(1)
彼女がここを離れてもう二年経つだろうか。
私はずっとモスクワにいた。
どうしても・・・ここにはいられなかった。
*
あの日、それまで穏やかに接していたお兄様が突然怒り出し、部下と共にここから連れ出して行った。
討伐隊の詳細が活動家たちに漏れていたらしく、兵舎やモスクワへ通じる橋が爆破され、その犯人だと疑ったのだ、邸内の誰かと通じて情報を流したと。
彼女をどこに?
多分、あの監獄・・・政治犯や疑いのある者たちを収容し、死んでも構わないとばかりの過酷な拷問を加える。
お兄様は親衛隊の氷の刃と呼ばれる方。
そんな素振りは私たちには見せないけれど、あの時のお兄様は恐ろしかった。
例え少女にでも手加減はしないだろう。
目前で繰り広げられた騒ぎに衝撃を受けたリュドミールを宥めて寝かしつけ、堪らずエフレムと会っていたところに部下たちと踏み込んで来た。
ロストフスキーが私を彼から引き離す一方で、お兄様はエフレムをスパイと、活動家のスパイと罵った。
そんなこと、あり得ない!
否定して! エフレム! 早く否定して!
活動家なんかじゃないって言って!
ああ! 私を利用したなんてそんなことないって言って!
背後で響く銃声・・・彼は処刑された、何も言わずに・・・言わせずに。
*
何を話し、何を話さなかったのか。
何に興味を持っていたか。
他の使用人や出入りの商人との関係、立ち回り先のこと。
明け方まで続いたお兄様の尋問は容赦なかった。
特にお義姉様のこと、彼女のこと。
繰り返し繰り返し・・・畳みかけるように問われた。
ああ・・・その時になってやっと・・・やっと、彼女について不自然なほど聞かれたのを思い出した。
本名や国籍、素性、この屋敷にいる理由、お父様やお兄様との関係・・・遠回しに、他の話題に巧妙に紛れて触れていた。
でも私は敏感に嗅ぎとり、はぐらかした・・・彼女に気があるのかやきもちを焼いたから。
お兄様は答えた、彼女が教えたのかと尋ねると。
血を滴らせ気を失いながらも、彼女は何も言わなかった、抗議も弁明も命乞いも一言も発さず、そのまま口を噤んで死ぬつもりだった、けれど、それならばまず彼を殺すと脅してようやく話したと。
その数日のうちに逃げるようにリュドミールとモスクワへ向かった、入学準備を口実に・・・まだ早かったのに。
宮廷行事やアナスタシアの結婚式、どうしても外せないことを除いては、徹底してお兄様を避けた。
そしてお父様たちが暗殺されて・・・お兄様が正式に爵位を継がれて・・・都に戻ってきた。
私達は無言で微かに頷き合った。
だって・・・家族だから・・・私たちは。
残された者がまとまらなければ生き残れない、誰一人。
憎むべきは、周りにいる敵なのだから。
*
そう、敵は弱い部分を巧妙に突いてくる。
エフレムのことは・・・私の落ち度。
きっと私の性格を見抜いて彼が遣わされたのに違いない。
素朴で実直で、理知的で文学的で学識もあった。
ああ、そうよ! 情熱的でロマンチックで、控え目で遠慮深くて・・・今でも褒め言葉しか出てこない・・・出会ったことのない男性。
なのに!
モスクワに向かう私の背にお兄様が投げつけた事実・・・彼は結婚していた。
二人で・・・二人して私を辱めていたのだ。
ああ、どれほどの情報が彼を経て敵に伝わっていたのか。
それが幾人の兵士の命を奪ったのだろう・・・その母や妻を悲しませただろう。
私も処罰されて不思議ではなかった。
侯爵家もお兄様も廃されていたかも知れない。
不問に付されるためにお父様たちが何をどれだけ犠牲にされたか、私は都合よく見て見ぬふりをしてきた。
そして・・・その代償がお父様とお母様の命・・・。
相変わらずお忙しい軍務、それを幸いに彼の話は私たちの間で再び口の端に上ることはなかった・・・彼女についても。
数年前に我が家の所有となったあの屋敷にいるらしい。
陛下のご命令によって監禁されている。
* * * * *
(2)
「あ・・・あの・・・!」
「何?」
「あの! 向こうでレーナが・・・」
「どうしたの? お召し替えの最中でしょう」
「すみません・・・でも・・・」
「・・・奥様、申し訳ございません、こちらで少しお待ちを」
*
「何があったの?」
「アンナ様、すみません、お掃除してましたら窓から・・・」
「窓から何?」
「あの・・・小鳥が、小鳥が入ってきてしまって・・・追い出そうとしたんですけど・・・」
「鳥だって!? 何てこと!」
*
だいぶ、伸びた。
こんなに伸ばしたの、初めて。
少し切りたいって言ったけれど駄目だって。
何が「旦那様のお好み」よ、私は人形じゃない。
髪一つ自由にならない人生なんて。
この服・・・新しい。
クリーム色でサラサラして。
遠目にはわからない同じ色の刺繍がいっぱい、裾には貝のビーズが・・・。
あの時の衣装に似ている。
勿論こちらのほうが、比べようもなく高価なのだけれど。
一人で着ていたら突然扉が開いて。
みんな見ていた、一瞬、静まり返った。
そりゃあ女だもの。
似合わなかったらそれはそれで・・・。
あの時は、あの頃は・・・いつ見破られるか怯えて生きていた・・・でも思い返すと滑稽なことばかり・・・自分で自分の首を絞めて。
何をしていたんだろう・・・貴重な、人生に一度きりの青春だったのに。
*
「お待たせいたしました。あ、ご自分で?」
「このくらいできる、私にだって。何があったの?」
「申し訳ありませんでした。誤ってサモワールのお湯をこぼしてしまいまして。それだけで二人が大騒ぎを」
「あら、でも火傷は? 大丈夫だったの?」
「はい、怪我は何も。ですが後始末を致しますので、しばらくサロンのほうでお待ちいただけますか?」
「ええ、構わない。あんまり叱らないで」
*
「いい? このことは・・・鳥のことは、旦那様にも奥様にも絶対に申し上げてはいけないよ。これが知れたら大変な罰を受けるからね」
* * * * *
気がつくと、寄り添い、顔を埋めて眠っている。
心地よい香りと温かさで私もよく眠れる。
待てばよかったのだ、気長にひたすらに、お前を尊重して。
そうすればいずれは自ずから心も開いただろうに・・・傷口などつけずとも。
辛く寂しい人生を送ってきたお前が求めていたのは・・・あの男ではない・・・安らぎなのだから。
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