翡翠の歌

35 教会




(1)



受け入れようと・・・思った・・・覚悟を決めていた・・・神様がくださった命を・・・。
それでもう二度と会えなくなっても、私は精一杯彼を守った・・・力の限り・・・。
その事実は・・・きっと・・・こんな人生の中でも輝きを放つに違いない・・・例え弱い光であっても・・・私にとっては・・・唯一の・・・。

二人で育てて・・・この子のお父様として・・・彼を・・・愛そうと・・・。
憎んだままでは、軽蔑したままでは・・・そんな男との間に生まれたなんて・・・かわいそう過ぎるから。
そして・・・いつの日かお父様のように彼が私たちを捨てても・・・私はお母様のように守って・・・生きていこうと。

それなのに!
私の弱さから旅立たせてしまった・・・。


*     *     *     *     *



「レーナ?」
「申し訳ありません、無作法を・・・お許しください、奥様」
「怒っていやしない、どうして泣いているの?」
「・・・お幸せになられると思っていたものですから、お子様がお生まれになれば・・・。旦那様も楽しみにされていましたのに・・・」
「・・・そう・・・ね。泣いてくれてありがとう、あの子も喜んでいるでしょう、レーナ」
「奥様! あの時! あの・・・あの時、あたしが・・・」
「え? なあに?」
「いえ、いえ! 何でもありません、奥様」


あれから数週間が経ち、ようやく床を離れられた。
久しぶりに空気を入れ替えるので、大きなほうのサロンで休んでいる。
初めて入った部屋・・・薄黄色の布張りの壁が少し古びていて、かえって落ち着く。

いつの間にか春も終わり、夏の光になっていた。

クラウス。
本当にもう、いないの?  この世に・・・。

本物の恋人同士なら・・・気持ちが通じ合っているって・・・物語にはよくある。
お互いの命の存在を・・・無意識に感じるって・・・何かあれば感じるって・・・。
結局、ただの・・・知り合いだった、私たち・・・。

そう・・・きっと、アナスタシアにはわかった。
私、馬鹿みたい。
あの二人が・・・恋人だったのよ。



近頃はこうしてよくバイオリンを手にする。
今なら彼も見逃してくれると思うから。

ケースのこのしみ。
もしかしたら、あの時の私の。

守っているつもりが何もできていない私への烙印のよう。

暖かい木の温もり。
クラウスの音楽が染み込んで、その情熱が伝わってくる、今も。

切られた弦・・・見るたびに辛いけれど、でも外せない。
彼が張ったのだから・・・聖ゼバスチアンのレッスン室で。



どうして・・・火事なんかに・・・。
元の監獄のままなら、どんなに厳しくても生き抜けていたかも知れないのに。
私の・・・せい・・・。


*     *     *     *     *



「奥様、リュドミール様がお見舞いにお越しです。こちらにご案内してよろしいでしょうか?」


え?  リュドミールが?  何故?


「・・・ええ、いいわ」


しばらくして、あのリュドミールが緊張した面持ちで入ってきた。
隣に座るよう手で招く。


「お久しぶりです。お見舞いに参りました。お加減が悪いと・・・」
「こんなところに来てはいけない、レオニードに怒られる」
「いえ、兄上が教えてくれたのですから、大丈夫です」
「・・・そう」


リュドミールはすっかり大人びていた。
モスクワの陸軍幼年学校で学んでいる、言葉遣いも表情も全く違う。
わかっていたこと、だけど・・・何だかがっかりして一気に疲れてしまい、まるでレオニードにするみたいにもたれかかった。

緊張が制服を通して伝わってくる。

変ね、この間まで二人でじゃれあって、お屋敷中を駆け回ったでしょう?
お兄様の女だから、もう手も握ってくれないの?

そんな意地悪を言ったらそれこそ泣き出しそう・・・やめておこう。

どこまで話しているのだろうか、レオニードやヴェーラは。
わからないから何も話せない、私からは。


「ね、バルコニーに出ましょう、風に当たりたい」


ふらつく私を支えながら、リュドミールは連れて出てくれた。
新しい緑を湛えた木々の間から日差しがきらきらと届いていた。

この屋敷に連れてこられてからずっと・・・私の使う部屋の窓や扉には全て鎖鍵が掛けられていた、絶対に逃がさないために。
つい最近、外されて、すがすがしい夏の空気を取り込んだり、バルコニーに出られるようになった。


「さあ、学校の話を聞かせて」


こう言うと目を閉じて寄り添って座り、彼の手に私のを重ねた。
どぎまぎしているのはわかったけれど、そうしたかった・・・無邪気な温かさを感じたかった・・・。
人から見れば、いかにも娼婦と言った振る舞いかも知れない・・・。
いいの、もう、そうだから・・・どう気取っても・・・。

リュドミールはいろんな話をしてくれた。
学科のこと、友人のこと、教師のこと・・・。
大変なのね、大貴族の息子でも優遇してくれはしないでしょうからね。

その時、瞼に木々を抜けて夕陽が届いた。
はっとして見て、愕然とした。

ああ、あの教会? 木立の間から遠く小さく、でも、あの教会が!
ではここは?  この屋敷は?
レオニード?





