(1)
それからの私の生活は・・・驚くほど・・・穏やかだった。
幾度となく試みていた脱走は・・・諦めた。
そして日課を決め、本と共に過ごした・・・音読し、書き写し、翻訳しなおし・・・。
図書室に加えて、彼の書斎の本も尽きることはなかった・・・多分これは破格の待遇だろう、ヴェーラやリュドミールさえも主のいない間の入室など思ってもないのに。
大好きな紙やインクのに混じって、葉巻と皮・・・それと硝煙の。
何だか落ち着く・・・懐かしい匂い。
もちろん、幾つもある引き出しや扉を開けてバイオリンを探した。
でも見つからなかった・・・鍵がかかっているところもあったし。
それに・・・反逆者の・・・そんな物を自分の身近に置いておくだろうか。
私の行けない部屋の奥の奥に隠してある?
この広いお屋敷のどこに?
捨ては・・・しない、多分・・・お願い・・・。
あまり尋ねるとかえって・・・そう、しばらくは忘れたふりをしておこう、そのうちにきっと機会が訪れる。
*
もうすぐ夏も終わり。
黄金の秋が過ぎたらすぐ冬が来る・・・あの長く厳しい冬が・・・。
そう言えば・・・自分を名前で・・・レオニードと呼ぶように言った。
随分経つけれどまだ呼んだことはない、必要がなかったし。
でも何か不思議な感じがする。
彼にとって私は何なのだろう。
隠し財産の秘密を共有する仲間?
鍵の在り処を吐かない忌々しい監視対象?
わからない。
ずっと続いている穏やかな日々の理由が。
あっ! いけない!
棚の隅にひっそりと置いてあった小さな箱を本を取り出す拍子に引っ掛けて落としてしまった。
割れちゃった?
大丈夫!
よかった!
戻そうとして中からカラカラと音がするのに興味が湧いた。
何だろう、彼が大事にしているもの・・・秘密・・・!
あの人は散々私のを知っているのだから、仕返しよ!
開けてみると小さな石が・・・。
耳飾り、それも一つだけ。
誰の?
祖母の形見とか?
だったら片方だけなのは変。
それに質素過ぎない?
次の瞬間、ぞっとした。
思い出した!
これ、私の!
いつだったか、そう、拝謁の後、どこかで落ちてしまったらしく、帰ったら右のがなかった・・・耳飾りなんて初めてつけたから気づかなかった。
必要もなかったし試験の準備も忙しかったし・・・そのままにしていたんだ。
彼・・・。
レオニード・・・。
なぜ・・・。
* * * * *
(2)
このところ表面上は精神的にも落ち着いて食も進み顔色も良くなってきた。
自分で決めた日課があるらしく、毎日同じように図書室やお兄様の書斎にいる。
新聞や雑誌など最新のものは禁止されているので、以前から我が家にある、言ってみれば難しく古臭い内容の本ばかりだけれど、彼女はものともせず熟す。
ドイツ語やフランス語は勿論、英語もスペイン語もイタリア語も・・・。
それに何より驚いたのはロシア語も完璧だと言うこと。
フランス語しか使ってはならないとお兄様から命じられているのは、ロシア語の禁止と言う意味だったのね。
私の前でも誰の前でも、それは秘密だった。
一度だけ図書室で気づかず読み上げていた。
私を見てとても困惑した表情になったけれど、お兄様には内緒にしておくから大丈夫と言うとほっとしていた。
どうしてそんなに沢山の言葉ができるの?
いろんなところに留学していたから・・・
それだけでここまでになるかしら。
*
日課の合間を狙ってリュドミールが捉えにくる。
その時は彼女も童心に帰ったように遊ぶ。
屋敷中を追い駆けっこしたり木に登ったり・・・少し静かだと思っていると、屋根裏部屋で砦を作って紙玉を投げ合っていた。
年の離れた姉とは親密ではなかったみたいだから、無邪気なリュドミールと気が合うのかも知れない。
勿論それだけではなく、彼女は本当に魅力的。
素直で明るくて優しくて、そして・・・あまり物事を深く考えないみたい、特に人の裏側などを。
穿った見方をすれば、ここでの立場を良くするためにリュドミールの機嫌を取る考えもあるけれど、彼女にはまったくない。
喧嘩は本気でやっているし、自分の日課を邪魔させはしない。
これまでずっと静かだった屋敷にピアノの音や歓声が響き、私まで楽しくなっている。
*
それに・・・お兄様。
アンナが、リュドミールと一緒にしでかしたことをあれこれ"告げ口"しているけれど、お兄様はまるで取り合わない。
執事も呆れ顔だ。
それはそうだろう、格調高い侯爵家に降って湧いたような"騒がしさ"・・・素性の分からない少女一人のために。
・・・何よりも・・・ご自分の書斎を自由に使わせている、お兄様の聖域とも言えるあの書斎。
勿論見られてはならない扉には鍵を掛けてあるのだろうけれど、私たちが勝手に立ち入るなど許したことも・・・いえ、私たち自身、考えたこともないのに。
先日何かの拍子に呼んでいた、"レオニード"と・・・。
お兄様・・・お兄様にとって彼女は何なのですか?
