翡翠の歌

32 待たれる命




(1)



あの悍ましい出来事から寝つく日が多くなってしまった。
一時、取り憑かれたように激しい曲を弾いていたためか肩や腕の古傷が痛み出し、アンナがいろいろと手当てしても治まらない。
食も進まず、赤ちゃんのためにと思えば思うほど、つわりでもないのに吐き気が止まらなくて。

本当に、弱くて情けない。

レオニードは毎日のように見舞ってくれる。
それが今の唯一の支え。



彼は私をとても心配している、そして赤ちゃんも・・・。

不思議、ね。
・・・誤解していたのかも知れない、お父様とは違うのかも知れない。
彼が求めているのは、ただ体だと思っていた、妻と違って言いなりになる女の体・・・私はお誂え向き。
戻る処も助けてくれる人も何もない。
剰え捕らえておくよう御命令まで受けている。

でもそれなら、子どもなんて不要。
それどころかとんだ厄介事。
なのに・・・産めと・・・産んでくれと・・・私との子どもが欲しいのだと。





私は?  私はどうなのだろうか。
彼の子どもが欲しいの?

今でも・・・愛しては・・・いないのに・・・あの夜から力づくで奪われているだけなのに。
閉じ込められて脅されて買われているだけなのに。
数え切れないほど抱かれた・・・忌まわしいけれど体は彼を求めている・・・だって安心できるの、抱きしめられると・・・心は・・・違う、違うはずだけど。

でも生まれたら・・・本当にもうクラウスとは終わり・・・。
想うことすら不義になる。
ああ、だけど・・・そうなったら、レオニードはずっとクラウスを守ってくれる。
私の人生を全て手に入れたのだから・・・。



子どもというものは・・・本当に・・・男と女が交われば、それだけでできるものなのだろうか。
それとも・・・神様が授けてくださるものなのだろうか、何か、人にはわからない御意志によって。

それならば・・・そうであってほしい・・・御意志に従いたい。





「どうだ、具合は」
「あ・・・ええ・・・だいぶ・・・よく・・・お医者様も心配ない・・・もう少しすれば・・・起きられるって・・・そうしたらもっと・・・動くように・・・したほうがいいって・・・」
「そうか。それはよかった。養生して元気な子を産んでくれ」
「・・・ねえ・・・名前は? 名前は・・・どうするの?」
「そうだな。そろそろ考えるとするかな。代々の名前からとるのが定石だが」
「・・・代々の?」
「我が家は男にはミハイルやセルゲイ、女にはアレクサンドラやスヴェトラーナが多いな」
「・・・そうなの・・・あなたたち兄弟は・・・違うわね・・・」
「父上は少し・・・独自の考えをお持ちだった。何事にも初めというものがあるとか、先人に囚われずとか」
「ふうん・・・それならこの子は? あなたも・・・そういう考え?」
「どうするか・・・いざ自分の番となると難しいものだな」
「・・・他の子には・・・どうつけたの?」
「他の?」
「・・・他の・・・子ども・・・あなたの・・・」
「・・・他の子など、おらん」
「え?」
「何を言っておるのだ、お前は」
「だって・・・他に・・・他の屋敷にも・・・囲っているって・・・」
「・・・お前・・・」


しばらく静かに見つめ、頬を撫でた後、言った。


「よいか・・・他に女はおらぬ。お前だけだ。初めての子だ、私にとっても・・・」
「? でも・・・」
「・・・ずっと・・・母を侮辱して悪かった。お前自身も・・・。娼婦などと思ったことは一度もない。偽りの・・・言葉だった」
「・・・」
「愛している。お前だけだ」
「・・・レオニード・・・」
「少し休め。名前は・・・次に来る時までに考えておこう」


嘘でもいい。
優しい嘘なら、ないよりは支えになる、今は。


*     *     *     *     *



医者は・・・無事に生まれるかはわからぬと言う・・・あまりに母体が弱っていると。
しかも早産となれば彼女自身も危ういと。

だが・・・生まれさえすれば・・・すべて、私のもの。
そして・・・あいつも諦めがつくというものだ、別の生き甲斐を得て。

何とかこのまま穏やかに過ごさせよう・・・あと少しだ。


*     *     *     *     *



(2)



その日は久しぶりに一日中起きて、調度品の整った子ども部屋を見て回り、揃えた産着や寝具などを手に取っていた。

本当に小さくてかわいい。
赤ちゃんってこんなに小さいのね、私、抱くどころか間近で見たこともない。
上等なレースを惜しげもなく使った沢山の綺麗なもの・・・。
私には縁のなかったもの・・・。





お母様・・・。

身籠った途端に捨てられて、堕ろすこともできたはずなのに、でも産んでくれた。
頼る人もなく、いえ、寧ろ誹りの中で極貧だったのに・・・。
私に・・・何を求めたの?
私は・・・それに応えられた?

あれはいつだった?


アリアを?
そう。それだけじゃなくフランス語も歴史も文学も・・・あなたが知っていること、みんな教えて欲しいの
・・・この間の・・・気にしてるの? 放っておけばいいんだよ、あんな連中
・・・そうね。でも・・・あの方たちは間違ってはいないわ、母さん、本当に何も知らないもの
そんなことないよ、何でもできるじゃないか。裁縫だって料理だって
・・・あなたと離れて暮らしていた間にね、学んでおけばよかったわ・・・ここで必要なこと。まさか後妻に迎えられるなんて思ってもなかったし、教えてくれる人もいなかった。あなたはずっと勉強していたのに、恥ずかしい
母さん・・・
ね、お願いよ。でも・・・遅すぎるかしら?
大丈夫、母さんなら。わかったよ、全部・・・教えてあげるから


お母様にあんな思いをさせたのは・・・お父様。
自分の都合で知らない世界に放り込んだ。
身を守る何の術も持たせずに、あの人たちの中に・・・。



私がいたから、お母様は後妻に迎えられた。
私が頑張ったから、お母様は後妻でいられた。

でも、帰国して再会して・・・あっと言う間に逝ってしまった。

なぜユリアなんて名付けたの?
まだ寒い早春に生まれたのに。



慰めようとしてなのか、去年より沢山のミモザが飾られている。

ごめんなさい。
私はあなたの敵の子を産む。
そうしたら・・・私もあなたの、敵、ね・・・それとも、初めから・・・そう?



レオニード!
どうしたの?
こんな時間から・・・

涙?
そう、ごめんなさい、悲しいわけではないの・・・
ただちょっとお母様を・・・昔を思い出して・・・
大丈夫よ、もう





「どうした?」
「ううん、何でもない」
「まあ言ってみろ」
「あのね、あなたがたくさん食べるのを見ていると、私も何だかいつもより食べられるって思って」
「そうか? そう言うものか」
「ええ、そうよ」
「・・・出来る限り、ここでとろう、お前がよいなら」





彼は優しく口づけした、いつものように。
そして私が背に腕を回すと、唇は首筋を辿っていった。
大きな手が背や胸に・・・安心する。

お父様なのよ、この子の。
いろんなことがあった・・・愛してはいない・・・でも、この子の・・・。
もう、それだけでいい。



その時だった。
階下で何か騒ぎが起きた。
女性の大声がする。
アンナ?  それに、まさかヴェーラ?

銃と軍刀を手に彼が扉を開け、そして・・・その向こうに彼女が見えた。
なぜ、あなたが?





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