翡翠の歌

05 瓶の底




(1)



私を息子に任せ、伯爵はモスクワに戻って行った。
獄で拷問にかけるよう言ったけれど、なぜか彼は反対した、自分が聞き出すからと。
自信があるのかも・・・手慣れていた、あの"尋問"。

もう死ぬこともできない。
追及の矛先がお姉様に向かってしまうから・・・何も知らないお姉様に。
彼らは本物の鍵を取り戻すために、あの屋敷を破壊し尽くしかねない。





それからしばらくは表面上は平穏な日々が続いた、彼が私に問うこともなく・・・。
取り敢えずここに置いておけばいいと言うのだろうか。



それでも・・・幾度か・・・逃げ出そうとした。
軍人が大勢いる中、無理、無駄とはわかっていたけれど、この閉塞感をどうにかしたくて衝動的に隙を突いて・・・。
でも屋敷からいくらも離れられなかった。
そのたびに連れ戻された、あの男たちに腕を嫌と言うほど掴まれて。

最後に試みた時は離れまで辿り着けた。





今頃いないのに気づいてももう街に出たと思っている、これまでがそうだったから。
正面玄関や裏口から通りに出て、運河沿いに右に行ったり左に向かったり・・・。
でも見通しが良過ぎたのか、すぐ見つかってしまって。
だから今度は離れで暗くなるまで待って、庭園のどこかにきっとある隙間からフォンタンカ運河のほうへ行こうと思った。

三年もこの街にいたのだからおおよそは分かる。
あのお屋敷は引き払ってしまったけれど、伯爵に教えてもらった隠れ家が幾つかある。
何かの時には駆け込むようにと言われていた。
一つくらいはまだ機能している、必ず。

何とかしてそこまで行って伯爵に連絡を取ろう。
すべては落ち着いてから考えよう・・・クラウスのこともバイオリンのことも・・・鍵のことも。
とにかく自由にならなければ!





薄明りの中、雑多に物の溢れている部屋で毛皮のコートとブーツを見つけ出した。
古いデザインだけれどこれで十分、いえ、むしろこのほうが目立たない。
いくら春でもここはロシア、火の気のない離れは部屋の中でさえ震えがきている、このまま外に出たら死んじゃう。

小さなプラトークも見つけた。
聖書と彼の服を包んで枕代わりにし、夜まで少し休もうと寝台に横になると枕元に何か・・・耳飾り、だった。
これ・・・見覚えがある。

ヴェーラの?
どうしてこんなところに?

もしかしたらお金になる?
悪いけれどこのくらいもらってもばちは当たらないと思う。
持ってきたお金や小切手はあなたのお兄様に全部取り上げられてしまったのだもの。
彼に弁償してもらって。



結局、待ち構えるかのように茂みに潜んでいた大尉に捕まって・・・彼の前に連れて行かれた。
呆れながら言った・・・慌てずともここにいれば遠からず会わせてやる、と。


*     *     *     *     *



(2)



そう言えば・・・ロシアのはこんな感じだった。
ドイツ式で通しては何かと怪しまれるからと、どこでもその土地その土地の風習に従っていた。
あの三年は夫妻と私、そして気心の知れた例の仕事関係の人たちとで御馳走の並んだ食卓を囲みながら賑やかに祝った。
伯爵も珍しくお酒が進んで、私を膝に載せてロシアの歌を聴かせてくれた。

でもさすがは侯爵家・・・ひっきりなしに到着する馬車や車が見える。
陽気な曲の演奏も高い笑い声もいつも以上にここまで届く。
私には無関係の賑やかさ。





お祝いの食事・・・お肉もお菓子もいっぱい。
温かいスープ・・・手をつけないうちにすっかり冷めてしまった。

ドイツの味が懐かしい。
本当のところはそんなに長く暮らしたわけではないし、幼い頃は貧しくて、いつも同じものでどれも硬くて塩辛かったような気がする。
でも食べるものがあるだけで幸いだった。
お母様が必死に働いてくださったお陰で生きてこられた。

留学中は現地の料理人を雇っていたから、アーレンスマイヤ家で初めてちゃんとしたドイツの食事ができた。
シュニッツェルやヴルスト、ザワークラウト・・・クネーデルは苦手だったけれど・・・。
クレップフェルやアイアシェッケ・・・懐かしい。
似たものはここにもある、でもやっぱり何かが違う。
ロシアのも好きだけれどドイツのがいいな、たまには。
まあ無理な望み・・・敵国の料理が食べたいなんて言ったら首が飛んじゃう。

無駄なことを考えるのはよしなさい、ユーリ、いいえ、マフカ。
さあ、下げてもらって、もう休もう。
毛布に潜ればホールの騒ぎも聞こえないだろうから。





「私だ、入るぞ」


え?


「食事は済んだか?  何だ、手をつけておらぬではないか」
「・・・お腹、空いてない」


彼は呼び鈴を鳴らしアンナに指示した。


「出し直してくれ」
「!?  もういい!  食べたくないから!」
「私には酒を」
「!」


差し向かいに座った。
どう言う・・・つもり?


