(1)
休暇が明けて、ずっと使っていた練習室を変えた。
七番の部屋。
あそこには隠れて聴ける場所が・・・なかった。
辛かった。
苦しかった。
そして・・・諦めようって。
元々望みなんてなかったのだもの。
私は男の子で・・・皇室の、ニコライの手先。
どう考えたって無理。
これを機会にって。
でも・・・どうしても目は・・・どうしてもあなたを追ってしまった、探してしまった。
止められなかった。
今、どこにいるの?
何度尋ねても結局教えてくれなかった・・・本当に意地悪。
街で見かけたのかしら、それとも・・・シベリア?
反乱軍の中にいたの?
手配されているのに、あんなに憎々しく思っているのに・・・捕まえなかった・・・なぜ?
遠くから見ただけだから?
撃ち合ったの?
怪我はなかった?
*
吹雪が続く。
あちこちで反乱と弾圧が繰り返されているみたい・・・時折さすがの彼も苛ついて怒鳴り声も出して。
この間は・・・逮捕するって自信満々に言っていたのに、取り逃がしたらしい・・・よかった。
そして、あなたが生きているってわかって嬉しい。
明日はモスクワに行くって。
リュドミールが目を輝かせて話しにきた。
反乱が起きて・・・あのモスクワで・・・シベリアでもないのに。
本当にこの国はどうなってしまうのだろう。
クラウス。
まさか・・・いないわよね?
* * * * *
(2)
「入れ」
ノックに応えて招き入れた。
「明日、奴に会わせてやる。そう約束したからな」
碧い瞳が見開かれた。
「モスクワで逮捕した。ペトロパブロフスク要塞に移送する途中だ」
どのような表情をしたらよいのか戸惑っている様子だった。
それはそうだろう、手放しでは喜べまい、逮捕されたのだからな。
「私としては、奴が果たしてお前の情熱に報いてくれるか、見ものだな。革命の闘士に恋など何の価値があるものか」
最近は本当に口数が少ない。
当初と違って挑発に乗って来ぬ。
逃げ出そうとしては激しい言葉で向かってきた頃が妙に懐かしい。
「だが、お前に自覚がないようなので言っておく。あいつらにとってお前は私の側に立つ敵だ」
「敵・・・」
「そうだ。中立の立場ですらない。お前は陛下から重大な役目を授かっている」
「私は望んでない」
「そんな言い訳を奴らが取り合うと思うか? お前は私と同じ、陛下の御下にいる敵なのだ。もし例の件が知れたら、それを使って民衆を扇動し更なる内乱を引き起こすだろう。ドイツだけでなく他に預けている国とも争いになる。あの鍵はそれだけ重要なのだ。薄甘い恋愛感情に浸るのは明日で終わりにしろ、わかったな」
* * * * *
離れの一室に、今、あの男がいる。
戸惑っているだろうが、これから更に戸惑うことが起きるのだ。
彼女を穢した償いをするがよい。
「レオニード・フェリクソヴィッチ・ユスーポフ!」
「己らの無力を思い知ったか? 身の程知らずが。貴族なら貴族らしく皇帝陛下に忠誠を誓うものだ」
「俺はロシアに忠誠を誓っているんだ。説教するためにここに連れて来たのか?」
「冥途の土産に女に会わせてやる。せいぜい別れを惜しむんだな」
中尉に連れられ入ると、奴は金縛りにあったかのように見つめ、彼女は「クラウス!」と叫んで駆け寄って抱き締めた。
「クラウス! クラウス!」
幾度も幾度も繰り返す彼女を、しかし、その手ではどうもできまい。
奴の名だけをひたすら発する、その一つ一つに様々な、そして直向きな感情が込められているようで、私の心はかき乱された。
こんなふうに呼ばれる奴が憎い。
* * * * *
(3)
「命知らずにも、その女はお前を追って来たのだ。お前を恋人だと言っているが、本当にそうなのか?」
まったく思いもかけなかった再会に呆然としていた俺だったが、その言葉で我に返った。
黒い瞳と視線が合う。
「恋人なのか?」
なぜ念を押す?
何が言いたい?
何を言わせたい?
