(1)
「? あの、アンナ様、こんなものが」
「あら、どうしたのかしらね、あちらの戸棚にまとめてしまったはずなのに」
「・・・どうしたの?」
「いえ、この・・・ヴェーラ様の手袋がお衣装の中に入っていまして」
「まあ、不思議。うっかり紛れたのね」
「どうしましょう?」
「リュドミラに伝えておくわ。いつラドガにいらっしゃるかわからないから」
「いいわよ・・・レオニードに頼んで返してもらうから、そこの引き出しに入れておいて」
「そのようなことを旦那様には・・・私がお屋敷に届けますので」
「・・・そうだ! 忘れられたら嫌だから、証拠に私が持っているわ」
「あの・・・何の証拠、でございますか?」
「早駆けにね、勝ったでしょう? そのご褒美がまだなの」
手袋・・・乗馬の。
これがあれば少しは手を守れる。
彼に心まで絡めとられないうちに準備を進めていこう。
* * * * *
(2)
穏やかな関係になった・・・少なくとも私はそう思っている。
奴の命を守る為に抱かれ続け、もう体は、そして多少の心も私のものだ。
あの強い光ではなくとも、それでも微笑むようになった、自然に接するようになった。
だが思いもかけぬきっかけで再び奴に引き戻され、そのたびにやり直す。
*
この間は膝の上で深い愛撫を受け入れている最中に、彷徨っていたお前の心に何かが触れ、凍りついてしまった。
涙を一筋二筋流し、逃れようともがき始めた。
そのような勝手は許さぬが、暫くは素直ではなくなった。
またいつだったか、お前には似合わぬ力強い曲を取り憑かれたように弾いていた。
あまりに狂気じみた様子になってきたので手を掴み止めさせたが、向けた顔は敵を見るあの表情。
そして、ラドガでまたお前は・・・。
何を思い出した? あの遠乗りで。
あれほど得意と思っていなかった。
急ぎ追いかけたその先で、尋常でない速さで馬を駆るお前。
気性の荒いあの馬を難なく乗りこなし、寧ろ一体となり岬を目指していく。
流れる金髪が朝日を受け天使そのものに見え、早く捕まえねば飛び立ってしまうかのようで。
しばらくして振り返った瞳は、先程までのそれではなかった。
お前からドイツでの一切の記憶を消し去ってしまいたい。
*
お前に任せる。早く授かるように
何も知らぬ、か。
そうだろうな。
体だけでなく、知識も欲望もないようだった。
まだ教えていなかったか、伯爵は。
諜報活動には不可欠なはずだが。
熟すのを待たずにもいだ実はいつまでも青いまま、そのまま生を終えるのか。
いや・・・母になれば、子どもも大人になるだろう。
*
そのような頃だった。
厄介な知らせが齎された。
あの男が死んだ、監獄の火事で。
何と言うことだ!
奴を守る為にアカトゥイに移した、それが仇になろうとは!
これを知った時・・・わかり切った事態を考えると思わず身震いした。
もうお前のおらぬ人生など想像できぬ。
お前もどの道、囚われの身ならば、遠く奴を想いながら穏やかに暮らしたいだろう。
このまま何も知らずに・・・別の生き甲斐を得て。
幸い、例の返答で私の信用は確立している。
そして機嫌を損ねぬよう二度と尋ねまい。
* * * * *
(3)
何故、怯える?
・・・怯えてなんか・・・
何故、私を見ぬ?
見ている!
嘘をつくな! お前の瞳に私は映っておらん!
嘘じゃない・・・ ちゃんと見ている、言われた通りに・・・
それが娼婦の台詞か? 心身共に主を満足させるのが役目だろう!
ご、ごめんなさい。でも本当に見ているし・・・怯えてなんか・・・いない
では愛しているか? 私を!
・・・
何故答えぬ!
・・・
あの男も気の毒にな、このように強情な女だとは
止めて! お願い! 彼に手を出さないで! 何でもするから・・・あなたの言う通りに・・・
ではもう一度だけ聞く。私を愛しているか?
・・・あ・・・愛し・・・て・・・
ぼんやりと天蓋が見える。
夢・・・。
今夜も来なかった。
それなのに夢に出てくるなんて・・・。
クラウス・・・。
病気になっていない?
怪我をしてはいない?