「祝いの食事を一人でとるのも味気ないだろう?」
「・・・でも・・・本当に食べたく・・・」
「少し付き合え」
「?」


何だろう、変な感じ。
この人・・・パーティーの途中でしょう?


「故郷ではどんな復活祭だったのだ?」
「え?」
「ドイツでは、と聞いている」


フランクフルトのは記憶にない。
多分いつもと変わらず一人で留守番をしていたと思う、マリアを相手に。
お母様は休みなく働いていらしたから。

レーゲンスブルク?
あの街では結局一度だけ。

ああ・・・マリア・バルバラ姉様はどうされているだろう・・・。
初めはとても厳しかった、妾の子にとても・・・お母様にも。
後から知った・・・恋敵、だったって・・・それなら仕方がない。
でも次第に優しくしてくれるようになった、いろいろと庇ってくれた。
懸命に努力されていた・・・私が巻き起こした逆風も少なからずあったのに。
ごめんなさい。


「どうした?  そんなに難しい問いか?  例の在り処でもないのだぞ」
「・・・普通の・・・よ、普通の」
「ドイツはロシアほど賑やかであるまいな。普通とはどのような様子なのだ?」
「え?  特に・・・何も」
「何も?」
「確か、いつものように・・・教会から戻ってマリア姉様は慈善事業に、アネロッテ姉様はどこかのパーティーに行って。お父様はずっと床についていらしたし」
「お前は?」
「私・・・お母様と・・・」
「・・・寂しいものだな」


初めて人を殺した後はどんな行事だって・・・楽しくなんかない。


「・・・そんなことない、だってお母様と一緒だったから」
「なるほど、な。水入らずと言うわけか」
「そう、ずっと離れて・・・」


そこへアンナたちが料理を運んできたのでほっとした。
彼との会話は疲れる、何か聞き出そうとしているようで。
二人分・・・それも主のためにと豪勢に卓上が埋まっていく。
山積みになった義務に、不謹慎だけどうんざりしてしまった。





本当に・・・変な感じ・・・。
話すのも嫌なので、ほんの少しずつ少しずつ料理を口にして時間を潰して時折見ると、お酒を飲みながら私をじっと見ている。
そりゃあ・・・監禁されているのだから仕方ないかも知れないけれど・・・それにしても・・・失礼過ぎない?


「・・・そんなに・・・見ないで・・・」
「うん?  ああ、すまぬ。考え事をしていたのだ」
「考え・・・事?」
「いや・・・何でもない」


ロシア人がウオッカを飲むところ間近で見たの、初めて。
飲むと言うより放り込んでいる感じ。
強いお酒なんでしょう?
ここで酔い潰れたりしないわよね。
でも顔色も変わらないし、話し方もいつもの通り素っ気ない。


「伯爵は・・・止めなかったのか、お前がロシアへ行く計画を」
「え?」
「アルフレート亡き後は伯爵と役目を担っていたのだろう?」
「・・・何も言っていない・・・何も・・・」


ドイツに帰ってから・・・あの家に行ってから・・・なぜか伯爵は私のそばからいなくなった。
事情を知ろうにもお父様の意識はずっと混濁していて・・・人の目もあったし、とうとう何も聞けずに。


「あの男の話もか?」
「・・・ええ」
「恋ごときで大事な役目を放り出すとは自分勝手なものだ」


何も言い返せなかった、そう・・・でも、あの頃は・・・。
俯いて黙り込んでしまった私に更に言ってきた。


「伯爵はお前を探しているだろうが私は知らせるつもりはない。ここに至っては我らにとって必要なのは鍵だけだからな。だが・・・在り処を吐こうとも吐かまいともお前はここに留まるのだ。無責任なお前のことだ、野放しにすればどこで誰に秘密を漏らすか分からん」


飲み干したグラスを音を立てて置くと出て行った。



とんだ過ぎ越しの贈り物、永遠の監禁の宣言・・・氷の卵の中に閉じ込める。


*     *     *     *     *



(3)



ヴェーラは何も知らない・・・私の本名も素性もこの国に来た目的も。
それなのに優しくしてくれる、お姉様みたいに。
耳飾り、やっぱり返しておこうと差し出すと驚いた様子で、それからとても狼狽えていた。
いつもの彼女らしくない様子だった・・・変なの。

リュドミールは・・・。
ベビーブロンドのやんちゃな男の子。
顔立ちが上の二人とは違う。
聞いたことはないけれど多分、母親が違うのね、私みたいに。
でも妾腹じゃないわね、対等に扱われているのだから。

彼はフランス語がまだまだだから、話すと言うよりもじゃれあっているのかな。
弟ってきっとこんな感じなのでしょうね。
屋根裏部屋のガラクタに潜り込んで埃まみれになったり、中庭の木に競争して登って降りられなくなったり、この間は温室の噴水で水を掛け合っていたら風邪を引いてしまった。
いちいちアンナが彼に報告しているようだけど別に何も言われない。

ヴェーラは喜んでいる、私と話すことでリュドミールのフランス語が上達したって・・・私のは教科書みたいに正しいから。
でも私はロシア語を話したい。
いつかここを出てクラウスを探す時にフランス語では役に立たないもの。



少し前、どこからかピアノの音が聞こえてきた、調律をしているのだと。
ふうん、誰が弾くの?
ヴェーラ?
リュドミール?
まさかアデール様?
サロンにあるピアノさえも誰も触れないのに、わざわざ音楽室のを誰が?





