翡翠の歌

02 籠の中へ




(1)



何故あの少女がここに?  幻か?



木々の間から金の光がバルコニーに立つ私の視界に飛び込んできた・・・舞い散る雪片をものともせず。

ドイツにいるはずだ。
帰国して間もなく父親が死に、鍵を引き継いだ。
もしや何か不都合でもあったのか。
いや、それなら直接来ずとも連絡方法は教えてある。
第一、あの伯爵がいるだろう。



視線を遮り、憲兵が労働者を連行していく。
憎むように遠巻きに見る民衆。
その騒ぎに彼女が振り返った時、憲兵目がけ発砲があった。
銃撃戦が始まり、直後蹲るのが見えた。





客用寝室で治療が始まった。
黒く染みた軍服を脱ぎ、改めてその量に気づいた。
速やかに止血したものの、急激に蒼ざめていったのも頷ける。

傷は右腕の一箇所で骨も筋肉も外れており、大事には至らぬと言う。
それより出血の影響のほうがありそうだ。
興味深いことに、古くない銃創と恐らくは刃物による裂傷があると。

天使に似つかわしくない印・・・。



国家機密に属するゆえ、接触する人物は厳しく制限せねばならぬ。
事情は説明せず、ヴェーラに付き添いを指示した。
突然運び込まれた少女にリュドミールは興味津々で、時折覗きに行っている。


*     *     *     *     *



(2)



「ああ、気がついたのね、よかったわ」


目を開けると、長い黒髪の女性が心配そうに見つめていた。
隣には男の子・・・とても驚いた表情をしている。


「ねえリュドミール、お兄様をお呼びしてきてちょうだい」


リュドミールと呼ばれたその子は、ぱっと駆け出て行った。


お兄様?
誰?
ここは?
どうして?





起き上がろうとして痛みが走り、倒れ込んでしまった。


「まだ無理よ、傷口が開いてしまうわ」


傷口?
ああそうだ、憲兵と民衆の小競り合いに出くわして、次の瞬間ものすごく熱い痛みが・・・。
撃たれたのだ、あの時と同じ痛み。

誰かに助けられてここに?
誰?


「私はヴェーラ・フェリクソヴナ・ユスーポワ、あなたは?」


答えられない、あなたが何者かわからないから。

黙っているとロシア語が通じないと思ったらしく、フランス語でゆっくりと繰り返したけれど、それでも無言の私を見て困った表情を浮かべた。
聡明で善良そうな女性、少し年上?

そこへその"お兄様"が、さっきの男の子の手を引きながら入ってきた。


「名前は聞くまでもないな、ユリウス・レオンハルト」


えっ?
なぜ知って?  この人は・・・。


「二年ぶりだ」


ああ、あの軍人だ、陛下に拝謁した時の。
侯爵の息子だと紹介された。


「お兄様はご存知でしたの?  この方は?」
「詳しく知る必要はない。彼女はお前とアンナだけで面倒を見ろ。他の者に接触させるな。使うのはフランス語だけだ」
「あの、名前は?  ユリ・・・ウス、ですか?」
「・・・その名は忘れろ。マフカでいい、旅券通りに」
「待って! バイオリンは? 鞄は? 待って!」


聞こえていないみたいに振り向きもせず出て行ってしまった。


「あの・・・バイオリンを知りませんか? 持っていたはずなのですけれど」
「ごめんなさいね、あなたの持ち物は全部、兄が管理していて・・・。でも大丈夫。あの人は軍人だし頭が切れ過ぎて冷たいところがあるけど根は優しい人よ」


*     *     *     *     *



(3)



ずっと続いていた熱がようやく下がってきたある日の午後、まだ痛む中、書斎に呼び出され、大きな机を挟んで向かい合った。

怖い、この人・・・。
前に会った時はこんなふうには思わなかった。
まっすぐに見つめる黒い瞳、射るようだ。

ふと思い出し、左手を見た・・・あ、あの指輪は?
彼も気づいたらしく、これか?  と傍らの抽斗から取り出して机の上に置いた。
思わず立ち上がり手を伸ばしたけれど、一瞬早く彼の手の中に収まってしまった。


「毒薬か・・・。よい心がけだ、ユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤ。だがここでは必要ない、私の屋敷だからな」


