(1)
昨晩から邸内が慌ただしい。
理由はわからない・・・でも今日発つはずだった遠征が延期になったらしい。
リュドミールがピアノをねだったけれど音を響かせる雰囲気ではなく、本を読んであげていた。
そこへ乱暴に扉が開けられ、いつにも増して冷たく怒りに満ちた表情の彼が足早に寄って来て、手首を掴み床に叩きつけた。
リュドミールは呆然とし、そして私に近づこうとしたがロストフスキーに遮られた。
「どうやって漏らした!? 仲間はボリシェヴィキか!? 協力者の名を言え!」
矢継ぎ早に詰問されたけれど、何を聞かれているのかわからない。
騒ぎを聞きつけてかヴェーラが入ってきて、泣き出しそうなリュドミールを引き寄せながら抗議したが彼は一顧だにしない。
そこへ馬車の用意ができたと知らせがあり、部下に引きずって乗せられてしまった。
*
少し走ってからある屋敷で降ろされると、地下室で待ち受けていたのは、この前のあの男。
「仲間の名は? どう屋敷から連絡を取った? 他にも内通者がいるんだな?」
知りたいのは鍵の在り処では?
何を聞いているのだろう?
「お前も大したものだ。少しは従順になってきたと思えば内偵していたのだからな。お陰で妨害を受け反逆者どもに時間を与えてしまった」
え? 何? 何ですって?
ああ、そうだ、誤解しているのだ、私を革命家のスパイと。
知らないことはどんな目に遭っても言えないけれど、本当は知っている、誰がスパイかって。
でも言わない、その必要もない、この男に。
「さあ今のうちだ。こいつはな、あの監獄でも腕利きだからな。素直に吐けば少しは楽に死なせてやる」
私はずっと無言を通した・・・それが尚更、怒りを煽るらしい。
男は後ろ手に縛った上に舌を噛み切らぬようにか猿轡も嵌め、何か液体を飲ませ、吊るした。
*
鞭が幾度も振り下ろされ、その度に体は仰け反る。
次第に服が裂け血も滲んできた。
時折猿轡を外し同じ問いをするが、話すつもりがないとわかると更に薬を与え、鞭の餌食にした。
私はただひたすら意識を遠くに持ち続ける。
鞭で埒が明かないとなれば、より凄惨な拷問が加えられるのだろう。
その為にこの男を呼び寄せたのだから。
でも、それでいい。
やっと死ぬことができる。
故国を出て一年、あんな形ではあったけれどクラウスに会えた、こんな広い国で!
そして・・・そう!
私はあなたを死刑から救うことができた!
ああ、初めてあなたの役に立った!
望みは叶ったのだから、もう生にこだわる必要はない。
・・・鍵の在り処・・・。
死ぬにしても、これは教えなければ。
そうしないとお姉様に迷惑がかかる、そんな言葉では済まないだろう迷惑が・・・。
同じ目に遭わせるわけにはいかない、しかも答を持ち合わせていないのだから。
彼が今これを問えば素直に話すけれど、スパイの件で頭がいっぱいでそれどころではないらしい。
どちらかと言えば鍵のほうが重要と思うのに・・・私のほうが冷静なのかも知れない。
*
時々意識が薄れると水をかけられ、また現実に引き戻された。
水は傷口に沁み、冬の冷たさが体の芯まで伝わってくる。
ふと見ると片隅では炭が焚かれていたが私を温めるためでは勿論なく、火箸が赤く出番を待っていた。
あの一年、クラウスを見ていたあの一年は・・・私の人生で唯一の、輝いていた時間だった。
あの家では、あの街では・・・辛いことばかりだったけれど、クラウスに出会えたのだからそれも受け入れよう。
クラウス、クラウス!
今あなたはどうしているの?
辛い目に遭っている?
今私があなたを思うように、あなたも私を思い出してくれている?
ただの知り合いだって・・・でも信じてなどいない、あれは私を守るための嘘。
連れて行ってくれるって・・・あの嘘も。
この男は革命家に愛や恋など価値がないって言ったけれど、私にとってあなたは革命家のアレクセイ・ミハイロフではない、クラウスよ!
クラウス、クラウス!
あなたは生きて! どうか、生きて!
私は解放されて、心はあなたの元に行きます。
* * * * *
(2)
血が滴っている。
こんな少女がどうしてここまでできるのか。
私の問いへの答えは勿論、弁明も抗議も命乞いもせぬ。
言葉を忘れたかのようだ。
・・・死ぬ気だと、わかった。
チトフが許可を求めてきた。
認めれば吐いたとしても明日には死ぬだろう。
死なずとも・・・不具になってしまう。
祈るような気持ちで繰り返し問う。
が、一言も発さぬ、声を聞かせることすら拒否するのか。
お願いだ、協力者を教えてくれ。
お前を死なせたくない。
これ以上傷つけたくない。
例えスパイでも守ってやろう、だから・・・。
方策に窮した私に卑劣な考えが浮かんだ。
「死ぬ気で仲間を守るとは立派なものだ。だがお前がその覚悟なら、まずはあの男を殺そう」
案の定、微かに反応した。
「・・・やめて」
「私の力を見くびるな。囚人の命などどうとでもできる」
「・・・やめて」
「お前が仲間の名を吐かねば、奴に責任を取ってもらう」
薬と痛みによる混濁した意識の下、葛藤しているようだった。
「クラウスは・・・関係ない・・・だから、やめて・・・」
「革命家など同じ穴の狢。私が一言指示すれば、明日にはあの男は犬の餌だ」
「お願い・・・やめて・・・」
「ならば正直に言え、協力者を。今回の出動の詳細を誰に話した?」
彼女は碧い瞳を向けた。
冬の海のような色だった。
「・・・ヴェーラ・・・」
愚かにも言うに事欠いて、妹に罪を着せるつもりか!?
「・・・ヴェーラが・・・エフレムと・・・」
ああ!
そうだ、あいつだ!
底知れぬ悔悟に、血と水とに濡れた彼女を抱き締め、手当てを命じ屋敷にとって返した。
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