以前会ったことがあるように言っていらした。
それだけで?
それだけでここまで?
* * * * *
(3)
捕らえてから半年が経った。
未だ鍵の在り処は吐かぬ。
もっとも、すり替えた話自体の真偽も定かではないが。
拷問は・・・現時点では見送られているが、そのうち父上も業を煮やされて、血を見る事態になってしまうだろう。
鍵もだが反逆者との関係も重要だ。
こんな事態になるのなら二年前帰国させるのではなかった。
あの夕陽の突堤で捕らえておけばよかった、私の手の中に。
そうすれば彼女の心が穢されることはなかったのだ。
あれから更に詳細な報告を受け愕然とした。
つまりはあいつの周りの人間は大方死ぬか病になっているではないか・・・。
それらは心を剥き出しにしてしまったに違いない。
そんな時の恋は一層沁み込んだろう、深くまで・・・そう簡単に消えはしまい。
早くに対応しておくべきだった。
* * * * *
(4)
「どうしたの? 何かあったの?」
珍しくむくれているリュドミールに尋ねた。
「だって・・・怒るんだもん、お兄様」
「? どうして?」
「あのね、前からね、ずっと兵隊さんを見たいってお願いしているの」
「あら、お屋敷にも大勢いるでしょう?」
「ううん、違うの。本当の戦闘を見たいの。大砲とか鉄砲とかたくさん撃ってる」
「戦闘、ね」
「マフカは見たことある?」
「いいえ、ないわ」
「かっこいいでしょう? 撃ってみたいな、僕も。早く幼年学校に行きたいの。お兄様みたいになるんだ」
誰でも・・・撃つことしか考えない・・・撃たれるなんて思いもしない。
「だから見てみたいってずっとお願いしているのに、そのうちって。いっつもなんだ」
「そう。まだ子どもだしね」
この街が戦場になれば嫌でも見られる・・・その時生きていれば。
「だって見たいんだもん! お兄様ばっかりなんてずるいよ!」
ふと思いついた、あの男を困らせてやろうって。
「・・・レオニードがどこか遠くに・・・戦場に行く時はあなた、駅までお見送りするの?」
「うん、行くよ、お姉様と一緒に」
「そう。それなら・・・今度・・・」
「今度?」
「方法を考えましょう。でもこのことはヴェーラにも誰にも内緒よ。秘密が漏れたら行けなくなるから」
「うん!」
「そうね、まずは・・・お見送りはどこまで行くの?」
「うん、駅前の広場でね、整列を見てね、それから兵隊さんたちが順番に汽車に乗り込むの。お兄様たちは別のところから。だから僕達もそこまで行くの」
「人出はどう? たくさんの人がいる?」
「うん、いっぱいいるよ。兵隊さんの家族もいるしね」
「荷物は? 人が乗らない貨車ってわかる? どんなのか知っている?」
変化のない毎日に飽きていた私にとってこの企みは久しぶりに夢中になれることだった。
そして思いの外、機会はすぐにやってきた。
もう少し時間が経っていたら私も冷静になっていたかも知れないけれど・・・。
*
「いい? よく聞いて。明日のお見送りには行かないことにするの」
「どうして? それじゃあ戦いが見られないよ」
「嘘をつくのよ。朝ね、お腹が痛いって言うの、ヴェーラにね。お部屋で横になってお留守番するの」
「お留守番?」
「そう。そうしたらヴェーラは一人で見送りに行くでしょう? あなたは部屋で寝ているふりをしていて。でもすぐにね、抜け出すの、お屋敷を」
「そうか! それなら行けるね」
「駅は・・・どの駅か知っている?」
「モスクワ駅だって。シベリアから帰ってくる軍隊に反乱が起きたんだってさ」
「モスクワ駅・・・それでも少し遠いわね」
「大丈夫だよ、ネフスキー大通りをまっすぐ行けばいいんだ」
「今まで歩いたことある?」
「ううん」
「それなら・・・やっぱり馬車ね。誰か・・・御者の・・・」
「ミハイル?」
「ミハイル?」
「うん、いつもお兄様を・・・あ! そうか」
「ヴェーラも別の馬車で行くわよね」
「もう一台あるよ、いつもアンナたちが使っている小さなの。馬番のイワンが御者になるんだ」
「それがいいわ。こっそりお部屋を抜け出して厩に行って直接イワンに言うの、治ったからお見送りに行くって。オクサーナもいいって言ってるって。ぐずぐずしているようだったら、早く出ないと間に合わないってせかせばいい」
「うん」
