(1)
教え込まれた偽りの経歴をただ繰り返すのみで、何も聞き出せなかった。
無論、奴が本領を発揮すれば可能だろうが、廃人にするわけにはいかぬ。
半ば気を失った彼女を長椅子に横たえ乱れた髪を整えてやりながら、ふつふつと湧き上がってくる得体の知れぬ怒りを感じていた。
何故、恋など・・・。
選りに選って逃亡中の反逆者に・・・。
弟はともかく、兄とは十分に面識があった。
あの年で音楽院の教授に招聘され、管弦楽団の次期コンサートマスターに決まっていた。
由緒ある侯爵家として、陛下の庇護を受けた音楽家として皇室に忠誠を尽くすべき立場でありながら、あろうことか活動家どもの仲間となり反逆罪で逮捕、銃殺刑に処せられた。
そして・・・弟は国外へ逃亡した。
まさかお前と・・・お前と同じ街に・・・同じ音楽学校に・・・。
何と言う巡り合わせなのだ。
本来接点のないはずのロシア人とドイツ人、反逆者と皇室の秘密を預かる者。
せいぜい一年だろう、共に学んだのは。
その僅かな時の重なりに・・・何を語らったのだ?
約束したのか?
何か・・・将来を。
・・・抱かれたのか?
そうでなければ・・・役目を放り出し、命を捨てるも同然の密入国などするわけがない。
いや、そもそも留学中にこの地で懇ろとなり、ドイツで・・・故郷で会おうと示し合わせていたのではないか?
このような・・・このような堂々巡りの・・・私としたことが!
明後日戻られる。
かような事態にどれほどお怒りになるか。
父上から守らなければならぬ、私がお前を任せられるようにせねば・・・どんな事情があろうとも。
* * * * *
(2)
知られてしまった、クラウスのこと・・・クラウスを追ってきたことを。
どうしよう、どうしたらいい?
聖書と彼の服を抱きしめて、ただ泣くしかできなかった。
*
昼下がり、赴任先から戻ってきた伯爵。
以前と同じ、そして息子と変わらない厳しく冷たい目。
これまでのことをクラウスの話も含めて説明を受けたのだろう、招き入れた私に呆れた口調で詰問してきた。
「父親から引き継いだ重大な役割を忘れて恋に現を抜かすなど言語道断だ。まして反逆者などに! そなたは十分教育されたのではなかったのか? 死んだらどうするつもりだったのだ? 敵対勢力に捕らえられたらどうなると思ったのだ? 陛下の安寧を脅かしたのだぞ!」
答えられない。
そんなこと・・・考えていなかった。
唯一の希望だったクラウスを追い求めただけ。
「まったくアルフレートもとんだ出来損ないの娘を後継者に見込んだものだ」
「懸命にやった! あの酷い家で! あんな酷い街で! 一人で! 誰も助けてくれなかった! 何が皇帝陛下よ! 全部私に押し付けて! 陛下の為なんてもう嫌!」
「口を慎め!」
平手打ちを受けて床に叩きつけられた。
意識を失いかけながらも伯爵の言葉を聞いていた。
「ではこの不始末の償いは当主にしてもらおう」
そんなことはさせない、お姉様を巻き込むわけには。
「案外と・・・甘いんだ。本物の鍵をあんな無防備な屋敷に・・・置いてきたと思っているの?」
「すり替えたと言う訳か。何の為に? 己の欲か?」
「私が命をかけて・・・手を汚して守った鍵よ! 先生やお姉様から! 誰にも渡さない!」
「なるほど。だが拷問にかけられてもその勇ましさは続くかね。私も旧友の娘に惨いことはしたくない。今のうちに在り処を言いなさい」
「・・・筋金入りの活動家でもひと月で気が狂うって言っていたけれど・・・聞き出して話が本当かわかる前に私が狂ったり死んだりしたら、もう鍵は見つからない。それでよければそうするがいい!」
「待ちなさい」
彼が再び打とうとするのを制した。
「今夜はもうよい。部屋に下がりなさい」
気力を振り絞って立ち上がり、外に出た。
心配だったのだろう、ヴェーラが駆け寄って来た。
「大丈夫? 血が出ているわ。口の中を切ったのね。部屋で手当てしましょう」
「大したこと・・・ない、大丈夫。ありがとう。でも一人にして。お願い」
* * * * *
「さすがアルフレートの娘、と言うべきか。一筋縄ではいかんな」
「しかし父上、本当にすり替えたのでしょうか。苦し紛れの出まかせでは」
「そうだな、そうかも知れん。だがまあ焦る必要はない。あのような小娘、我らの元に置いておけばいずれ分かる。ともかく明日拝謁して御報告し保護命令を頂こう。あの娘のことは・・・お前に任せる。監視を怠るな。そして今一度手の者にアーレンスマイヤ家を探らせるのだ」
* * * * *
(3)
「奴はお前が男と偽っているとどうして気づいた、お前が言ったのか?」
「・・・言ってなんかいない、何故なのかわからない」
「今更誤魔化すな」
「本当よ、わからない。でも他にも知っていた友人が・・・もしかしたらあと一人も・・・侍女だって。無理だった、もう。どう努力したって」
「・・・では目的は? 理由は? 偽っている目的をどう話した?」
「わからない、どう思っていたかなんて、私には」
「理由を尋ねたはずだ」
「だって・・・最後の最後まで知っているなんてわからなかったから。最後の別れ際まで」
「・・・我が国との関係には?」
「想像もつかなかったと思う」
「ではお前は何故奴の素性を知った?」
「本当に偶然。お兄様の写真を見て、そこに名前があって・・・ロシア語でロシアの名前が。それで彼が・・・少しだけ話してくれた」
「・・・何を・・・約束した? あの男と何を約束したのだ?」
「約束? 約束なんて・・・していない」
連れて行ってくれるって。
置いていかないって。
「まさかあてもなく追ってきたなどと、私が信じるとでも思うか?」
「・・・」
「謀反人が、それも亡命先においても反逆活動を続け帰国して事を起こそうとしている謀反人が、写真を見られただけで素性を明かすか? 疑われただけで始末するのが定石だ。奴が躊躇しても仲間が許さん。お前に利用価値がない限りは、な」
幾度繰り返しても、この男にはわからない。
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