気づくと寝台におり、心配そうに見ているリュドミールがいた。


「・・・大丈夫よ、大丈夫だからお帰りなさい」
「でも・・・」
「・・・今日はありがとう、だけど・・・もう、来ないで・・・辛いから・・・お願い」


こめんなさい・・・あの頃の無邪気な二人はどこにもいないの。
あなたは、将来有望な士官候補生。
私は、あなたのお兄様の・・・ただの慰み者。

肩を落としたリュドミールを見送り、さっきの景色を思い返した。
あの教会・・・どうしてここから?  この屋敷から?


*     *     *     *     *



(2)



「リュドミールが泣いていたぞ」
「え?  そう・・・だって・・・」
「会いたくないのか?」
「・・・あなたこそ・・・あなたこそ、弟に自分の女を会わせるなんてどう言うつもりなの?  私がどんなに惨めだったか!」
「お前・・・」


お前は・・・愛人というものに極度の嫌悪感を持っているのだな、今も。
権力のある男の論理と言うが、私はお前を愛している。
あとはお前の心だけだ。
それを少しでも私に向けてくれれば、立場は愛人関係であっても構わぬではないか?

貴族の結婚などおおよそ欺瞞に満ちている。
形ばかりの正妻などより、愛人のほうがよほど心が通っているのではないか?



言っていたな、母親を正妻にしておく為に父親の要求は何でもやってきたと、期待以上に習得してきたと・・・母娘共々再び捨てられぬ為に・・・。

そんなお前を私は愚かにも娼婦と罵ってしまった、娼婦のように抱いてしまった。
あの男を忘れぬお前を傷つけてしまいたくて、その傷口から奴への想いを掴み出してしまいたくて。

お前にとって私はアルフレートと同じか。
そう思わせてしまったのは他ならぬ私だ・・・今更後悔しても遅いが。





アデールとは・・・離縁する。
再婚はできぬが、正妻がいなくなればお前は正妻同然となる。
非礼な扱いを受けぬよう十分に遇しよう。
それでは駄目か?
もうあいつはおらぬのだ・・・私と共に人生を歩んでいかぬか?



しかし今その問い掛けはできぬ。
お前の中から激情を呼び覚ましたくない。
まだ失った子を思い、考えが及ばぬようだが、いずれ気づくだろう、私の愛人になっている必要のないことに。

その時奴の後を追うような真似はさせぬ、例え何を使ってでも。
お前が大切に思うレーゲンスブルクの姉がよいか・・・。

そんな情けない行為をさせないでくれ、これ以上、私に。
愛でなくていい、生きる為に縋り、利用すればいい。

後生だ。


*     *     *     *     *



(3)



あれからずっと抱くことはなかった、優しく口づけして寄り添って眠るだけ。

彼が訪れると私は新聞や雑誌の記事を元に当たり障りのない話をしピアノを弾く、静かな曲を・・・。
よほど疲れているのだろう、穏やかでゆっくりとした曲を弾いてあげる。

私もそれがいい。
肩や腕の傷が近頃とても疼く。
まだ指は思い通りに動くけれど、そのうちにどうなるか。
戦場に行ってもないのに傷だらけの体。
とても若い女の体ではない。



そう言えば・・・あの首飾り、名の日の贈り物・・・。
レースみたいに編まれた細かい金の鎖のそこここに真珠が散りばめてあった。
綺麗だけれど・・・高価なのでしょうけれど・・・。

でも嬉しかったのは・・・あの子を入れてくれた、侯爵家のお墓に。
とても異例のことらしい、アンナも驚いて涙ぐんでいた。
体調が戻ったら連れて行ってくれるって。

カトリックの祈りはここからは届かないかもしれない・・・それでも毎日祈っている・・・あの子が天国で幸せになりますようにって。





はたから見れば、私は幸せな女なのだろう。
大きくて暖かい屋敷に侍女、食べきれない食事に、ことあるごとに贈られる宝石、大貴族の庇護。
満たされないのは・・・贅沢なの?

レオニード・・・。
あなたがわからない。

とってあった耳飾り・・・この屋敷。

アンナに聞いてみた、ここはいつから侯爵家のものかを。
五年ほど前から・・・でも答えは聞かずともわかっていた。
ある伯爵家から破格の額で買い取った。
時折訪れて一時を過ごしていたらしい。

あの日・・・都に着いてすぐあの突堤に来てみた。
そこで巻き込まれた暴動、流れ弾に当たった。
きっとその日もここから眺めていたのだろう、あの夕陽を。
そして私を見つけた・・・そして助けた。


初めて会った時から・・・


神様・・・。

神様の御心は?

問うてはなりませんか?





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