って眠った。
複雑な気持ちだった、やはり彼と私は同類の人間だということに。
人生の目的は皇帝陛下の安寧。
その為には手段を選ばない、血塗れになることを厭わない。
その重圧を少しでも忘れる為に、私はクラウスを求め、彼は私を求めている・・・私は精神の安らぎを、彼は肉体の安らぎを。
そうよ、二人とも。
そうなのよ、結局は。
ただそれは愛ではないわよね、レオニード。
でも彼を責めるなら・・・断罪するならば・・・私も・・・私もクラウスを利用していた?
これまで犯した罪から、これから犯すだろう罪から逃れる為に・・・気持ちだけでも。
そんなこと・・・。
外気に当たりたい、そしてこんな馬鹿げた考えを払いたいと、寝台から起き上がろうとして倒れた、覚えのある、あの腹痛に。
*
どのくらい経ったのだろうか。
目を覚ました時、傍らで彼は両手を組み、頭を垂れて呟いていた、多分、祈りの言葉を。
顔を上げて私を見た瞳に・・・祈りも涙もあなたには似合わない。
「私・・・どう、したの?」
「ただの疲れだ、ゆっくり休め」
「疲れ?」
「そうだ。少し回復したらヤルタの別荘に行くがいい、暖かくて気も晴れるだろう」
「・・・赤ちゃん・・・だったの?」
「・・・」
「駄目、だったのね? また・・・」
「すまなかった」
* * * * *
愛がなくても・・・愛ではなくても・・・人生を共にすることはできるの?
あなたはそれを望んでいるの?
静かに従い、愛しているふりをしていれば、あなたは満足なの? 安らげるの?
クラウスはもういない、だから・・・容易にできるだろうって・・・私次第だって?
その努力をするべきだと?
愛する努力なんて・・・おかしいわ。
愛の為の努力はどんなに辛くても・・・尽くしてきたつもりだけれど。
これからも子どもはできるだろう。
体調も戻ったし、あんな経験をしなければ・・・この世に生まれてくるだろう。
普通の夫婦のように・・・。
それでいいの?
私は・・・それでいいの?
* * * * *
これからまた彼が訪れるのを待つだけの毎日。
彼に聴かせるためだけにピアノを弾き、使うことのない言葉を学んで、抱かれるために体を磨いて・・・自分から彼を求める堕落した人生。
いつまた・・・ぶたれ叩きつけられるのか、ささやかな自由も取り上げられ鎖鍵をされるのか・・・本当は怯えながら、それを悟られないように従って愛しているふり。
そのうちに彼が私に飽きたら・・・誰も・・・彼さえ訪れない人生。
ずっと・・・陛下が亡命されるその日まで・・・来ないかもしれないその日まで。
例え子どもがいても・・・妾との子どもなんて、何の価値もない・・・彼には・・・跡継ぎにはなれないのだもの。
それでいいの?
あの・・・レーゲンスブルクで、聖ゼバスチアンで、私が味わった束の間の自由、ときめき。
私の人生に光が差したのはあの二年にも満たない時間だけ。
これから何十年も・・・私はそれでいいの?
疲れたわ・・・あなたの・・・顔色を窺う生活に・・・。
*
彼といれば、このまま生きていける、食べるものに困ることもなく、暖かい部屋で。
でももう籠の鳥は嫌、嫌なの!
飛び立った途端、鷹に襲われたとしても後悔しない!
声を出させず、隣に逃げられる前にナイフで三人を殺すには?
あの衝立の陰でまずレーナを、それから手招きしてアンナを、最後にヴェーラね・・・後ろから抱え込んで喉を切ればいい。
そのあと、護衛たちを六発で仕留めるには?
一人ずつこの車両に呼び込んで・・・この銃ならそこまでの音はしない。
最初にチトフ大尉、それからチャルーシン少尉。
銃を奪って、残りはまとめて。
彼らは私を殺す命令は受けていないはずだもの、せいぜい怪我をさせる程度にしか撃ってこないから大丈夫。
彼らを・・・私の自由のための生贄にできるのね?
迷っている時間はない、さあ立って!
その時、爆発音に続いた強い衝撃に席ごと放り出された。
庇いきれず半身をひどく打ってしまい、足も挟まれて動けない。
埃や煙にむせ返る。
事故? テロ?
ようやく正気を取り戻し、何とか抜け出すと、破れた窓から数人の男が乗り込んでくるのが見えた。
そっちじゃない、金髪のほうだ、同志! と私に近寄ってきた。
? 私?
活動家なの?
ヴェーラに銃口を向けた二人に発砲した。
「ヴェーラ! 伏せて」
見ると、残りの賊は護衛たちと撃ち合っていた。
まだ弾はある、ナイフも。
でも・・・一瞬、何か・・・それは遠くからの声だったのか雷のような光だったのか・・・。
"この人たちと、行こう・・・"
人生を生きなおしたい・・・例え明日までの命であっても。
鍵の呪縛からも、レオニードの呪縛からも解き放たれて。
そうよ! 葉巻の匂いのする男たちなんて、もういらない!
銃を足元に落とした。
「ヴェーラ、レオニードに伝えて! 私が立ち会わなくても貸金庫は開けられるって!」
「? 何? 何を言っているの?」
「貸金庫は開けられるって! お願い、必ず伝えて!」
そうして新たに乗り込んできた男たちに連れ出された。
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