翡翠の歌

09 それぞれの恋




(1)



わかりきったことを聞くなと言われた。
彼女がドイツから追ってきた恋人・・・アレクセイ・ミハイロフへの判決は終身刑だった。
死刑だと思っていた、誰もが・・・同じように。

でも・・・よかった・・・なんて彼女に言えない。

ムフトゥヤ・・・死の監獄として知られる。
どこも死と隣り合わせだけれど、あそこは死そのもの、長く生き続ける希望はないと悪名高い。
そこと決まったら家族は気を失ってしまうと言われるほど。
むしろ死刑のほうがまし。

それでも生きている刑をあなたは喜ぶ?
もうこの世で会う願いは叶わないのに。


*     *     *     *     *



ある日、図書室に様子を見に行くと、声を殺してすすり泣いていた。
もしかしたら気づかなかっただけで、いつもそうだったのかも知れないけれど・・・。
手には聖書・・・懺悔しているの?
立ち去ろうとした時、私を見た。
あんまり・・・あんまり哀れな表情だったので思わず駆け寄って隣に座った。


「どうしたの?  大丈夫?」
「ええ、大丈夫・・・」
「?  これは?  押し花?  栞がわり?」


聖書には褪せた黄色の小さな花が一枝・・・ミモザだわ。


「ええ・・・」
「何かの思い出なのね?  それで泣いていたのね?」


小さく頷いたけれど何も話しはしなかった。
きっと言えないこと、なのだろう。
言えないこと・・・ふと思いつく。


「アレクセイ・ミハイロフとの?」


身震いして僅かに頷いた。


「いいのよ、お兄様に聞いて知っているの、あなたが彼を追ってロシアに来たって。それにこの間、会ったのでしょう?  私は大丈夫、お兄様には黙っているわ。話したほうが楽になるなら」


でもひどく警戒しているらしく、口を閉じたままだった。
そこで彼について知っている限りを話してあげる。





「彼はね、ミハイロフ侯爵家の次男よ。お父様を早くに亡くして、お母様はお屋敷の小間使いで・・・。だから小さい頃はお母様と一緒に田舎・・・トボリスクで暮らしていたのよ」
「正妻の・・・子どもではないの?」
「そう、貴族にはよくあるわね」


なぜか彼女はとてもほっとした様子だった、なぜか。


「六つか七つの頃にお母様も病気で亡くして、侯爵家に引き取られたの。それから初めて貴族の子弟の教育を受けたものだからひどく反発したようよ。おばあさまもそれは厳しくされてね。でも彼も負けずにやんちゃだもの、躾には随分苦労されたでしょうね」
「やんちゃ?」
「ふふ! リュドミールの比でなく、いつも泥だらけだったみたいよ、虫や蛇をお屋敷に持ち込んだり日課もすっぽかして。私もね、何回か会ったことがあるのよ」
「本当?  本当に?」
「ええ、身分や年の吊り合う女性におばあさまが引き合わせていたのよ、いえ、私がと言うわけではないわ!  クリコフスキー公爵家の二人のお嬢さんのね、妹のアナスタシアと仲が良かったからおつきあいで何度かお邪魔したわ。ただ、私たちが来ると言うと、どこかに行ってしまって。たまに会っても無愛想で。それでもアナスタシアが彼にご執心でね」
「え?  公爵家のお嬢さんが?」
「そう、大人しい綺麗な方。彼のほうはね、彼女に限らず女性に興味がなかったみたい。安心した?」
「嫌だ、ヴェーラったら、そんなこと」
「バイオリンがとても上手だったわ、兄弟共にね。特にお兄様はモスクワ音楽院を首席で出て、サンクト・ペテルブルク管弦楽団のコンサートマスターに抜擢されたの。彼もね、あと少しで音楽院に行くはずだったと思うわ。ああ、この屋敷やミハイロフ家でのパーティーで彼の演奏を聴いたことがあるの」
「ここでも? ここでも演奏したの?」
「そうよ。お母様が気に入ってらして。まだ彼のほうは幼かったけれど、なかなかのものだったわ。アナスタシアはそれに憧れてバイオリンを始めたのよ、今では結構な腕前でね、この間は御前で演奏していた、彼女も陛下のお気に入りなの。そうそう、それで思い出したけど、ここの劇場での演奏会で、御一家が御臨席なのに舞台の彼と客席の彼女の姉とが騒動を起こしたことがあってね・・・」


記憶を辿ると、自分でも驚くほど彼の話が出てきて、随分と長い時間が経った。
だいぶ表情が明るくなった。
でもね、楽しい話はここまでなのよ。





この続きをしてよいものか、少し迷っていると催促してきた。


「それで?  それからは?」
「ねえ・・・あのね・・・これから先のことは聞いても辛くなるわ、だから・・・」
「・・・いいえ、いい。教えて。どうして・・・私の故郷に来たのか、知りたい」
「・・・わかったわ。今から、そうね、五年くらい前に突然お兄様が逮捕されたの、反逆罪で。噂では嫉妬した同僚が密告したらしいわ。活動家のリーダーでパトロンだったのよ。音楽を愛でられている皇帝陛下から特にご寵愛を受けていた分、処罰も厳しくて・・・死刑に」


