翡翠の歌

08 もうひとつの恋




(1)



ショールを羽織り、そうっと部屋を出て向かおうとした時、アンナに見つかってしまった。


どちらへ?
・・・空が・・・空が見える部屋に
まだお体が
大丈夫
それでしたら、レーナと





もうすぐ夕陽に変わる。
今日は珍しく晴れて、悲しいほどよく見える。
あの尖塔・・・本当に美しい。
白っぽい金色が空の青と映えあって。

都を守る要塞の稜堡が政治犯の監獄に・・・聖堂も皇室の墓所もあるのに・・・。

拷問、処刑・・・。
こうして見ているだけで悲鳴が聞こえてきそう。
向かいの冬宮では気にもかけずに、華やかな舞踏会が開かれているのだろう。

クラウスは?
どうなってしまうの?
血塗れの姿が浮かんで・・・頭を振ってそんな想像を追い出そうとしたけれど・・・きっと・・・それが現実。

気配に振り向くと、彼がいた。





「具合はよくなったか?」
「・・・ええ」


なぜこの人はこうもあっさりと声をかけられるのだろう。
恋人に会わせて、あっと言う間に引き離して・・・それが楽しいの?
自分の力を思い知らせて楽しいの?


「ペトロパブロフスク要塞を見ていたのか?」
「・・・ええ」


嫌な男・・・何でもお見通しと言うわけ。


「奴はあそこで判決を待っている。勿論、無傷ではあるまい、聞きたい話は山ほどあるからな」


そんなことを言って、私が苦しむのを見たいのね?
本当に意地悪。


「ねえ、怪我をしていた、手を・・・。治療は? 治療はしているわよね?」
「さあ、な。拷問とはそのようなところを責めるもの。看守に情けを期待しても無駄だ」
「そんな! バイオリンが弾けなくなってしまう! 音楽はクラウスの命なのに!」
「呆れたものだ、まずは生命の心配ではないか? ではいっそ、心臓を狙うべきだったな。音楽などに未練を残させず、ひとおもいに」
「え? あ、あなたが? あなたが撃ったの?」
「射撃は得意中の得意だ」
「ひどい!」
「遊びとは違うのだぞ」
「・・・」
「まあ、寿命がほんの僅か延びたに過ぎぬ。処刑は夜明けと共に行われる。銃殺だ」


思わず耳を塞いでしまった。
そうだ、彼が助かるわけがない、ドイツにまで追っ手がかかっていたのだから。


「ここにいれば聞こえるかも知れんな」


ああ!

堪らず座り込む。
すると、塞ぐ手を掴んで囁いた。


「助けたいか?  死刑から」
「・・・え?」
「懲役に減刑するよう嘆願してやってもよい」
「本当に?」
「本当だ。お前が命がけで鍵を守ってきた褒美に」
「お願い!  助けて!  クラウスを!」


*     *     *     *     *



(2)



彼は約束を守った・・・その証拠を見せてやると・・・得意げに。



民衆の前に引きずり出される革命家たち。


「ねえ、兄様、市民権剥奪ってなあに?」
「人間ではなくなると言うことだ」


ああ、クラウス! クラウス!
ああ、こんなに近くにいるのに!
彼に抱えられて身動きできない。
飛び出して行ったリュドミール、追いかける大尉。
私も向かおうとしたけれど・・・。
叫び続けて意識が朦朧として・・・気づいた時は寝室で。



あれからすぐ移送されたと聞いた。
もしかしたら死刑になる以上に辛いのかも知れない・・・シベリアなんて。

でも、でも、生きて・・・クラウス・・・。





しばらく臥せっていたので、リュドミールがお見舞いにきた。
そのリュドミールも元気がない。


「どうしたの? あなたのほうが具合が悪そうよ」
「うん・・・大丈夫だよ」
「怒られたの? レオニードに。それともヴェーラ?」
「ううん、怒られたりしないよ」
「それならどうしたの?」
「あのね・・・あの時、広場で見た人・・・あの・・・背の高い・・・」
「・・・アレクセイ・ミハイロフ?」
「うん、あの人ね、僕を助けてくれたんだ」
「え?」
「この間、列車に隠れて乗ったでしょ? 途中の駅で見つかって。でも抜け出していろいろ見てたんだ。そしたら急に列車が動き出して・・・轢かれそうになって・・・助けてくれたんだ、あの人が抱えて逃げてくれたんだよ」
「・・・そう」
「もうちょっとで一緒に轢かれるとこだった。僕の命の恩人なんだよ。なのに!」


*     *     *     *     *



(3)



助命嘆願・・・まさか私がとんだ粋狂を。

軽々にこのような願いを申し出られるわけがない、例え私でも。
皮肉なものだ・・・今回ほど陛下との姻戚関係をありがたく思ったことはない。

芸術を愛する陛下の御恩を裏切り、むしろそれを利用して活動していた奴に最も重い刑を、他の貴族への見せしめに死刑より長く続く苦しみを、と・・・あの監獄に流さねば御允可は得られなかった。

父上には彼女を懐柔するためとようやく許可をいただいたが、随分と懸念されていた。
前のことがある。
結びつけて考える者もいるだろう・・・そう触れ回る者も。
我が侯爵家を危うくしかねぬ・・・が・・・。



まあ、済んだ話だ。
あれこれ考えても始まらぬ。
それよりも今後のことだ。

宮廷行事が一段落したら、そろそろあの屋敷を整えるか。
アデールが気にしている・・・いよいよ爆発しそうだ。
どの口が言うかとは思うが外聞もある。

内装も灯りも調度品も何もかも、天使に相応しいものにしてやろう。

一生を過ごすのだからな、あそこで。
天上に戻ることは許さぬ。





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