翡翠の歌

08 鈴蘭




(1)



今日はお前の誕生日だ。

あの屋敷はもう閉じた。
如何に夕陽の美しい日であっても、私が立ち寄ることはない。
一年前もお前はそばにいなかった、奴らにさらわれ生死すら不明になっていた。

どうしている?
生きているのか?
どこで、どうやって・・・。





こう言っては何だが・・・離婚と異動で警備態勢も最低限となり、都での采配範囲が増えた。
故に監視や密告の恐れも減った。

お前が行方不明、いや、生死不明であることは陛下には申し上げていない。
鍵の在処も開け方も知っているのだ、わざわざご懸念を招くこともなかろう。
御下問あれば、精神不安定のためにラドガの別荘に監禁していると、不本意ではあるが偽りをお答えするつもりだ。
もっとも・・・このところ謁見の機会もない、が。



ヴェーラに聞いた。
いずれ私に殺される・・・そう思っていたそうだな。
その不安のためにようやく取り戻したバイオリンをストラーホヴァ夫人に渡したと。

確かに・・・散々暴力を振るった。
ひどい言葉で侮辱した、脅しもした。
保護命令もある。
だが・・・殺そうなどと・・・捨てようなどと・・・考えたことは一度もない。
信じられぬだろうが、な。





あの数年、誕生日には宝石を贈ってきた。
いや、何かと口実を設けては贈ったか・・・。
宝石箱には山ほど残っている、手付かずのまま。

お前には興味がない、それはわかっている。
例え贈り主が私でなくともそうなのだろうか。
不可思議なものだ、女など同じだと思っていたが。


数少ない笑顔を思い出す。
まして笑い声など、聞いたことがあっただろうか。
ああ・・・いつだったか、私に気づかずにリュドミールと戯れていた時の屈託のない・・・。
情けないことだ。


去年も変わらず用意した、そして今年も。
しなければ、お前が死んでしまったと認めるようだからな。

今年はダイヤとサファイヤ、トパーズで鈴蘭を模した首飾りと冠だ。
なかなかよいデザインだ、間違いなくお前に似合うだろう。

なぜお前はここにいない?

夢見など気にする私ではないが・・・あれは、あの世での二人の姿だったのか?
やはり、すでにお前はいないのか?


*     *     *     *     *



(2)



港の反対側の地区に越してきた・・・と言っても夜逃げみたいな慌ただしさだった。
親しい同志が逮捕されたので万が一の用心のために、近所の人たちに挨拶することもなく。
まあ、挨拶なしって言うのには慣れているけれど! 
レーゲンスブルクからも彼からも・・・逃げてきたもの。

相変わらず・・・これからもずっと敵国の不法入国者だから、些細な落ち度も許されない。
憲兵に身分証明書の偽造を見破られたら・・・おしまい。
普通の市民のふりをしている密告者もいるかも知れないもの、気が抜けない。

悔しいけれど、どうしてもなかなか生粋の、それも庶民のロシア人にはなり切れない。
アレクセイと話し合って、ウクライナからの移住者という身の上にした。
ウクライナ語を適当に混ぜて話せば辺境の地の訛りに聞こえて、その中にうっかり混じってしまう上流の言葉も誤魔化せる、たぶん。

でもこの間、自分も同じ出身だという店主から話しかけられて緊張してしまった。
何年も前の、しかも子どもだったから記憶も曖昧で、と言い訳しながら伯爵に教えられた通りのことを小出しにして切り抜けた。

傍らで聞いていたアレクセイは不思議そうだった。
そうよね・・・彼が知っている私は、数年前、初めてロシアに来たドイツ人。
それにしては不自由なく話せるし、まして何故ウクライナ語も?


侍女の一人がそこの生まれだったからいろいろと教えてもらったの、時間だけはたっぷりあったから。それに、子どもの頃から言葉は得意なのよ


信じたかどうかはわからない。
でも私の正体なんて想像もつかないでしょうから、信じるほかはない。
だって・・・打ち明けることは・・・絶対できない・・・今は。

ごめんなさい。


*     *     *     *     *



このところ作業が増えてきた、それも機密に属するような内容のものが。
多分・・・信用されたのだろう、同志たちにやっと。
嬉しい反面、責任がより増したことに緊張する。

私は本当は・・・信頼に相応しい人間ではない。
あの・・・隠し財産のこと、もちろん絶対、話したりはしないけれど。
単に鍵を預かっている人間というだけではない。
幼い頃から陛下への忠誠を誓わされてきた、繰り返し、繰り返し。
封じても意に反して頭をもたげてくる。
だから・・・アレクセイが命を懸けている思想を作業を通じてほんの少しだけ知って共感する部分も多いけれど、でも信奉することはできない。

ねえ、アレクセイ。
ごめんなさい、私は同志にはなれない・・・ただ、あなたの役に立ちたいだけ。





小さなランプ一つでは少し暗くて、つい夢中になっていると目が疲れてしまう。
その時は窓から通りを見下ろす・・・もしかしたら今夜は帰ってくるかも知れないって思いながら。
風や雨の日はガラス越しに。

あのお屋敷のように上等ではないから、私の姿は少し歪んで映る。
でも・・・何て幸せそうなのだろう、この女性は。
服は古着で流行も何もないけれど、宝石の欠片もないけれど、こんなに幸せに満ちた自分を見たことがない、これまでの人生で。



ああ、アレクセイ!  お帰りなさい!  無事で良かった!  シチューができているわ、ちゃんとガリーナに味見してもらったから大丈夫! あら、これ!  私に?  指輪!  かわいい!  鈴蘭ね!  貝細工の! ぴったりだわ!  ありがとう! でもどうして?  あなたが指輪なんて!  え?  誕生日?  ああ、私の?  すっかり忘れていたわ!  そうね、もう二十二ね、私。覚えていてくれたのね!  忙しいのにありがとう、本当に嬉しい!  幸せよ、ありがとう!



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