そうは言っても酷い扱いを受けているのだろう、囚人だもの。
食べる物だって着る物だって、最低限の質や量。
いいえ、大丈夫。
アナスタシアが差し入れてくれるって言っていたじゃない。
レオニードも私に満足していれば、より手厚い保護をしてくれる・・・それがどんなものか確かめる術もないけれど・・・。
でも少なくとも彼は私に嘘はつかない、そこまで最低な人ではない。
陛下に信頼されて鍵を守っているのだもの・・・同じ役目を担う私を騙したりしない・・・きっと・・・。
だから・・・愛しているかって聞かれたら・・・愛しているって答える。
穢れた体から出た穢れた言葉で満足するのなら、何度でも言ってあげる。
そう、お安い御用。
*
「奥様、ご連絡がありました。夕刻よりおいでになられます。晩餐をこちらで・・・お泊りになられます」
「・・・そう」
嫌だ・・・前触れの夢だったんだ。
「お久しぶりですね。ようございました」
「・・・」
「ようやく・・・奥様がツァールスコエ・セローにご出発されたのです」
「・・・鬼の居ぬ間に洗濯、というわけ」
「あちこちのパーティにご夫婦で毎日お出ましだったようでございますよ。ご事情がご事情だけに・・・控え目なご披露でしたから、それだけではご不満なのでしょう」
「レオニードが?」
「勿論、奥様です」
「・・・やっと本当の侯爵夫人になれたから?」
「・・・そう、でございますね」
すごい!
姑が暗殺されて、嫁が張り切っているなんて!
「そして私は・・・晴れてその侯爵の妾になれたというわけね。私のほうは少しも望んでいないのに」
「奥様・・・旦那様は・・・レオニード様は思ってもおられなかったのですよ、お継ぎになられるとは」
「?」
「お兄様がおられましたから・・・。レオニード様はお国の為に軍人の道をお選びになりました。本当に生き生きとされていましたよ。士官学校の頃は随分と・・・奔放でいらっしゃいましてね。まあ・・・皆様同じようですが」
「・・・あなたはずっと仕えていたの?」
「はい、ほんのお小さい頃から・・・」
「それで? お兄様はどうされたの?」
「ええ、それが・・・はやりの決闘で・・・ご心労で大奥様も。当時は喪服をまとわない日はございませんでしたよ」
「そうなの。何も言わないから知らなかった」
「弱音を口にされる方ではありませんからね。しばらくしてようやくご結婚がお決まりになった時には・・・これで侯爵家も御安泰と胸をなでおろしたものでしたのに・・・あのような・・・」
「・・・まあ、だってお姫様ですもの、仕方ないでしょう? その補いに女をいくらでも囲えるのだからいいじゃない」
「奥様・・・旦那様は心から想っておられます・・・その証にあの・・・」
「やめて! 想っている女は打たないの! さあ、早く準備にかからないと間に合わないわよ」
嫌だ・・・何だか安心している。
ずっと来なくて・・・それはそれで気がかりで。
ラドガでも機嫌を損ねてしまったし、もう飽きちゃったかなって。
アンナが気を遣って本当のことを言わないだけかもって思っていた。
私から尋ねるのも癪だし。
でも・・・どんな人だろう、ほかの女の人って。
何人?
一人?
二人?
沢山お屋敷があるのだもの、三人くらいいるかも。
弱みを握って脅したり、お金や宝石でつったり。
予定外で跡継ぎになって、したい放題なんじゃない? 奥様同様に。
その中に、あの男を愛している人っているの?
彼が愛している人っているの?
どちらもありそうにない。
石でできているのだから。
* * * * *
(4)
月のものが来ると、アンナがほんの少しだけど気落ちしているのがわかる。
前はレオニードに気を遣って残念がってのようだったけれど、このところは違う。
「これは? いつものお茶じゃない」
「お気づきになられましたか? まだ少しですが薬草を加えました」
「薬草? 私、元気よ」
「ご安心ください、御当家に代々伝わる処方でしてね、西洋当帰
(дудник)や迷迭香
(розмарин)、茉莉花
(жасмин)などを使っております。もちろん旦那様のお許しもいただいておりますので」
「わざわざ、どうして。何のために?」
「それはもちろん、お子様を授かるためでございますよ」
「・・・」
「もう二年にもなりますのに・・・。味にお慣れになりましたら、濃くしてまいりましょう」
「・・・嫌よ・・・飲まない」
「旦那様のお望みでございます」
「望み? 妾の子どもが? 笑わせないで。あの人に一番いらないものじゃない」
「奥様、旦那様の前々からのお望みでございます」
「ああ! ああ! 捨てる口実が欲しいんだ! それなら伝えて! そんな回りくどいことせずに、ただもう来なくていいって、恨むどころか心から感謝するって。でもね、あの約束は忘れないでって言っておいてよ!」
「・・・奥様・・・お子様を授かればお考えもお変わりになりますよ。それに旦那様のお心もお分かりになります」
お茶だけでなく、料理にも浴槽にも部屋の空気にすら入れているような気がする。
アンナって・・・何でも徹底的にやるたちだから。
あれが来ると・・・ほっとする。
どうにかひと月凌いだって。
神様・・・せめて一つだけ、この一つだけは叶えてください・・・どうか。
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