息を呑み両手を固く握り合わせるのがわかった。


「続ける?  大丈夫?」
「・・・大丈夫」
「・・・彼にも逮捕状が出たのだけれどすり抜けて国外に、そう、ドイツだったのね、逃亡したのよ。ミハイロフ侯爵家は断絶されて、彼らの名前を口にすることは陛下に禁じられたの。でもいつの間にか帰国していたのね、モスクワの反乱で捕まって」
「・・・どうして貴族の彼が陛下に?  革命って?  何がしたいの?  そんな・・・逃げ隠れして命をかけてまで」
「ええ、不思議よね・・・私にもよくわからないわ・・・ねえ、あのバイオリン、もしかしたら彼の?」
「・・・そう。返さないと。でも・・・レオニードがどこかに隠してしまった」
「大丈夫よ、そのうちに」
「そうよね。彼は・・・そこまで意地悪ではないわよね?」
「・・・大丈夫、私からも頼んでみるわ」
「ありがとう・・・でも、今は何もしないで、お願い。捨てられちゃうから」
「分かったわ、安心して。知らないふりをしているわね。これは・・・彼にもらったの?」
「・・・ううん、違う。この・・・ミモザは・・・最後に別れたお屋敷に沢山咲いていた・・・本当に綺麗だった、夜なのに空いっぱい、黄金色に輝いていた」


*     *     *     *     *



(2)



珍しくヴェーラがサロンに人を集めている。

こんな時は自室に籠って存在を消すことにしている、いえ、しなければならない、"私"は秘密なのだから。
別に苦痛でも何でもない、人に会いたくもないし・・・私は所詮囚われの身だし。
本を読んでいる傍らでリュドミールが課題を持ってきて勉強している。

ああ、あれはバイオリン!
かすかに聴こえる。
お客様が弾いているのね。

・・・上手。
でも・・・細い。
女性だ、きっと。



クラウスも・・・弾いていた、この曲。
窓の外で聴いた、内緒で。
何度も何度も同じところを練習して・・・。
心に沁み入ってきた、あの音・・・私の支えだった。

お兄様は若くして教授やコンサートマスターに任じられたとか。
あなたも・・・その道を歩めばよかったのに。
そうしたかったのでは?
どうしてお兄様もあなたも・・・わざわざ苦難の道を選んで・・・天賦の才能を生かす道を歩まなかったの?

私は・・・仕方がなかった。
鍵を継ぐ道を、売国奴の道を歩まざるを得なかった、生きるために、お母様のために。
だけどあなたは・・・あなたたちは選べたはずよね?

思想って何?





お客様がお帰りに・・・何台もの馬車や車が去って行くのが見えた。
さあ、部屋にお戻りなさい・・・リュドミールを促して出て行かせ本を片付けていたところにヴェーラが入ってきた、いつもは厳重に鍵のかかっている続き扉から。

一人ではなかった、女性を連れて。
私と同い年くらいの、クリームがかった髪の上品で綺麗な方。


「この間お話しした・・・アナスタシア・クリコフスカヤさんよ、公爵令嬢の、あの人を知っている」


ああ、結婚相手にどうかって、クラウスのおばあさまが引き合わせた・・・。
美しい方、大人しくて穏やかそうで。
じゃあ、さっきのはこの方が?  クラウスに憧れて始めたと言う。


「しばらく・・・外すわね」


ヴェーラは私たちを残して出て行ってしまった。





何から・・・何を話したらよいのかお互い分からない。
やがて彼女は意を決したように口を開いた。


「本当に魅力的な方でしたわ、あの・・・方は。いつも私を避けていらしたけれど。亜麻色の髪が輝いていて、ええ、もちろんバイオリンの音色も」
「・・・」
「初めてお会いしたのは・・・私が六つくらいの時でした。お屋敷でのパーティーに招かれて。捕まえた鳥を持って泥んこで私たちの前に飛び込んでいらした。姉とひと騒動起こしましてね、それ以来、姉とは犬猿の仲でしたわ。でも一度、街で姉と乗る馬車が溝にはまってしまった時、通りがかった彼が助けてくれたのです。それは頼もしくて。もっとも・・・彼は黒髪の美しい女性とよく一緒でした、その時も・・・。確かドイツ人の家庭教師のお嬢様とか」


ああ、アルラウネのこと、お兄様の婚約者って。
私もそうと聞くまでは妬いていた・・・あなたも、でしょう?

ずっと黙っている私に少し心配になったのか、「ごめんなさいね、突然に」と謝ってきた。


「ヴェーラにあなたのことを伺って、どうしてもお会いしたいって頼み込んだのです。あなたも・・・彼を想っていらっしゃると、異国から追ってこられたと聞いたものですから」
「・・・」
「あの・・・もしこれからもずっと・・・ずっと想っておいででしたら・・・いつか協力していただきたいの。彼を・・・助けるために」





結局、私は一言も発しないまま彼女は出て行った。
私・・・嘘をつくのは下手だけれど黙っているのは得意。

今回のことは・・・ヴェーラが勝手にやった、私は無関係。
本当は・・・聞きたかった、もっと彼の昔、この国でどんな暮らしをしていたのか、家族や音楽のいろんな話を。
でも・・・これがレオニードにわかってしまった時、どうなる?
私、嘘がつけない。
だから何も話さなかった、彼女は不満だったろうけれど。
あなたの振る舞いで、クラウスがこれ以上危険な目にあったら?

クラウスの命・・・それが、それだけが何より大切なはずでしょう?
あなたにとっても・・・アナスタシア。





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