「そしてね、駅に着いたら人に紛れてイワンから離れてその汽車まで行くの。できるかしら?」
「大丈夫だよ、モスクワ駅はこの前も行ったし」
「それから荷物を載せる車両にね、誰もいない時に乗るのよ。隅っこに隠れて」
「うん!」
「じゃあさっそく準備しないと。しっかり厚着して暖かくしてね。貨物車は火がなくて寒いから。行くのはシベリアだし。そう、今日の晩餐は十分食べて。お腹が痛いって嘘つくのだから明日の朝は食べられないものね。私がこっそりパンを持ってくる。それからお茶の時間のお菓子を取っておきましょう。お茶もね、この間見せてくれたあの水筒に入れて」
「うん! ピクニックみたいだ!」
「でもあんまりは持っていけない、イワンに見つからないようにマントの下に隠さないとならないから」
「そうだね。気をつけるよ。ああ、わくわくするなあ。やっと本物の戦闘が見られるよ。ありがとう、マフカ!」
*
上を下への大騒ぎ。
坊っちゃまが行方不明ですもの。
黙っているのは得意よ、いくらヴェーラに聞かれても。
そっくりね、問い詰め方。
言い方も表情も・・・やっぱり兄妹。
ただ・・・黙っているっていうことは・・・罪を認めたって意味ね、ヴェーラにとっては。
罪?
あなたの弟君のたっての望みを叶えて差し上げただけよ。
イワンも散々絞られているよう。
お返しよ、離れに向かう時、見られて。
言いつけたのよ、彼が。
ずっと閉じ込められて食事もなし。
でも大丈夫。
お菓子やパンを余分に取っておいたのは、何もリュドミールのためだけじゃない。
日持ちのするものを選んで戸棚の奥に。
お茶もたっぷり、高みの見物!
私も馬鹿ね。
かえって監視が厳しくなって。
だけど・・・どうせ逃げられないのなら・・・私を、私のこれまでを侮辱した罰を受けるといい。
*
一週間もしないうちに・・・リュドミールが戻って・・・多少ぎくしゃくした日常生活が始まった。
引き離されたから、どこまで行けたのか、どんな様子だったのかも聞けずじまい。
でも・・・思いがけず・・・今回わかった・・・逃げ出す機会はまだあるって。
特に彼も夫人もいない時は・・・ヴェーラなんて大したことはない。
しばらくおとなしくしていて、ほとぼりが冷めたら・・・訪れた機会を逃さないように準備しておこう。
* * * * *
(5)
そしてようやく彼が帰ってきた。
あの企みは・・・リュドミールは大して怒られなかった様子で私には尋問すらなく、また以前の毎日に戻った。
彼にとって戦果の前には些細なことだったんだ・・・何だ、つまらない!
反乱軍を鎮圧して大勢の兵士を殺害、逮捕してきたらしい・・・勲章を授けられ階級も上がったとか・・・リュドミールが頬を紅潮させて知らせに来た。
お屋敷ではもちろんのこと、あちこちでお祝いの会も開かれていてアデール様も上機嫌、まるでご自分が主役のよう。
今日も飽きずに着飾っておでかけみたい・・・。
なのに廊下で見かけた彼は・・・どこか元気がなかった。
暗い表情で・・・いつもよりもっと暗い表情で窓の外を見ていた。
あっ?
「だ、誰か!」
待って・・・今なら裏口には誰もいない・・・でも・・・。
・・・汗をかいている、真っ青、意識が・・・?
「・・・しっかりして。今、人を呼ぶ」
「ああ、お前だったのか・・・大丈夫だ、ちょっと眩暈がしただけだ。すまぬ、肩を貸してくれぬか」
私・・・どうして・・・。
「・・・まったく・・・大した策士だ、お前は。褒めておこう」
「・・・ありがとう。でも実行したあなたの弟も大したもの、将来有望ね」
「・・・ふん・・・そう言えば・・・奴に会った、アレクセイ・ミハイロフ」
「えっ?」
「・・・」
「どこで? どこで会ったの?」
「・・・」
「ねえ、どこで? どんな様子だったの?」
「・・・何も教えぬ、これがお前への罰だ」
「お願い、教えて・・・彼の、クラウスの様子は? 元気だった?」
「甘えるな、何を暢気なことを言っている。忘れたか? 奴はお尋ね者だ。私の敵だぞ」
「でも・・・お願い、教えて・・・」
「そんなにあの男が恋しいか。ふん、低能な女どもが恋に身をやつすのは、うんざりするほど見てきた」
意地悪!
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