眩暈がして椅子に沈み込み、彼の話をただ聞いていた。


「お前の荷物はホテルから持ってきておいた。怪しい物もないようだから、あとで渡してやる。これは?」
「・・・お母様の・・・形見」
「形見、か・・・」


そう言うと、私の手の届くところに置いた。
また取り上げやしないか一瞬警戒して見つめ、そっと手にした。

お母様・・・。





「・・・あの・・・バイオリンは?」
「お前はピアニストだろう?  何故バイオリンを持っている?」
「・・・友人の・・・形見・・・」
「友人の?  わざわざこのロシアへ持ってきたのか?」
「そう!  大切なものなの、返して!」
「・・・それほど大切ならば・・・暫く預かっておこう」
「返して!  私のよ!」
「おとなしく従っていればそのうち返してやる。だが旅券や金は渡せぬな。お前には不要だ」
「?」
「お前は当面ここにいるのだ」
「なぜ?」
「愚問だな。偽造旅券による密入国、憲兵に引き渡されたいか?」
「・・・」
「何故ロシアに来た。役割を忘れたか?  もう少しで死ぬところだったのだぞ」


絶対に言えない。
活動家たちはこの国で弾圧されている。
もしクラウスを探しに来たなどと知られたら、同じ容疑で逮捕されてしまう。
何より彼に迷惑がかかる。


「目的は何だと聞いている。私はそう気の長いほうではないぞ!」


嘘を言っても、きっとこの人には通じない。
黙っているしかなかった。





苛ついているのが伝わってきた。
人にこんな態度をとられたことがないのだろう。
落ち着くためか、手にしていた書類に目を通しながら私に聞かせた。


「アルフレートと先妻は病死、後妻は事故死、これはお前の母親だな。更に姉二人の殺害未遂。フォン・ベーリンガー家の生き残りとその祖父、執事の息子による復讐。結局奴らも死んだ。事故死と自殺か」


誰からの報告なの?
間違っている・・・訂正なんかしないけれど。
お父様と前の奥様はアネロッテ姉様の、お母様はヴィルクリヒ先生の殺人。


「長女が家督を、お前が例のものを引き継いだ。次女は行方不明か」


え?  アネロッテ姉様が?
どう言うこと?
私の毒で死んだはずなのに・・・あの夜、おぞましい告白の後で。


「どうかしたか?」
「・・・いいえ」


言えるはずがない。


「ゲルハルト・ヤーン・・・これも失踪か」


反応を確かめるかのように、ゆっくりとその名を口にしながらこちらを見た。
私は・・・忘却の彼方に追いやっていた名を急に目の前に差し出され、つい俯いてしまった。


「ドイツ情報部付きの軍医、正体はイギリスのスパイ。アルフレートは気づいていたのだな?」
「・・・わかりません、私には」
「まあよい。失踪と言うことは・・・始末したな」


思わず溜め息をついた。
あの時のあの・・・ペーパーナイフが骨に食い込む感触が手に蘇った。


「よく生き延びたな、大変だったろう」


え?  この人は私を・・・労って?


「助けを求めてもよかったのだ。連絡方法は教えてあったはずだ」
「・・・夢中、だったから」
「そうか・・・十四、五の子どもには荷が勝ちすぎたか」


その子どもが二人も殺した・・・。


「それで?  それでお前は何故この国に来たのだ?」


貝のように口を噤むしかなかった。


「ロストフスキー!」


隣室に控えていた男が入ってきた。

冷たい目・・・。
この人も怖い。


「私の副官だ。他に数名が常に仕え、加えて大勢の兵士が屋敷を警備している。私の妻は陛下の姪だからな。つまり、だ。逃亡は不可能と言うことだ。もっとも例え逃げたところで正規の旅券も金もないお前に待っているのは不審人物としての逮捕、ペトロパブロフスク要塞での取り調べだ。よいか、あそこの拷問は筋金入りの活動家でもひと月で気が狂うと言う代物だ。おとなしくここにいるのが賢明だぞ。そして次に問うた時には正直に答えろ」


無言を貫いた。


「お前の面倒は妹のヴェーラに任せる。侍女もつけてやる。ロシア語やドイツ語を使うな。一切はフランス語で済ませろ。素性や過去、無論、例の件の口外は許さん。お前の名と身分は拝謁の時と同じ・・・マフカ・アレクサンドロヴナ・ロサコワ、ウクライナの貴族だ。私のことは・・・名で呼べ、レオニードと」


それまで無表情だった部下が最後のこの一言にだけ、ほんの一瞬、反応した様子に気づいた。


「部屋に下がらせろ」





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