翡翠の歌

01 もうひとつの窓




(1)



未だ陰口が耳に入る。
あの若さでツァールスコエ・セロー陸軍親衛隊長に任じられたのは異例だと。



曰く、軍功は認めるが・・・それにしても・・・適任者は他にもいるぞ
曰く、まあ家柄だな、帝国で一、ニを争う大貴族、ユスーポフ侯爵家の跡取りだ・・・もっとも、兄の醜聞のお陰だが
曰く、いやいや、陛下の姪を娶った義理の甥だからさ・・・こればかりは軍人としての能力だけではどうにも争えん



いつものことだ。
これまでも、そしてこれからも、な。





しかし・・・今日は奇妙な"任務"だった。
銃も馬も使わぬ任務・・・父上と共にドイツ人を連れて拝謁したのだ。
それも宮殿の奥、御一家の私室のほど近く、人払いして。
陛下と父上が一言二言交わし、少女は多少ぎこちない辞儀をし、労いのお言葉を賜り・・・それで完了だ。

少女はまだ十三、柔らかく透き通って輝く金髪に白磁の肌、桜色の唇、折れてしまいそうな細い身体だった。
瞳は・・・翠がかった碧色の瞳・・・森の奥にひっそりとある湖のようで、次の瞬間は蒼穹の果てとなる・・・気の強そうな輝きだ。
フランス語は訛りもなくほぼ完璧で、ロシア語もあと少しと言ったところ。

フィンランド人と言えばそうも見え、フランス人と言えばそうも。
何とも不思議な雰囲気を持つ少女だ。



カメンナアストローフスキー通りのとある屋敷まで送り届けた。
そこで教育係の伯爵夫婦と共に暮らしていると言う。
少し前から帝立音楽院に留学し、あと二年で帰国する。

ふと・・・気になった。
あそこは女子教育もしていただろうか?
スモーリヌィ女学院ではないのか?
まあ、私はその方面は疎い。
留学生は受け入れているかも知れぬ。



トロイツキ―橋を渡ったあたりで、足元の耳飾りに気づく。

ヴェーラの?  アデールの?
いや、そうだ、彼女のだ。
予期せぬ揺れに平衡を失った身体を支えた時、取れてしまったのだろう。

返しに戻るか・・・片方がないと役に立たぬものだからな。
だが父上はお急ぎの御様子だ。

握り締めると次第に石が温かくなっていく。





その夜、父上は言われた。

あれはバイエルンの名門貴族の娘で、父はドイツ陸軍情報部の要職にありながら実のところは、我が国、そして我が家と通じていること。
更には、将来万が一にも皇帝御一家が亡命された時の為に巨額の財産を秘密裏に預かっていること。
その任務はいずれ彼女に引き継がれ、ユスーポフ侯爵家の使命はそれを確実に履行させること。


「そなたにも近いうちに詳しく話そう、真の対ドイツ政策・・・そしてアルフレート・フォン・アーレンスマイヤなる人物・・・隠し財産の全容も」


巨額の財産。

存在するだけで周りの運命を狂わせるもの。
まして己のものでもなく、故国にとっては敵のもの。
その重みをあの少女はどれほどわかっているのか。
遂行に不可欠な厳の意志や冷徹さ、ずる賢さを備えているようにはとても見えぬ。

そんな懸念を見透かし、父上はあっさりとこう断言された。


「それを補うのも我々の役目だ。あれは駒に過ぎんからな」


承知しました、父上。


*     *     *     *     *



(2)



それから二年ほどが過ぎた春の終わり。
私は帰路についていた。
郊外の練兵場からネヴァ川沿いを行く。

もうすぐ夕陽になる・・・穏やかな花曇りの・・・。
それに反し心中は憂鬱だった。

昨日からアデールが戻っている。

陛下の妹君の姫。
美人で誉高い。
頭の良さは甚だ疑問だが気位だけは帝国一だ。
決められた結婚・・・ありがたき幸せなはずの結婚。
おかげで私は親衛隊長に、父上はモスクワ市長に任ぜられた。



まあ、貴族の結婚などこんなものだ。
その代わり、果てなく続く話にも付き合わなくてはならぬ。
内容はおよそ建設的なものはなく、悪口に類する噂話、私や生活への不平不満、文句、恨み言・・・あいつにそれらがあるとしたら、この世は嘆息で何も聞こえんだろうに。

が・・・その"女の口"が往々にして政治を動かしているのも厳然たる事実だ。
古今東西の歴史において枚挙に暇がない・・・この北の地でも。







何だ?  今、一瞬、まばゆかった光は?

馬車を降りた。
光の源を探し、少し戻ってみる。



そこに彼女はいた・・・うん?・・・彼、か?
見間違えるはずはないが。

二年前と同じ・・・いや、少し背が高くなり大人びて。
しかし何を好んで男装など。

声をかけるか?  だが何と?
いや、これは己の任務だと都合良く言い聞かせた。
そうだ、この少女は皇室にとって重要な存在なのだ、こんな場所に放ってはおけぬ。

視線に気づいたか、幸いにも振り向いた。
ああ、と戸惑いは一瞬で去り、こんにちは、お久しぶりですと言う。
そしてきまりの悪そうな素振りをしたが私は気に留めずに挨拶を返し、何をしているのか尋ねた。


「ここからの風景が好きなのです。小さい頃見ていたのと似ているから」


そうですか、と気の抜けた返事をし、傾きつつある陽の照らす対岸を眺めた。


「ほら、あの教会!  尖塔に光が!  綺麗でしょう?」


本当だ、確かに綺麗だな・・・見慣れた景色も今日は違って映る。



ロシア語はもう十分だった。
発音も言葉使いも上品だ。
聴く機会はなかったが、きっとピアノも上達したろう。
年の離れた少女に寄り添う私を知る者が見かけたら、陽炎か鬼の撹乱かと目を疑うはずだ。