死刑判決が出るのは間違いない。
ペトロパブロフスク要塞に収容されて、何日か後には銃殺だ。
残念だが悔いはない。
俺の屍を越えて、いずれ革命は成就されるだろう。
しかしユリウスを巻き込むわけにはいかない。
俺たちの思想とは何も関係ないのだ、このままでは仲間と思われてしまう。
胸に縋り、静かに、だが熱く見上げるエウリディケの耳元で囁いた。
国に帰れ。俺を忘れて幸せになれ
一瞬息をのんだ天使の口から取り返しのつかない言葉が出る前に、奴に言い放った。
ロシア語でならお前を傷つけはしまい。
「ただの・・・ただの亡命先での知り合いだ」
「ほう?」
「ドイツ人と付き合うほど俺は女に不自由していないぜ。頭がどうかしている。親元へ返してやってくれ。まったく迷惑な話だ」
奴は立ち竦んでいるユリウスを、まるで俺から受け取るかのごとく引き離した。
兵士らに連れ出される時、俺の名を呼ぶ声が追いかけて来た。
一言、断末魔の叫びのように。
* * * * *
(4)
泣き続けている。
寝台に突っ伏したまま声を殺して泣き、時折、堪えきれずに声を上げて。
昼頃、離れに続く門に馬車が止まったのが見えた。
今朝から周辺は立ち入りを禁じられ、誰が訪れたのかはわからない。
でもあの馬車は・・・護送用だ。
すぐに彼女がシュラトフ中尉に付き添われて行った。
蒼白でとても緊張している様子だった。
しばらくして半狂乱になって、お兄様に強く抱えられながら戻ってきた。
何か叫んでいたけれど、この屋敷でその言葉がわかった者は誰もいないだろう。
もっともほとんどが名前のように聞こえた、クラウス、クラウスと。
取り押さえて薬を打つとようやく少しは静かになったけれど、それでも異常な興奮状態が続いている。
多分恋人の名前だろう、クラウスと言うのは。
ドイツの名前。
彼女が叫んでいたのもドイツ語。
最初にお兄様が口にされた名前も。
*
夜、様子を見にいらした。
「どうだ? 落ち着いたか?」
「ええ、かなり薬を与えましたから」
「そうか・・・。何か話したか?」
「いえ、特には・・・。ただ、クラウス、クラウスと」
「・・・わかった。お前も休め」
「・・・お兄様、お尋ねしてもよろしいですか?」
「何か?」
「彼女はドイツ人ですのね?」
「そうだ。だが人に言うでない、敵国人が屋敷内にいるのは外聞がよくない」
「わかりました・・・それで、クラウスとは誰ですか?」
「・・・お前も知りたがりと言うわけか」
「今日の彼女の様子、尋常ではありませんわ。誰に会わせたのです?」
「・・・これはな、我が家の浮沈に関わる重要な話だ。興味本位では困るぞ」
「心得ております」
「あいつが故郷で出会い恋仲になった男、逃亡中だった反逆者、アレクセイ・ミハイロヴィッチ・ミハイロフだ」
「えっ!? まさか・・・」
「無論あいつ自身は思想とは無関係だが」
「では今日会ったのは、彼、ですか」
「・・・監獄に移送する途中だ。会わせてやると約束していたからな」
「でも、でも、彼は・・・どのような刑に?」
「・・・決まりきったことを聞くな」
「? 最期の別れをさせたのですか? 残酷ですわ!」
「何がだ? 無駄な夢想を止めさせる、それのどこが残酷だ!」
「行方不明とでもしておけば、そのうち諦めて・・・」
「あてもなく単身、密入国してくるような奴が、行方不明くらいで諦めると思うか?」
「そんな!」
「ともかく今の話は絶対に他言無用だ。わかったな!」
あっと言う間に出て行ってしまった。
でも今のは何に対しての、誰に対しての怒りだろうか。
そもそも諦めさせる必要などある?
事情はわからないけれど、陛下から保護と言う名目の監禁を命じられたと聞いた。
それなら、諦めようが諦めまいが彼女はここに留まるしかない。
何か・・・変です、お兄様・・・。
*
更に薬を飲ませたので、よく眠っている。
顔色は悪くても本当に綺麗な金髪ね、相変わらず。
さっきの話、本当なの?
彼に恋をして、ここまで追ってきたと・・・。
なんて激しい恋なの!
羨ましい!
自分の想いを遂げるために、こんな無謀な行動ができるなんて。
私、弱くて駄目だわ。
ずっとここで殻を破れずに、彼と・・・。
* * * * *
(5)
クラウス、だった。
夢にまで見たクラウス。
一年ぶり・・・随分変わっていた。
髪も伸びてがっしりとして大人っぽくなって。
驚いて私を見たあの瞳。
これは変わっていない、いつどこで会ってもわかる、私を掴まえて離さないあの瞳。
縛のせいで自由にならない彼に代わって思いっきり抱き締めた。
ちゃんと今もこの腕に感覚が残っている。
驚くのも無理はない。
ドイツにいるはずの私がまさかロシアに、それも敵の屋敷にいるなんて想像もできなかったはず。
それに・・・それにもしかしたら、あのミュンヘンで私のことなど記憶から切り捨てていたのかも知れないし。
だからあんなふうに言ったの?
ただの知り合い・・・ちょっとした思い出? 迷惑?
そう、冷静に考えてみれば、そう。
あなたは革命家、命をかけて陛下と闘っている。
たまたま身を潜めた先で出会った女なんて。
私にとってはあなたはすべて、人生の。
あなたにとって・・・私は・・・。
でも・・・でも、それでいい。
求めているのは私。
例え得られなくても、求めることができるだけでいい。
そうでなければ、生きていけない。
クラウス・・・。
今、どうしているの?
移送する途中だって言っていた。
ペトロパブロフスク要塞ってあの金色の尖塔の・・・。
確か東の端の屋根裏から見える!
上ってみよう、せめて・・・。
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