使用人たちはどう思っているのだろう。

血だらけで運び込まれた、おそらくは異国の娘。
接する人はごく限られ、フランス語しかわからない様子。
固く閉じられた扉からも怒号が漏れ聞こえ、争う様子は感じ取っただろう。
時々脱走を図り、引きずり戻されて。

かと思うと一方では家族同様に扱われている。
食事も一緒だし、リュドミール坊っちゃまと二人きりで過ごしていても、一緒に屋敷中を駆け回っても咎められることはない。
それに・・・恐らくはこの屋敷で唯一、彼の書斎に自由に出入りできる人間。
そして・・・彼を名前で呼べる伯爵や奥様以外の存在。

大した知り合いでもないのに、なぜ?



もちろん奥様がいらっしゃる時は別。
陛下の姪って言っていた、つまりはお姫様。
正式にはご挨拶してないけれど・・・それはそうよね、彼もどう説明していいか難しいもの。
垣間見たアデール様は金髪で肉感的で、離れていても香水の匂いでむせ返りそう。
ああ言う女性が好みなんだ、意外!

でも何だかよそよそしい、あの二人。
滅多にここにいる様子もないし。
でもこの前の夜なんか、すごい怒鳴り合いが聞こえてきてびっくり。
内容までは分からなかったけれど、屋敷中に響いていた。
まあ、彼らの夫婦仲なんて関係ないけど!

ともかくアデール様がいらっしゃる間は息を潜めて充てがわれた部屋にいる。
そんな時はリュドミールが来てせがむから静かに本を読んであげる。
リュドミールもアデール様が苦手みたい・・・それに屋敷中も緊張している。
奥様なのに、変なの。


*     *     *     *     *



(4)



「ねえ、ピアノ、弾いてよ!」


唐突にリュドミールが言ってきた。


「上手なんでしょう?  お兄様がおっしゃってた」



彼の意図は何?

あんまりせがむものだから仕方なく音楽室に行った。
別に弾きたくないっていうわけでもないけれど弾きたいわけでもない。

何ヶ月ぶり?
学校を辞めてからだから、ああ、もう半年も弾いていない。
それに、撃たれた手に力が入るかしら。


「何が聴きたいの?」
「・・・曲の名前はよくわかんない。でも聴くのは好きだよ」
「何か習っていたんでしょう?」
「うん、ピアノ。だけどもうやめちゃった。だって難しいんだもの」


大貴族の子どもに教えるのって大変だろうな、教師に同情しちゃう。


「じゃあ、使っていた楽譜を見せてちょうだい」


書棚に駆け寄って、ちょっと迷ってから持ってきた。
初歩の練習曲。
今の私にはちょうどいいのかも。

横に座らせ弾き始めた。
久しぶりの鍵盤が指先に心地いい、冷たくて温かくて。
見ると楽しそうに聴いている。

かわいい!
この子とこうしているととても寛げる!
変なの、あの彼の弟なのに、ね。
監禁されていることには変わりないのにね。





一通り弾いて、さあもう終わりにしましょう、そろそろ晩餐の支度をしないと、と言うと、まだ聴きたいと駄々をこねる。
でもね、ちょっと腕も痛いし・・・。


「ねえ、あと一曲だけ、お願い!」
「じゃあ、あと一曲だけよ」


だけど初歩の曲じゃつまらない。
棚の隅にベートーベンの束を見つけた。
ほとんど、と言うか全く開かれた様子のない楽譜。
それに、敵国の作曲家じゃない?  いいの?


「この中から選んでみて」
「この中から?  どれでもいいの?」
「ええ」


じゃあ、と指差した。

"テンペスト"

ああ、久しぶりの曲。
今度は離れた椅子に座らせ一通り譜読みし、深呼吸をしてから弾き始めた。

これまでと全く異なる音量と振動にリュドミールはびっくりしたようだった。
何と言ってもベートーベンですものね。

そして・・・すぐに集中してしまった。
ここがどこか、今の境遇も何もかも忘れてひたすらに鍵盤を叩いた。
ただでさえ速い曲、果たして今の状況でこのまま弾き切れるだろうか?
でも突っ走りたい、嵐のように!  何もかも吹き飛ばして!

イザークを凌ぎたくてクラウスの伴奏をやりたくて夢中で練習したベートーベン。
彼の得意の作曲家で競うなんて今思えば本当に怖いもの知らずだった。
クラウスには・・・クラウスにはこの手では無理だって言われた、女のような手では・・・。
彼らみたいに大きく力強い手でなくては・・・。

私、結局、何にも彼の役に立たない、人生に関われない。



終わった時、いつの間にか扉のそばで腕を組んで立っている彼に気づいた。
数回拍手して、晩餐の時間だ、と言った。

・・・調律は、私のため?





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