「これが最後かも知れません。この光を見られるのも」
「?」
「来月にはドイツに帰るのです。やっと」


嬉しそうだった、本当に。


「さあ、お屋敷までお送りしましょう」
「あ・・・でも・・・折角ですけれど、あちらに馬車を待たせてありますから」
「見納めに少し回り道をして行きましょう。私とならば伯爵にも異存はありますまい」


何をやっているのだ、私は。





自分でも何故だかわからぬが、あれはずっと・・・私の書斎にある。
誰も開けることのない小さな飾り箱の中に。

彼女は探したかも知れぬ。
それともすでに新しいものを求めたか。
もう二年も前の話だ。

今日は失念していたが、いずれ再び会った時、愚にもつかぬ言い訳と共に返そう。

しかしそれは・・・叶うまい。


*     *     *     *     *



(3)



やっと着いた・・・久しぶりのサンクト・ペテルブルク。
服装のおかげか危ない目には遭わなかったけれど、見破られないかが不安だった・・・これが最後、男のふりは・・・もう、無理。

木賃宿をとり、旅券と査証を細かくちぎって捨てた・・・。
これで・・・ユリウスは死んだ、ロシアの地で行方知れず。
そう!
もうバイエルンのユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤではないし、ウクライナのユーリ・アレクサンドル・ロサコフでもない。
ただ一度扮したことのあるマフカ・アレクサンドロヴナ・ロサコワがこれからの私、彼に巡り会うまでは・・・。
そうしたら・・・本当の名前に戻ろう、十年も前に奪われた名前に。





そして女物を着て、これからの旅券と査証を鞄の二重底から取り出した。
高いだけはあった、いい出来、入国印も完璧。

緊張するけれど、宝物たちを手にすると心強い。
あの夜、彼に借りた服、彼の匂いがする。
そして聖書。
想い出を挿んである。
何より、このバイオリン、必ず返さないと。


さあ、もう少しましな宿をとって街を歩こう。
一刻も無駄にはできない、クラウスを探さなければ。





耳に入るロシア語が懐かしく、口の中で少しずつ慣らしてみる。
そう、まずはよく行ったあの通りから始めよう。
当てがあるわけではないけれど、偶然出会うなんて期待していないけれど、今はそれしかできないし、何もしないよりはいい。



運河の先からネヴァ川沿いに歩く。

あまり視線を動かすとおかしい。
女一人だから隙を見せず・・・凍った雪に滑らないように・・・。
そんなことに気をつけて、行き交う人々をそれとなく見ながら、ゆっくりと。

でも・・・非合法の活動家って・・・こんな表通りにはいない?
もっと下町の・・・いいえ、裏の路地・・・貧民街?・・・服装ももう少し考えないと・・・。
聞いて回るわけにはいかないし・・・どこからどう手をつけよう。

何て弱気な、始める前から!



そう、ここ、この突堤。
学校帰りに遠回りしては立ち寄った。
あの季節ならそろそろ陽の光が紫苑色の教会に・・・尖塔にかかる時刻。
・・・綺麗だった・・・何か・・・神々しくて、励ましてくださっているようで。

ほんの少しだけ似ている、遠い日に屋根裏部屋から一緒に眺めたあの景色に。
この都で我慢すればお母様のところへ帰れるって、あとちょっとだからって、いつも独り言を呟いていたっけ。

遥か前に思える・・・十二からの三年、通りも建物ももっと広くてもっと高かった。
・・・もうすぐ十七・・・ああ、嫌になるほど最近の話だったんだ。

ずっと待ち焦がれた帰国・・・それなのに、お母様もお父様もあっけなく死んでしまった。
私は知りたくもないことを知らされて、人殺しになってしまった。


*     *     *     *     *



(4)



ここは、建都二百年記念式典からしばらくして侯爵家のものとなった。
もう二年も前になるな。

まったく、侯爵家が所有する屋敷は幾つあるのか。
これ以上あっても使う機会がないのではと思うが、それは大貴族の考えること、私のような庶民には想像もつかない理由があるのだろう。

元々は、とある伯爵の住まいだったが、皇室の姻戚である侯爵家の強い要望と、提示された金額の破格さに一も二もなく明け渡したと聞く。
もっとも、こだわったのは隊長だったらしい。
何が目的か、どのような任務と関係あるのか私には一向にわからないが、特に改装を施すわけでもなく、管理人夫婦を置くのみで、ごくたまにふと立ち寄られ、二階のサロンにてお一人で過ごされる。

今日もそうやって、隊長の静かなひと時は終わるはずだった。





突然、前の通りで暴動が起きた。
逮捕された者たちを救おうとしてか、発砲をきっかけに、野次馬たちが暴徒と化したのだ。
憲兵隊も応戦し、あっと言う間に阿鼻叫喚の坩堝となった。

サロンから隊長が飛び出し、私の横を駆け抜け、外に向かわれた。
てっきり援護と思い追いかけたが、何と暴徒の中に飛び込んで行かれてしまう。
憲兵に発砲をやめるよう怒鳴り、お姿を探した。



すぐに騎馬隊が駆けつけ暴徒は蹴散らされ、後には死体と負傷者が残された。

隊長は?

背筋がぞっとした。
隊長は壁際に蹲って、下には血だまりができている。
駆け寄るとしかし、庇われるようにして少女が倒れていた。
それは・・・以前ここで会ったあの金髪の"少年"だった。



この少年、いや、この少女・・・女が隊長の生涯に大きく関わってくるとは、その時は思いもしなかった。





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